迦陵頻伽は夜に歌う

睦月ジューゴ

魔性

 夜の闇に溶けるように、青年は歩く。昼は労働者で賑わっているこの美空工廠付近も、日付が変わって暫くした今時分となると、残業が終わった労働者の一人や二人とすれ違えば多い程だ。

 ぽつりぽつりと等間隔で並び、明滅する街灯のおぼろげな光に誘われて、蛾や羽虫が身を焦がしながら舞い踊る。その愚かな姿はこの国の民衆によく似ていた。遂げよ聖戦、興せよ皇国、だとか、小奇麗なスローガンを掲げながら、その先に何があるとも考えず、理想に溺れて戦争を続け、狂乱する。思考せず、ただただ明るい方へ盲進するこの虫たちと何が違うというのだろう。

 羽虫の一匹が力尽き、ぱたりと地面に落ちた。馬鹿みてぇ。心の中で毒づき、足元の小さなコンクリート片を蹴飛ばした。弧を描いて飛んでゆく破片を目で追い、それから空を仰ぐ。スモッグで煙った夜空に、星は一つも見えない。ごうごうと、絶え間なく煙を吐き続ける煙突の、すらりと伸びた姿を見て、いつか読んだ絵本を思い出した。

 塩の結晶が、まるで雪のように空から降る世界が滅びるまでを描いた、物憂げな物語の中に登場する、枯れた白樺の森にどこか似ていた。

 塵で薄汚れた、無機質な森の道端で座り込む浮浪者たちの虚ろな視線を余所に、路地へ入り、細い道を進み、突き当りにある地下への階段を下りてゆく。

 ぎらぎらとした塗料で、猥雑な言葉が落書きされている混凝土の壁に手をついて、滑り落ちないようにしながら、どんどんと降ってゆく。空き缶を蹴散らし、横たわっている阿片か何かの中毒者を跨ぎ、やがて地下二階に辿り着いた。

 埃っぽく淀んだ空気がじっとりと全身に絡みついてきて気持ちが悪い。足元をよく見れば毒虫が這いまわっていたので、眉を顰めてそれを踏み潰す。そして階段から更に奥の方へ進み、一番奥にある「青猫」とペンキで書かれた札が下がっている、古びた木の扉を開いた。


 建てつけの悪い戸を開くと、ちりん、とドアベルが鳴った。彼の行きつけの酒場だ。あまり広くない店内は、かつて世界中を旅したという店主の趣味で、西洋の――敵国のバーを忠実に再現してある。橙色のランプは仄暗く店内を照らし、ゆったりとした小洒落た雰囲気を醸し出している。そしてシンプルな木製の丸椅子と丸テーブルが少数、全てが客で埋まっていて、その間では酔っ払いの愚痴や泣き言、反政府主義者の怒号と、アナーキストの理想論が飛び交っている。大人ってやつはこれだから。溜息を吐く。

 カウンターの奥には、どこから集めてきたのか、ワイン、コニャック、ダークラムなど、この国のものでない酒瓶がずらりと並んでいる。一度、飲んでみたいと注文したのだが、餓鬼にはまだ早い、と一蹴されて、ミントとレモンスライスを添えた炭酸水を出されただけであった。馬鹿にされているような気がするが、その味自体は気に入ったので、この店に来た時、いつもそれを注文する。財布に余裕がない時は、皿洗いや店内の掃除と引き換えに、そのレモン水を出してもらっていた。

 今日はどうするか――財布を開いて、溜息を吐き、カウンターに赴くと、いつもの、と告げる。店主はその浮かない顔を見て、全てを悟ったように苦笑し、皿な、と言う。どうやら今回もサービスをするつもりは無いらしい。

 店主は冷蔵庫から透き通った緑色の瓶を出して、栓を開けると、氷の入ったグラスに水を注ぐ。細かな泡がのぼり、しゅわ、と微かな音が立つ。瑞々しい黄色のレモンをスライスしたものと小さなミントの葉を添えて、彼の目の前にグラスを差し出した。どうも、と礼を告げ、グラスを持ちあげる。からん、と氷が揺れる音が耳に心地良い。一口飲むと、炭酸の爽やかな刺激が喉を通り、一瞬遅れて、レモンとミントがふわりと香る。その清涼感が好きだ。和に染まり、停滞しきったこの国の、どんな酒場でも飲むことは出来ないだろう。

 この店はインテリアといいメニューといい、敵国の文化を厭うこの国の風潮に真っ向から抗っているからこそ、無頼者たちによく好まれていた。しかし彼はそこまで過激な思想を持ち合わせてはいない。戦争をしているという事実を除けば、それなりの満足感を抱いて生きている。

 それでも通い続けるのは、この店にただ一人の歌手にして、愛おしい恋人に会う為だった。懐から金時計を出して時間を見る。そろそろショーが始まる時間だ。客たちの話題は歌姫一色に染まる。今日の歌は何だろうかだとか、これが楽しみで生きている、などの微笑ましいものから、たかが場末のバーに置くには勿体無い、一度は抱いてみたい、という下卑た話題まで。この店の人間全てが彼女を愛しているというのに、彼女が愛しているのは自分だけなのだと思うと、優越感で頬が緩む。

 ブザーが鳴る。人々は――青年も息を飲む。ややあって、舞台袖から彼女が姿を現した。背中の空いた薄紫のモダンドレスを纏い、風に弄られた花弁のように裾を閃かせ、歩く。すらりとした華奢な手足に、この派手な衣装は不格好なものではなく、寧ろはまた違った魅力をあやなしている。

 歓声が店内に響き渡ると、それを聞いた彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、敢えて歩を緩慢なものにした。どうやら焦らしているつもりのようだ。意地の悪いあいつらしい、と苦笑する。彼女はゆっくり、実にゆっくりと歩み、それから舞台の中央に辿り着くと、右を見、そして左を見て、ほんの少し頭を垂れた。観衆たちの喝采はやがて前奏が始まると、ぴたりと止まる。ふ、と照明が落ち、歌姫にスポットライトが当たる。

「――」

 歌が始まる。薄い唇から発せられる、慣れない筈の異国の言葉は、彼女の喉を通すと、不思議と耳に馴染む。気だるげな音楽、艶っぽく掠れた声の甘い響きを聴きながら、彼女を見る。うっとりとしたような表情で、どこか遠くを見つめながら歌うその姿は、息を飲むほど美しい。周囲を見ると、皆一様にして我を忘れたような顔をして彼女に見入っている。海の向こうの国には、歌で人を惑わす魔物が住むという。きっとこんな風なのだろう、と青年は思う。

 魔性だ。薬中もやくざ者も、誰もかれもが彼女に魅了され、身動き一つ取れなくなっている。こんなアウトローたちと共に、敵性音楽に浸っているなどと厳格な父に知れたら、反体制、頽廃主義、軽佻浮薄である、などと言われて、向こう半年は自宅の離れに軟禁されるかもしれない。しかし、その危険を負ってでも彼女の歌を聴きたくて、堪えられず、ショーの度に家を飛び出して、ここに来る。愛か魔性か、或いはそのどちらも、だろうか。


 今日のショーも大盛況のうちに終わった。ある者は指笛を吹き、またある者はディーヴァの名を連呼してアンコールを強請るが、彼女はその何もかもを意に介さず、涼しげな表情で舞台から降りて、楽屋に向かった。青年はそれを追うように、未だ余韻に浸る聴衆の隙間を縫って、楽屋へと続くドアへ向かう。そこでは店主が腕を組んで立っていた。時々彼女の熱狂的なファンが忍びこもうとするらしく、それを警戒して、ショーの後はいつもここで備えているそうだ。彼は青年と歌姫の関係を知っているので、何も言わずに道を開けた。青年は小さく頭を下げて、扉を開いた。

 暗く狭い廊下を歩き、フレームが歪んで隙間の開いた扉を開く。ノックを忘れていたが、気付いた時にはもう戸を開き切っていた。壊れた箱馬などの、がらくたが散らばっている部屋の中央で、彼女は少し疲れたような様子で、ぼんやりと天井を眺めていた。衣装もそのままに椅子の背にもたれて、長いフロートを埃っぽい床に無造作に垂らしている。舞台用に白く塗られた顔の、額のところに、ぽつりと珠のような汗が浮かんでいた。

