私と先生の喫茶店日記

白味てこ

寝耳に水

「なんでこんな問題が解けないんだ?」


「お前らはバカか?」


 その男の教室からはいつも怒号が聞こえていた。

 彼の名前は森治もりおさむ

 とある予備校の講師をしている。

 腕はそこそこだったが、生徒からの人気は絶望的だ。

 彼は元より頭がよく、勉強が好きで得意だった。

 だからこそ、できない人間の立場に立つことが出来なかった。

 しかし、そんな彼はこの後人生のターニングポイントを迎えることとなる。

 果たして、それは吉と出るのか凶と出るのだろうか……。


 ♢♦♢


 子供の頃、何になりたかったっけ?

 俺はボーっと道で戯れる子供たちを見てそんなことを考えていた。

 確か俺は、学校の先生になりたかった筈だ。

 いつから変わってしまったんだろうな。

 そんな事を考えていても仕方がないのは分かっているつもりだった。

 どうしてそんなことを考えているのかというと、俺はつい先ほど職を失ってしまったからなのかも知れない。


 昨日まで俺はとある大手予備校で講師をしていた。

 学校の先生とは大差ないようにも見えるが実はそうではない。

 講師は学校の教師と違って1年契約だ。

 結果が出なければ次の年は職を失う、そんな厳しい世界で戦わねばならない。

 そんな事分かっていたつもりだった。

 でも自分は違うと、どこか心の中でそう思っていた。


 物思いにふけっていると、俺のポケットに入った携帯が震えていることに気が付く。

 誰からの電話だろう、そう思いながらディスプレイの表示を見ると、どうやら実家からの電話みたいだ。

 恐らくは、俺がまた今年も働くことが出来るのかの確認だろう。

 職を失うかもしれないと親には毎年冗談で言ってきたが、それがいざ本当になってしまうとは思ってもいなかった。

 実のところ、安定しない予備校講師という職業は親の反対を振り切ってまでなった職だ。

 だからこそ、まだ気持ちの整理がつかない今は電話に出ることが出来なかった。

 けれども、電話の内容は俺の想像とは違う内容だった。

 普段は留守電なんて残さない妹が珍しく留守電を残している。


おさむ兄ちゃん、お父さんが倒れちゃったの。実家に帰ってこれない?」


 ちっぽけなプライドから電話に出れなかったことを俺は少し後悔した。

 どうせ、やることもないし久々に実家に帰るか。

 そう思って俺はメッセージアプリで一言、「すぐ帰る」と送って実家へと帰ることにした。


 ♢♦♢


「久々だな、治。千世ちせが大げさな事言っちまってごめんなあ」


 病院に入って顔を合わせるや否や親父はそんな事を言ってきた。

 元気そうで何よりだ。

 ベットに横たわっているが、俺の顔を見てにこにこと笑っている。

 少し心配して損をした気分だが、まあ元気そうだし良しとしよう。


「治兄ちゃん、ちょっといい?」


 久々に会った親父と色々話をしていたら、急に妹に袖を引かれる。

 笑顔で明るい親父とは対照的に妹の顔は絶望で染まっていた。

 彼女に連れられて、親父の主治医の元へと連れていかれる。


「ご家族の方ですか?」


「ええ、息子です」


「落ち着いて聞いてください。お二人のお父様はもう長くは無いかも知れません」


 落ち着けと言われたが、これが落ち着いていられるだろうか。

 そして、俺ですらこんなに動揺しているのだ。

 年の離れた妹の千世は更に動揺しているはずだ。

 いや、俺はまだいい。

 職を失ったとはいえ社会人だ。

 その気になれば別の塾で働くことも難しくはない。

 でも、千世はまだ高校生で未成年だ。

 更に言うとお袋は千世がまだ小さいころに他界してしまっている。

 子供にして両親をどちらも失ってしまう悲しみは想像に絶する。


「我々も最善を尽くしますが、ご家族のお二人も悔いを残さぬよう覚悟して下さい」


 最善を尽くす。

 そんなもの常套句だろう?

 けど、俺達はその言葉に縋るしかなかった。


 再び親父がいる病室に戻ると、俺たちの顔を見て親父は察したようだ。

 いや、もしかしたら既に知っていたのかもしれない。

 先程の笑顔はきっと俺たちに心配をかけまいとしたものだったのだろう。


「なあ、もう長くはないんだろ?」


「ああ」


「じゃあ話が早えや。治も千世も母さんがいない中で立派に育ってくれたよ」


「待ってくれ親父。そんな今生の別れみたいな事言うなよ」


「二人とも俺の自慢の子供だ。悔いはねえ。けどな、心残りが一つだけあるんだ」


「まだ死ぬと決まったわけじゃないんだし、気にすんなって」


「俺の店だけが心残りだ。なあ治、無理言ってるのはわかる。でも俺の最期の頼みだと思って聞いてくれ。せめて、千世が卒業するまでの3年間だけでも店やってくれねえか?」


 ああ、こんな状況で断れるわけもない。

 更に言えばこんな状況で俺がリストラにあったことを言えない。

 でも、いい気分転換にはなるのだろうか。

 元々小さいころから大学生になって家を出るまでずっと店を手伝ってきた。

 店の料理は作れるし、経営も多少の心得はあるし何とかなるだろう。

 そう思って俺は3年間という期限付きで親父の店を継ぐことになった。


 それから引っ越し作業で少し忙しかった。

 家財道具は友人たちに引き取ってもらい、残ったものと言えば大量の参考書くらいだ。

 妹の大学受験を見据えて何度か参考書を実家に持ち帰ったのだが、かえって嫌がられてしまう。

 何故だろうか、勉強とは素晴らしいことなのに。

 これだから、学生の相手は苦手なんだ。


 一人暮らしにまつわるものを色々と処分し、いざ実家へと帰ろうと思ったその日は大雨が降っていた。

 なんとなく幸先が悪いなと思いながらも、実家へと車を走らせる。

 実家まではおよそ3時間ほど。

 大雨の夜道だからか、車はおろか外を歩く人も少ない。

 おかげで、予想よりも早く着きそうだ。

 折角だし、妹に何か買っていくか。

 そう思って俺は実家近くのコンビニに立ち寄ることに。

 するとそこにはずぶ濡れの少女が一人佇んでいた。

 傘を忘れてしまったのだろうか。

 近くを通ると彼女はぐちゃぐちゃになった紙を握りしめているのがわかる。

 ちょっとした興味本位で俺はその紙を覗いてみると、すぐに何の紙か理解できた。

 理解して、唖然としてしまった。

 模試の結果だ。

 しかも恐らくは0点の。


「めっちゃバカだなお前」


 しまった、講師時代の癖でつい出てしまった。

 周囲に人は他におらず、すぐに自分が言われていると自覚したのだろう彼女と目が合ってしまう。

 彼女はびしょ濡れだ。

 だが、目から零れ落ちる雫はきっと雨とは違うものだとすぐにわかる。


「悪かったよ」


「いえ、事実ですから」


 数分後、俺の隣にはムスッとしながらコンビニスイーツを頬張る少女がいた。

 罪悪感からか、彼女に奢ってあげたのだが多少の慰めにはなっただろうか。


「お兄さん、数I、数Aって知ってます?お兄さんだって今解いたら私よりもできないはずです」


 いくら悪くても、0点より下は取りようがない。

 なんて言いかけてしまったが今度は抑えることが出来た。

 もっと言えば、数学は俺の得意分野でこの前まで教えていた程だ。

 勿論、高校生の模試レベルならば9割以上は当たり前で取れる。


「ごちそうさまでした。雨も止んだようなので私は帰ります」


「あのさ」


「なんですか?」


「月並みだけど、春先の模試なんて気にしなくても大丈夫だぞ」


「ありがとうございます。気持ちだけ受け取っておきますね」


 そういって、彼女は夜道に消えていった。

 もしも、教師にとって本当に親身になってその子供の事を考えられる人の事を生徒というのならば。

 俺にとっての最初の生徒が彼女になるなんてその時の俺は思いもしていなかった。

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