第22話 お口のトラブルはミルラで
お昼休みの給湯室。
恵は、シャカシャカと食後の歯磨きをしていた。
そこへ、風間がマイコップ片手にやってくる。
「ごめん。後ろ通っていい?」
「ふぁーい」
恵はシンクに身体をくっつけて、風間のために道を開けた。この階の給湯室はここにしかないうえ、ようやく大人二人がすれ違える程度の広さしかない。
給湯室の奥にポットが置いてあるので、風間はここにインスタントコーヒーを淹れに来たらしい。
コポコポっと湯が落ちる音が後ろで聞こえる。ふわりと、コーヒーの香ばしいかおりが漂ってきた。そういえば、甘いものがあまり好きでないといっていた風間は、記憶にある限りいつでもブラックで飲んでいる気がする。
そんなことを考えながら、ぼんやり歯磨きしていた恵だったが。
「いたっ……」
景気よくシャカシャカ歯ブラシを動かしていたところで、急に痛みが襲ってきて手を止めた。背後の風間の気配に気を取られて、忘れていた。昨日から口内炎になっていたのだ。そこに歯ブラシを強くあててしまった。
「どうしたの?」
カップにお湯を入れすぎたのか、コーヒーを
恵はシンクで口をゆすぐと、傍らに置いてあったハンドタオルで口を拭う。
「口内炎なんです。私、ビタミン足りてないのか口内炎になりやすくて」
「ふぅん……嫌だよね、口内炎」
それだけ言うと風間は給湯室から出てデスクの方へと戻っていった。恵は仕事の帰りに口内炎の薬買うの忘れないようにしなきゃ、と思いながら、給湯室の鏡で簡単にメイクを直していると、その鏡に風間が映り込んだので振り返る。
「忘れ物ですか?」
「いや、これあったから、試してみたらいいかなと思って」
風間が渡してくれたのは、いつもの茶色い小瓶。今日のやつはミルラと書いてある。
「ミルラ……ですか?」
「そう。昔、エジプトでミイラづくりにも使われてた植物なんだってさ。殺菌作用が強いから、内臓取り出したあとに腐敗しないように代わりに詰めてたんだって。そのコップ、借りていい?」
ミイラづくりにつかわれていた植物って、なんとなく神秘的でもあり不気味でもあるなぁなんて思いつつ、風間に言われて自分のコップを差し出す恵。風間はそこに水道から水を注ぐと、ミルラの精油を1滴たらした。水の中に落ちるとミルラは水と混ざり合うことはなく、黄色く丸っこい球のように浮かぶ。それを、給湯室においてあるスプーンで軽く混ぜて恵に手渡した。
「直接塗ってもいいらしいんだけど。それで、ウガイしてみて」
なんとなく半信半疑ながら、そのミルラ入りの水でウガイをしてみた。
「う、わ……」
なんていうか、すごく変な味がした。苦いような、辛いような。それにピリピリする。恵は顔を
「風間さんっ。そのパチンってのすると、風間さんの魔法みたいなので効果が高くなる分、匂いとか味とかも強烈になるんでしょ!?」
「うん」
「いいです! もうそこまでしてくれなくていいですからっ!」
「それ、強烈な味するよね。でも殺菌作用も消炎作用もあるんだよ。昔から歯肉炎とか歯槽膿漏とか、口内炎の治療に使われてたらしいしね。すごく口の中が殺菌されてる感、あるでしょ」
「ピリピリで、苦いです……」
うげ……という顔をする恵を見て、風間は苦笑を浮かべた。
「まぁ、薬みたいなものだと思って。実際、昔は薬として使われてたこともあったものだし……ああ、そういえば」
何かを思い出したようにスッと風間の顔から表情が消えるのを見て、恵は怪訝に問い返す。
「どうしたんですか?」
「うん……あの香水の会社のことなんだけどね。調べてみてわかったんだけど。2年前に、顧客情報の一部を漏えいする事件を起こしてるんだ」
「え……」
恵は目を見開いた。
「もしかして、その顧客情報が探し出せれば」
恵の問いに風間はこくんと頷く。
「うん。上手くいけば、あの香水を購入した客を絞れるかもしれない。そうしたら……もし、香奈の身近にいた人間の名前がそこにあれば……」
それが、犯人への有力な手掛かりになるかもしれない。
「ちょっと、名簿屋とかその手の情報を扱っている業者を手当たり次第に当たってみようと思う。もしあのブランドから漏えいした情報が見つかったら、いくら金を出してでも買いたい。やっと……やっと見つかった、犯人につながるかもしれない糸なんだ」
静かに言う風間の声には、穏やかだが強い意思みたいなものが感じられた。もしかしたら、それは怒りなのかもしれない。深く、悲しい怒り。
「わ、私も手伝いますからね」
前に恵の部屋で言ったことを確認するように、繰り返す。風間は、弱ったなというように小さく笑うと、それでも今度は断られるようなことはなく。
「ありがとう」
そう言ってくれた。そのことに、恵は少しほっとした。
「あ、それと。これ、読んだ?」
いつもの、どこかおっとりとした口調に戻って風間が鏡の横に張られた紙を指さす。
「へ?」
ずいぶん古い張り紙で、元は白かったであろう紙はすでに薄茶色になってはいたが、かろうじて文字は読める。
『ここでの歯磨き、洗顔、洗髪は禁止』
と書かれていた。
「う、うわっ。ぜんっぜん目に入ってなかった!」
慌てる恵の声に、風間の笑い声が重なる。
「僕は注意したからね。じゃあね」
「ひっどい。風間さん。前から気づいてたんなら、言ってくれればいいじゃないですかー」
ぷーっとむくれる恵に、風間は笑って「ときどき言わなきゃって思い出すんだけど、忘れてた」と言い捨てると給湯室から去っていく。
その背中について一緒に第三係の島へと戻りながら、
(どうか、給湯室で歯磨きしてたこと、他の係の怖いお姉さま方に見つかってませんように)
と恵は心の中で祈るのだった。
――――――――――――――
【ミルラ(没薬)】
トゲを持つ低木の樹脂から精製されます。
ミルラは古代から宗教儀式などによく使われていた植物です。
イエス誕生の際に三賢者によって贈られたものも、このミルラ(没薬)とフランキンセンス(乳香)です。
精神的には、気力が衰えたと感じたり無気力になったときに、心を明るく高めてくれる効果があります。
その殺菌作用の高さから、ミイラ作りにも使用されました。さらに、傷を治し皮膚細胞を活性化させ、抗炎症作用もあるため古代より傷の治療にも使われてきました。
特に口腔と歯茎のトラブルに効果が高く、口内炎、歯槽膿漏、歯肉炎などの治癒や予防に効き目があります。水に溶かしてウガイしたり、マウスウオッシュや歯磨き粉に混ぜて使うこともできます。
ただし、かなり強烈な味と香りがするので、お出かけ前はお薦めしません。
妊娠中は非推奨。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます