第29話 ブラックペッパーで活力を
数ヶ月後のある休日。
風間は恭介を、渡したい物があると言って呼び出した。
待ち合わせをしたのは、風間が住むマンションから私鉄の高架を抜けてその先にある公園だった。
芝生や遊具もあり、周りは木々に囲まれて外からは見えにくい、この辺りでは広めの公園。
待ち合せ時間の少し前から風間は公園のベンチに座って待っていた。しばらくすると、予定の時間きっかりに公園の入り口からこちらに向かって歩いてくる人影が目に入って、風間はベンチから立ち上がる。恭介だった。仕事の帰りなのかもしれない。彼はスーツを着ていた。そして今日も、シトラスの香りを
「こんなところに呼び出して、悪かったな。車は?」
「ああ。そこのコンビニの駐車場にちょっと止めさせてもらってる。それで、士郎。渡したい物って?」
「うん。今、渡す。それより……お前、この公園知ってるか? あっちに、あの高架があるんだ」
急に話題を変えたことに少し怪訝そうな顔をしながらも、恭介は振り返って風間が指さす方に顔を向けた。そしてこちらに視線を戻すと、心痛そうに端正な顔をわずかに歪めた。
「ああ……そっか。あの現場がこの近くなんだな」
「そう。香奈があの場所で殺された。3年前……いや、もう3年半か」
「そっか。もう、そんなになるんだ……」
「……香奈はそこのコンビニに行こうとして殺されたって警察の人たちは言っていたけど、僕はなんだか腑に落ちないんだ」
一呼吸置くと、風間は恭介をまっすぐに見つめた。視線が交差する。そして、静かに、確認するように尋ねた。
「なぁ。恭介。3年前の12月22日。お前は、どこにいたんだ?」
恭介は、何を今更という様子で笑う。
「お前だって、知ってるだろう。俺は急な関西出張で」
「その出張先は大阪の荒木建設、だよな。急な出張だったから、会社への報告は事後になってる」
恭介の目が、すっと細まるのを風間は静かに見ていた。
「……何が言いたい」
恭介の口調から、抑揚が消える。そこに友としての親しさは失せ、猛禽類のような鋭さが顔を出す。
「お前は当時、沿岸の大規模マンションのプロジェクトに携わっていた。契約関係の取りまとめとかやってたよな」
「ああ、そうだよ。あの時はほとんど家に帰れないくらい忙しかったな」
恭介は言葉にこそフランクさを残しているが、声の調子はまるで冷えつくような響きが感じられた。風間は恭介の変化に気づいてはいたが、構わず続ける。
「昔、僕がいた部署の統括部長だった片桐さんって覚えてる? その人が、今は霧島工務店の副社長になってる。彼に協力して貰って、そのプロジェクトでお前が関わっていた契約関係を全て洗い直させてもらった。そうしたら、発注のおかしなものがいくつか見つかったよ。うまく隠してあったから監査もすり抜けたんだろうな。その全てが、荒木建設への発注だった」
恭介は何も答えない。ただ、じっとこちらを睨むように見ているだけ。お前はどこまで知っている?そんな目だと風間は思った。
「そのおかしな発注額の総額は約6千万。……そのうち、お前はいくらもらったんだ?」
しばらくの沈黙のあと、恭介は吹き出すように笑い出した。
「参ったな。士郎。お前、それを自力で見つけたのか? お前の業務範囲外なのに?」
しかし、風間は恭介の笑いにはつられず、溢れ出しそうになる感情を抑え込んで恭介に向かい合う。
「なぁ、恭介。僕の前にも、それを指摘した人間がいたんじゃないのか?」
ゆっくりと紡ぐ風間の言葉に、恭介の顔からも笑いが消えた。
「香奈だよ。香奈は霧島工務店の経理部にいた。もちろん、あのプロジェクトの契約関係を審査していたのも経理部だ。お前からあがってきた契約書類を見ていたとしても不思議はない。それで香奈は気づいたんだ。同期の仲間であり、僕と親しいお前が大きな不正をしていることに。それで、お前に言ったんじゃないか? 上司に報告しろって」
「……」
恭介は視線を落としたまま答えない。風間は続ける。
「だから。お前は香奈を殺したんだ。自分の不正がバレないために。自分を守るために。違うか?」
「……なぜ。お前は気づいたんだ? やっぱり、香奈が言っていたのか?」
恭介の声に、わずかに震えが混じりはじめていた。視線が
「匂いだよ。香奈の遺体に残っていた匂いだ。あれは、あるブランドの会員限定の香水に、お前がいつもつけているそのシトラスの香水を混ぜたものだった。そこから逆算したんだ。もし、お前が香奈殺しの犯人だったら? アリバイの協力者は? なぜ、殺す必要があった? 香奈とお前の接点は? そうやって探っていって、あの巨額の不正にたどり着いた」
風間の指摘に、恭介はゆっくりと口端をあげた。
その表情は投げやりなようにも、諦めが滲んでいるようにも見えた。しかし、それと同時に、風間には恭介がどこかほっとしているようにも感じた。
「さすがだよ。士郎。さすが、俺がライバルと認めた奴だ。……そうだよ。俺が、香奈を殺した。理由もほぼお前が言うとおりさ。俺には金が必要だったんだ」
恭介が語り出す。
4年ほど前。恭介は車を運転中にナビ代わりに使っていたスマホを操作しようとして、歩行者との接触事故を起こした。相手は骨折などを負い全治半年。しかも筋の悪い相手だったらしく、数千万の医療費と慰謝料を要求してきた。そのうえ、払わなければ会社にも事故のことを言うと脅してきた。会社に知られれば、積み上げてきたキャリアがダメになり、最悪、解雇もありうる。
それを恐れた恭介は医療費と慰謝料を全額払うことを了承してしまう。しかし、貯金を全て払ってもそれには足らなかった。残りをどうしようかと悩んだあげく、プロジェクトの契約関係をいじれば金は容易に用意できることに気づいてしまう。
マンション建設で取引のあった建設会社のうち、荒木建設は当時多額の借金を抱えて倒産寸前だと言われていた。その荒木建設の社長に話をもちかけてみると、意外に好感触だった。こうして、恭介と荒木建設の共謀関係がはじまった。
「それを香奈に知られたときは、もうダメだと思ったんだ。でも彼女はまだお前には話していないと言っていた。お前に知られたら、終わりだ。そうなったら
しかし、恭介は公園では待っていなかった。風間のマンションの前で待ち伏せして、マンションを出てこの公園に向かう香奈の後をつけた。そして、人の目がないことを確認すると、あの高架下で彼女の首を絞めた。公園ではなく路上で殺したのは、通りすがりの犯行を装うためだった。
「香奈の力が完全に抜けたのを確認して、俺はその場をすぐに去ろうとした。でもその時、気づいたんだ。いつもの癖で手首に香水を付けてきてしまってたことにさ。すぐに戻って倒れている香奈の手を嗅いでみたら、確かにこの香りがした。これじゃお前には絶対に気づかれる。もうダメだと思ったけど……でも、思い出したんだ。数日前に早いクリスマスプレゼントだっていわれて当時付き合ってた子からもらった香水が、カバンの中に入ったままになってたのをさ。すぐに、それを開けて香奈の手に塗りつけた」
それがあの香りの正体だった。すべては、正体を隠すために。嘘に嘘を塗り固めたその虚像を崩さないために。
「悪いとは……思ってたさ。お前に、本当のことを話さなきゃって……ずっと思ってた。お前が出世競争から落ちて霧島工務店を去っていくのを見て、罪悪感で胸が潰れそうだった」
恭介は胸をかきむしるように、自分のシャツを掴み、顔をしかめる。
「苦しかった……ずっと」
一方的に、溜まっていた胸の内を吐き出すように喋り続ける恭介の言葉を風間は黙って聞いていた。事件の大まかな事情は散々調べ尽くしていたから風間も知っていた。しかし、香奈が死んだ当日の様子を語られ、そのあまりに身勝手な恭介の物言いに、ついにこらえきれなくなる。ここで極力、恭介から自供を引き出したかったけれど、もうこれ以上我慢できそうにない。
風間はシャツの胸ポケットから一つの茶色い小瓶を取り出すと、すぐさま蓋を開けてその場に振りまくように投げ捨てた。
次の瞬間。つんとするスパイシーな香りの爆発が起こって辺りを濃密な空気が満たす。体中の血流が激しく回って、身体の隅々までが活性化されていく感覚。
恭介も、不思議そうに辺りをみまわす。さすがに、これだけ濃密に力を発動すると、普段は香りの膨張を感じない恭介でも感じ取ることができるらしい。
風間は、一つ深呼吸してその空気を吸い込むと、恭介を見る。その目に浮かんだのは、怒りだったろうか。それとも哀しみだっただろうか。自分ではわからない。
恭介に肉薄すると、風間は強く握りしめた拳で、渾身の力で持って恭介の顔を殴りつけた。
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【ブラックペッパー】
とても刺激作用が強く、神経と心を強化する精油です。フラストレーションを起こしている場合にスタミナを与え、ものごとに冷淡になったときには心を温めます。鋭敏な感覚を取り戻して、記憶力や集中力を増し、身体に活力を与えてくれます。
身体的には骨格筋を緊張させて、局所的に血管を拡張させ血流を増やす働きがあります。そのため、筋肉痛や肩こり、手足の疲れと痛み、冷え性などを改善してくれます。スポーツをする前のウォーミングアップやスポーツ後のクールダウン時にキャリアオイルに混ぜてマッサージするのにも適しています。
また利尿作用やデトックス効果もあることから、だるさやむくみの解消、セルライト防止や肥満解消にも効きます。ダイエットの停滞期に使うと良いようです。
ただし、胃に活力を与え、唾液の出を良くして食欲促進させる効果もあるため、ダイエット目的で使用する場合は気を付けて下さい。
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