第22話 背伸びはしなくていい
僕が小説を書く時には、常に手元に必需品とも言える品を置いている。
ひとつは、音楽。先も述べたと思うが、話の臨場感を出すために書いている場面の雰囲気に合った曲を聴くようにしているのだ。
ひとつは、コーヒー。元々は眠気覚ましのために用意していたものなのだが、今では執筆活動に集中するためには欠かせないものになっている。一緒にチョコレートなんかがあると最高だ。
ひとつは、辞書。やはり文章を作るにあたって、分からない漢字や英単語なんかがあった時にそれを調べることのできる品は必要である。最近はインターネットでそういうツールなんかがあるのを見かけるが、僕はなるべく紙媒体の辞書を使うようにしていた。
特に辞書は、間違って覚えているかもしれない言葉の意味を確認するのにも重宝していた。
「ええと……朗々ってどういう意味だったっけ……」
使い込まれてくたくたになった国語辞典を手に取り、ぱらぱらとページを捲る。
最近歳のせいか小さい文字を見るのに難儀してきたが、まだまだ辞書は手離せそうにない。
目を凝らして目的の言葉を探していると、アオイが感心したように声を掛けてきた。
「へぇ、辞書を使ってるのか。辞書を使うのって学生の時以来じゃないかな。懐かしいね」
お前に学生時代があったのかよ、と思わずツッコミを入れたくなったが、スルーした。
「言葉をちゃんと正しく調べて使うのはいいことだよ。たまに間違った言葉の使い方をしてる作品を見かけることがあるけど、ああいうのを見ているとちゃんと言葉の勉強をしてから書いてるのかなって思っちゃう」
耳の痛い話だ。
僕が辞書を使うようになったのは、ある小説を書いていた時のことだったのだが──
当時、僕は「火蓋が切られた」という言葉を「火蓋が切って落とされた」という風に間違って覚えて使っていた。それをたまたま読んだ読者から指摘されて恥ずかしい思いをしたのがきっかけで、難しい言葉を使う時はちゃんと辞書で調べてからにしようと思うようになったのだ。
人間、幾つになっても勉強はちゃんとするべきである。
目的の言葉を調べ終えてぱたんと辞書の表紙を閉じた僕に、アオイは言った。
「だけど、辞書がないと使えないような言葉ばかりを使うのも考えものだよ」
「……どういう意味だ?」
辞書を傍の棚に片付けながら小首を傾げる僕に、彼は、
「辞書がないと分からないってことは、人にとっても難しい言葉だってこと。あまり難しい単語ばかりが並ぶ文章だと、書き手も大変だけど読み手も読むのが疲れちゃうんだよ」
読んでて疲れる文章ほど読みたくなくなる代物ってないからね、と言って彼は苦笑するのだった。
「小説は読んでて心地良いと思えるテンポの文章作りをすることが重要なんだよ。あまり読むのに苦労する文体だと、続きを読もうって気にはなりづらいんだ。拷問みたいな思いをしてまで読みたいだなんて普通は思わないでしょ?」
心地良いと思えるテンポの文章作り、か……
僕は、自分の学のなさが原因だとは思うが、辞書を結構多用して文章を書いている。
ひょっとして、それは自然と人に読みづらいと思われるような小説を書くことに繋がっていたのだろうか。
そんなんじゃ、人気を獲得するのは難しいかもしれない。
アオイは笑った。
「作家は無理して頭がいいふりをしなくてもいいんだよ。自分の手の届く範囲の言葉だけを使って書いた文章でも、十分に人を魅了することができるんだから」
例え小学生でも分かるような言葉しか使っていなかったとしても。
その物語に魅力さえあれば、十分に読者を惹き付けることができる。
会社で作る書類とは違うんだから、無理して背伸びする必要なんてない。まずは自分が理解できる範囲の中で、言葉を組み立てていけば良いのだ。
そうだなぁ、と僕は椅子の背凭れに背中を預けて頷いた。
「僕は自分のことを頭がいいなんて思ってはいないけど……無意識のうちに『小説らしい小説を書こう』って考えていたかもしれないな」
書きかけの小説を見つめながら、コーヒーを一口啜る。
「背伸びはしないようにするよ。読みやすい小説を読みたいって思ってるのはお前だけじゃない、僕も同じなんだから」
書きやすい文章と読みやすい文章は違う。でも、これからは誰が読んでも読みやすいと思えるような文章を目指して書くことを心がけようと思う。
読者のことを思って書くのが──小説家にとっては大事なことなのだから。
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