「おう、お疲れ」

 青年が話しかけると、彼女は此方にゆっくりと顔を向け、それから、青年の名の形に、紅の引かれた唇を動かした。声は出ていない。

 彼女は言葉を失くした。歌うことしか出来ない。歌唱に特化されるよう、サイバネティック手術を受けたのだ。そういった人々は、俗に「歌唱機」と呼ばれている。彼らは自国文化に心身全てを捧げた「芸術品」として、あらゆる義務から解放される。徴兵さえも。また、その者の家族には国から半永久的に援助を与えられる。だからこそ、彼女は代償も厭わず、進んで手術を受けたらしい。「母が飢えて死ぬのを見るくらいなら、声なんていくらでも放り投げてやるわ」と。

 歌唱機は、歌と引き換えに言葉を話せなくなる。青年はこの手の技術について明るくないが、声帯の部分を機械で作られた疑似的なそれと取り換えられていて、インストールされた音声以外を発することが出来なくなっているのだという。かつてはさんざ翻弄された、あの憎まれ口を聞くことはもう二度と無い。

「今日の舞台も良かったぜ」

 青年が近付くと、彼女はゆっくりと立ちあがり、ドレスの裾を引き摺りながら此方に歩んで、それから青年の首に腕を回した。彼も彼女の折れそうな腰をぎゅっと抱きしめる。顔を寄せると、汗とドーランが入り混じった匂いがする。粉っぽいような甘い匂いを胸一杯に吸い込み、それから吐き出すと、どうにもならない気持ちになって、彼女の名を呼んだ。ふふ、と笑って、子どもをあやすように背中をぽんぽんと叩くと、彼女は歌い始める。疲れが残っているのか、ゆっくりと、息継ぎをしながら、囁くように奏でられる音曲は、舞台でのそれとは違う歌だ。何の歌かはわからない。舞台が終わった後に青年が会いに行くと、彼女は必ずこれを歌った。

「何の歌なんだ、それ」

 青年はいつも尋ねるが、彼女は答えず、歌い続ける。

「いい加減教えろよ」

 シルキーなミュージック。撫でさするような、口づけをするような声。青年の為にインストールしたという曲だが、その本質を彼は知らない。彼女は「たまには秘密を持つのも良いじゃない?」と意味ありげな文を綴るだけだ。やがて曲は終わり、彼女はふう、と息を吐いた。彼は彼女を抱いたまま、小さく拍手をする。

「よくわかんねぇけど、良い曲だ」

 彼女は称賛の礼の代わりか、青年の頬に軽くキスをした。ちゅ、ちゅ、と、小鳥が啄ばむようなそれは、情愛よりも親愛を孕んでいる。

「馬鹿、そんなんじゃあ、足りねぇよ」

 足りねぇよ、ともう一度言って、彼は彼女の唇に自らのそれを重ねる。一瞬、彼女は身体を強張らせたが。直ぐに力を抜き、青年の首に腕を回すと、より深い口づけを求める。良いぜ、欲しいならくれてやるよ。心の中で呟いて、紅の塗られた唇を割り、舌を滑り込ませて、上顎を嬲る。ん、と彼女が鼻を鳴らし、腕に少しだけ力を込めた。もっと深く。その媚びを掬い取り、彼は一層深く貪る。唾液を交わすと、官能を擽るように水音が頭蓋を犯す。本格的に下腹部が熱を増し、こんなところで盛るものじゃない、と一度解放すると、彼女は少し物足りなそうな、甘い光を湛えた瞳で此方を見ていた。駄目だ、と青年は苦笑する。

「お前、すげぇ綺麗だから、これ以上は無理」

 荒い息のまま、耳朶に滑り込ませるようにそう囁くと、吐息がくすぐったいのか、それとも睦言に気を良くしているのか、緩く目を細める。紫苑の花が綻ぶようだ、と思った。

「綺麗だ、俺だけの歌姫さんよ」

 彼女は答えることは出来ないし、もしも言葉を持ったとしても答えないだろう。捻くれた歌姫は、歌で以てのみ、真実を囁くのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迦陵頻伽は夜に歌う 睦月ジューゴ @eeesperancaaa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