コップの中の漣 ~催涙雨~
長束直弥
Sazanami/Ripples
漣 Sazanami/Ripples
いつもと違う朝を迎える。
加熱式タバコを一服。
目覚めはメンソールの匂い。
まだ、タバコの
なんだか、頼りなくて味気ない。
今度は深く吸い込んでみる。
熱風に乗ったイガイガ感に咳き込む。
しかし、紙巻きタバコのような満足感はそこには無い。
それでも加熱式タバコに変えたのは――
それは、多分あの時から――
◆
階段を降りて一階の母の部屋へ――。
「おはよう。今日はいい天気だよ」カーテンを開けながら云う。
母はいつものように微笑み返す。
「コーヒーでも淹れようか?」
同居するようになって、毎朝私が淹れるコーヒーを飲むのが母の楽しみのひとつになっていた。
砂糖もミルクも入れないブラックコーヒー。
少しアメリカンなホットコーヒー。
「〝コップ〟と〝カップ〟の違いって知ってるかい?」
以前、母が私に訊ねてきたことがある。
「それは――材質の違いとか……?」
私は、すぐに思いつく答えを口にする。
「それもあるけど――把手があり、おもに温かいものを飲むときに使う容器が〝カップ〟。把手がなくて、おもに冷たいものを飲むときに使う容器が〝コップ〟。ちなみにカップは英語が語源で、コップはオランダ語が語源なんだよ」と、母は得意の薀蓄を披露する。
「ああ、成程ね。じゃあ、その理屈でいくとお寿司屋さんで出る湯呑みはコップということになるよね。中に入っているお茶はとても熱いよ。それに、インスタントのカップ麺には把手が付いていないよね――」と、屁理屈なのかどうなのかは別として、私は少し意地悪な疑問を母に投げかけた。
「――ああ、それは意外な盲点だったね」
「でしょう」
暫く考え込んでた母は、
「だから、『おもに』――ってことじゃあないのかね?」と応えた。
そんなことを思い出しながらコーヒーを淹れる。
ちなみに食器棚の中にあった大きな湯呑みにコーヒーを注いでみる。
母が昔、旅行先の陶芸教室で手作りした湯呑みだと聞いたことがある。
少し歪だが、大きくて厚みがあるから、淹れ立てのコーヒーでもそんなに熱くない。それを両手で抱えるように持ち、母の前へ。
二月七日――
母の顔色が悪いのに気付く。
黄疸が出ている。
病院に行き検査の結果、末期の胆のう癌だと告げられる。
手術を試み、そのまま入院。
入院中、毎日面会に行き母の看病と必要なものを揃える。
数日後二度目の手術をするが、癌の転移が認められ、既に手遅れだと告げられた。
癌は知らぬうちに母の躰を蝕んでいっていた。
三週間ほどして主治医に、余命幾許もない――もって一年――と告げられた。
残りのわずかな時間を、家族とともに過ごすよう云われ、退院する日を決めた。
私の父は、既に七年前に脳幹出血で他界している。
それから今まで母は、先立たれた夫の位牌と共に実家でのひとり暮らしだった。
それまでは、私は月に一度ぐらいしか実家には帰っていなかった。
退院の日、担当の看護師さんから、母は私と一緒に住めることをとても嬉しそうに語っていたと聞く。
母と二人の同居生活が始まって、私の日常はすっかり変わってしまった。
買い物、食事の準備、洗濯、下の世話……。
真夜中だろうが早朝だろうが、二時間置きには母の様子を窺い見るように心懸けることにした。
「ありがとう」と申し訳なさそうに母の言葉。
「当たり前のことをしているだけだよ」と、私は笑顔で応える。
「私、どこか病気なの?」
母の口から、そんな言葉が飛び出すことが増えてきた。
その時は「ちゃんと薬を飲んで、もっと元気にならなければね」と応えた。
少しずつ健忘症の症状が現れ始めた。
先生曰く、このような症状は薬の副作用によるものらしい。
回復の見込みがない看護を日々続ける。
固形食から流動食に――
お箸からスプーンに――
自分の手から人の手に――
日を追う毎に食が細くなる。
とうとう、水を飲み込むことすら――
私は、そんな風に衰退していく母を、ただ――見守るだけ。
そんな折り、眠っている母の目に涙を認める。
柔らかいタオルで顔を拭いてあげる。
(ごめんね。ごめんね)
容態の悪化にしたがい、「うえぇ、うえぇ」と言葉にならない呻き声をもらしだす。
掛かりつけの医者に往診に来て貰うが、痛み止めを処方されるが全く効き目がない。
「いいい……」母が苦痛の表情を浮かべる。
「痛いの? 何処が痛いの?」
どうすることもできない自分に憤りを覚える。
「うえぇ、うえぇ」
「いいい……」
日中夜問わずに痛みを訴え続ける母。
母の発する言葉に、突慳貪に対応する私。
寝不足と疲労で、精神的にも参ってきていた私。
そして遂に、薬すら飲み込むことができなくなった。
六月二十日――
母との同居生活四ヶ月目。
その日の母は、とても静かに寝息を立てて眠っていた。
昨日までのことがまるでウソだったかのように。
そう、眠っていた。
心地よさそうに、そして穏やかに――
まるで少女の寝顔のように――
そして――
そして、眠るようにして上へと逝った。
もしかして、母の願いが叶ったということなのか?
「うえぇ、うえぇ」、「いいい……」とは、早く上へ行きたいと云っていたのだ。
私にこれ以上迷惑をかけないように――との母の配慮だった……。
(ごめんね。ごめんね)
それから、慌ただしく時は過ぎた。
後飾り祭壇の上には、骨壺と遺影写真。
その中で母が、いつものような微笑みを見せている。
『
「うぅ……」
声にならない嗚咽が、私の喉から漏れる。
――今日は七夕だよ。
――でも、外はあいにくの雨だよ。
――知っているかい? 七夕の日に降る雨のことを『
(織姫は、彦星と会えるのかなぁ?)
――お母さんは上で、お父さんと絶対に再会できるよ。
(絶対だよ。絶対、絶対に!)
何度も何度も心の中で、根拠のない言葉を祈るように繰り返す。
この世の不条理を恨みつつ、
神の存在を否定しながらも、
止め処なく流れ落ちる後悔が私を包み、張り詰めた緊張はこの瞬間から弛緩する。
果たして私は、母のために何かしてあげられたのだろうか……?
後飾り祭壇の上に置いた母の手作りのコップの中に――
小さな小さな漣が――
(ごめんね。ごめんね)
コップの中の漣が――
小さく揺れた。
<了>
――この作品を、最愛の母(平成三十年六月二十日没)に捧げる――
コップの中の漣 ~催涙雨~ 長束直弥 @nagatsuka708
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