第30話 ジャスミンは愛と幸せの香り
風間は恭介を、精油の力を使って渾身の力で殴りつけた。吹っ飛ぶ恭介の身体に向かって、叫ぶ。
「ふざけるなっ!」
なおも殴りつけようと拳を振り上げた風間の身体は、木陰から駆けだしてきた二人のスーツの男達によって両脇から腕を掴まれ押さえこまれた。彼らは霧島工務店への横領事件の捜査を担当している刑事だった。始めから彼らには近くの物陰に控えてもらっていたのだ。
刑事たちと相談して、風間が恭介をここに呼び出し、最後に彼と話をさせてもらう約束になっていた。
風間に殴られて仰向けに倒れた恭介の元にも、数人の刑事が近寄る。
「恭介! お前を殺してやりたいっ! この手でその首を絞めてやりたいっ!」
刑事たちに抑えられながらも、吠えるように風間が叫ぶ。
その声に呼応して、仰向けに倒れたままの恭介が呟いた。
「すりゃいいだろ」
「できるわけないだろ!? 亜里沙を人殺しの娘なんかにさせるわけにはいかない!」
もし、亜里沙がいなかったら、警察に相談を持ちかける前に一線を越えていたかもしれない。ただ、亜里沙の存在が、その一歩を踏みとどまらせていた。
その恭介の元に一人のスーツの女性が近寄り、彼の目の前に一枚の紙を突きつける。
「石田恭介だな。霧島工務店に対する業務上横領罪の容疑で、逮捕する」
「……はい」
恭介は、倒れて空を仰いだまま、力なく答えた。
同日、荒木建設にも捜索が入り、社長以下関係者数名が逮捕される。
その後の捜査で、風間香奈の爪に残っていた皮膚組織と石田恭介のDNAが一致し、恭介は改めて風間香奈殺人の容疑でも再逮捕された。
そして、実刑判決を受け、十数年の懲役刑に服することになる。当然、霧島エステートも懲戒解雇されることとなった。
さらに、風間士郎は石田恭介に対して慰謝料と損害賠償を請求する民事訴訟を起こす。結果、石田恭介は霧島工務店への返還金3千万のほかに、風間士郎に対して約3千万の賠償金を負うこととなった。
次の週末、風間は香奈の実家に事件の顛末と犯人逮捕の報告にいき、さらにその次の週末には今度は自分の実家近くにある墓地へと足を運んだ。
彼の前には『風間家』と刻まれた御影石の墓がある。墓石とその周りをきれいに掃除したあと、最後の仕上げに桶に満たした水の中へと精油をドバドバと惜しみなく垂らした。ジャスミンの精油だ。『香りの王』とも呼ばれるジャスミン。
「うわぁ。すごい。いい匂い。これ、ママが好きだった香りだよね」
桶をのぞき込む亜里沙に、風間は目を細める。
「そう。本当は、ベランダにあるママが育ててたジャスミンの花ももってきたかったんだけど。まだ
風間はその桶の水を軽くかき混ぜると、
風間は、パチンと指を鳴らした。次の瞬間、気品ある濃厚なジャスミンの香りが膨れあがって周囲を甘く満たした。まるで、あたり一面にジャスミンの白い花が綻ぶ、その花畑のど真ん中に立っている錯覚を覚えるほどの香り。
その芳香の中。線香をつけると、亜里沙と一緒に墓に向かって手を合わせた。
ジャスミンは、愛と幸せの象徴。疲れ果て、すり切れた心をやさしく包みこんで癒し、明日への気力を湧き起こさせてくれる香り。
(香奈。君を殺した犯人が捕まったよ。ようやく辿り着いた。君のおかげだ。君が残してくれた香りが導いてくれた。ありがとう)
顔をあげる。なんとなく、その墓石のところに、愛する彼女が腰を下ろしてこちらを見て微笑んでいるような、そんな気がした。風間は、見えない香奈の幻に微笑みかける。
「また、来るね。香奈」
いつまでも、ジャスミンの甘い香りが優しくあたりを包み込んでいた。
そして。しばらくたったある朝。
いつもの職場。いつものように始業時間よりも早めに出社した風間は、まだ誰も来ていない営業第三係の自分のデスクでノートパソコンを叩いていた。
そこへ。
「おはようございます!」
いつもの元気な声が聞こえる。恵だった。
「おはよう」
いつものように挨拶を返すと、風間は立ち上がって恵の傍へ歩み寄った。
デスクでパソコンを立ち上げていた恵は、なんでしょう?という顔をしてこちらを見上げてくる。
「あのさ。……もう、ずいぶん時間経っちゃったけど。前に、映画館まで行って結局、映画見ないでかえってきたこと、あっただろ。あのチケット、結局まだ僕が持ったままだったけど。有効期限残ってるから今度の週末でも、一緒にどうかな」
風間の突然の申し出にしばらくきょとんとしていた恵だったが、ああ、あのチケットのことですね……と思い出してくれたようだった。そして、彼女の顔にニコッと笑顔が浮かぶ。
「いいですよ。行きましょう! えへへ……風間さんが、デートにでも誘ってくれたのかと思った」
そう冗談めかして言う恵に、風間も小さく微笑みを返す。
「そのつもりでも、あったんだ。……その、嫌かな?」
つい弱気な声でそう尋ねる風間。恵は少し驚いた顔をしていたものの、すぐにその顔に笑顔が戻ってくる。
「いいえ。嫌なわけ、ないじゃないですか」
その言葉に、風間もほっとして笑った。
「よかった」
柔らかな日差しが、朝の清廉な空気を優しく照らしていた。そのあたたかな空気をかき消すように、突然、風間の席の電話が鳴った。すぐに受話器を取る。
「……はい。……はい。わかりました。すぐに現場に行きます」
サポートデスクからの要請の電話だった。受話器を置くと、デスクの下から自分のビジネスバッグを取り出しながら恵に言う。
「トラブルがあったから、来てほしいって。一緒にいいかな」
「はいっ」
今日も慌ただしい一日になりそうだった。
――――――――――――――
【ジャスミン】
インド原産の常緑低木。
花は8~9月ごろの日没後から開花し、時刻により香りが変わります。そのためインドでは『夜の王』とも呼ばれています。
精神に対しては、脳内の神経伝達物質であるエンケファリンやドーパミンの分泌を活性化させ、リラックスとともに精神の高揚をもたらします。そのため、緊張や、不安、うつ状態や無気力状態から気持ちを引き上げて、高揚感や多幸感をもたらしてくれる精油です。
また、ジャスミンには催淫効果があり、古くから媚薬として用いられてきた歴史があります。ジャスミンの甘い匂いの成分はイランイランなどにも含まれる酢酸ベンジルというもので、催淫効果があると考えられています。ちなみにこれもシャネルの5番の主成分です(しかもシャネルの5番に使われるジャスミンは、それ専用にずっと同じ畑から作られているらしいです。一本の香水を作るのに3000本のジャスミンの花が使われているのだとか)。
さらに、ジャスミンには生殖器を強壮する作用もあります。そのため女性の不感症や男性のインポテンツを改善し、精子を増やすのに役立つとも言われています。
というわけで、精神面・肉体面両方で不妊や性的障害のサポートに役立つ精油です。
出産のときにも効果を発揮する精油で、子宮の収縮を強めて分娩を促し、同時に陣痛の苦痛を和らげてくれます。ホルモンバランスを調整する作用もあるため、産後うつを改善させ、母乳の出もよくしてくれる効果があります。また、月経痛の緩和にも役立ちます。
したがって、妊娠中は分娩間近になるまで使用しないでください。
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