第23話 ベルガモットは天然の抗うつ剤
秋の、とある平日。
風間は書類を片手に霧島エステートの入るビルの階段を上ると、上のフロアにある企画部を訪れた。
フロアを眺めると、一番奥に
デスクにノートパソコンに向かう恭介の姿があるのを確認して、風間はそちらに歩み寄った。その気配に気づいて顔を上げた恭介の顔に、驚いたような表情が浮かぶ。
「士郎。お前からこっちに来るなんて珍しいな。どうした?」
デスクに置かれたネームプレートには『企画部長 石田』の文字が
「メール送ったのに見てないだろ」
風間はつっけんどんに言うと、手に持った書類をパサリと恭介の前に置く。
「この前言ってた高齢者に対する賃貸契約における保証についての企画書、まとめといた。メールでも送ったけど、どうせ見てないだろうからプリントアウトしてきたんだ」
「あ、ああ……ごめん。最近、立て込んでて。それに……あんまり体調よくなくてさ。企画書って……これ、お前の業務範囲外だろ? お前の実績にならないけど、いいの?」
風間が作った書類をパラパラとめくりながら、恭介が尋ねてくる。
「別にいいよ。業績よりも、仕事がやりやすくなった方がいい」
その言葉を聞いて、恭介はくすりと笑った。
「お前らしいな。んで、企画書の方もいかにもお前らしく几帳面に細かく書いてありそうだ。わかった、目を通して、いけそうなら今度の会議で提案してみる。ほんと、お前なんで営業第三係なんているんだよ。勿体ないだろ?」
「自分で希望出したんだから、いいんだよ。あそこならだいたい定時で帰れるから。それよりお前、体調悪いの? たまに早く帰って病院行った方がいいんじゃないのか?」
気遣いの言葉に、恭介はデスクに肘ついた手で額を押さえる。いつもは張りのある声が、今はどこか弱々しい。
「そうなんだよなぁ……でも仕事も溜まってるし。まぁ、ここのところ毎年この時期になるとメンタル落ちてこうなるんだけどな。季節性のうつってやつなのかな」
「ふぅん……」
風間は一旦下のフロアにある自分のデスクに戻って引き出しをまさぐると、一つの茶色い小瓶を見つけて再び企画部のフロアに戻ってきた。
「ん……これやる」
風間はその小瓶を恭介の前にコトリと置く。
それを恭介は手に取り、不思議そうに眺めた。
「何これ」
「ベルガモットの精油。蓋開けて?」
言われたとおりに恭介が蓋を回して開けると、少し苦みのつよい柑橘系の香りがほわっと鼻をくすぐる。
風間はパチンと指を鳴らした。その瞬間、香りが膨れ上がり洪水のようにフロアを満たしたが、風間以外にはそれを知覚できる人間はこのフロアにはいないだろう。
「おまじない、だよ。といっても、ベルガモットは『天然の抗うつ剤』って言われるくらいうつによく効く香りなんだ。加湿器の中に何滴か垂らしたり、ティッシュとかに垂らして枕元とかに置いておくといいよ」
「へぇ……」
恭介はなおも不思議そうにベルガモットの小瓶を眺める。
「なんとなく。気持ちが楽になった気もする。ありがとう」
そう言って、恭介は笑った。でも、その笑顔にはまだどこか辛さが残っているように見えた。
「……辛かったら、ほんとちゃんと病院いけよ。無理してるといつか本当に倒れるぞ?」
「ああ。わかってるよ。今だけだから、大丈夫だ。冬が過ぎればまた元通りになるよ。あ、そうだ。実家からまた大量にミカン送ってきたんだけど。今度、おまえんちに押しつけに行くから」
恭介の実家は愛媛だ。ミカン農家というわけではないようだが、いつもこの時期になると何箱も実家からミカンが送られてくるらしい。一人で食べきれる量でもないので毎年のように風間の家にも車でおすそ分けにくるのだ。
「ありがと。僕も亜里沙もミカン好きだし。あ、でも、来週末は家にいない。実家の方に帰ってる」
それを聞いて、恭介は「そうか」と声のトーンを落とした。風間のその言葉だけで、亡くなった妻の墓参りに帰省するのだとわかってくれたようだった。
「もう、そんな時期なんだな」
「お前も来る?」
香奈とは、霧島工務店の同期だった。つまり、恭介も香奈とは同期ということになる。
同期は何十人といるので全員と親しいわけではないが、香奈と恭介と風間、それにあと数人の同期達は新人研修などで顔を合わせる事も多かったので、独身のころは一緒に旅行に行ったりするくらいには親しくしていた。いまは部署も役職も別れ、それぞれ家族を持ったりして、なかなか一緒に何かをするということもなくなってきたが、一年に一度くらいは集まって酒を飲みつつ近況を話したりはしている。
「いや……俺は遠慮しとく。家族水入らずを邪魔するわけにはいかないしな」
と恭介が返したところで、デスクの電話が鳴る。内線呼出の音だった。恭介はすぐに受話器をとった。
「はい……あ、士郎? ここにいるよ。はーい、すぐ帰れっていっとく」
ガチャリと受話器をおくと、恭介はニヤリと風間を見上げた。
「平野さんがお呼びだよ。急な案件が入ったから、すぐ戻ってこいって伝えてくださいって」
「げ……。油売りすぎたか……」
ポリポリと頭を掻く風間の様子に、恭介は声を出して笑いだす。
「すっかり行動把握されてんな。まぁ、頑張れ」
なんて言いながら恭介は風間の背中を強く叩いた。
「頑張るって、何を?」
振り返った風間が見たのは、ニヤニヤした恭介の顔だった。
「お前ら見てると、モヤモヤすんだよ。とっととくっつけ」
「それ、セクハラだっての」
そんな軽口を交わし合うと、風間は自分のフロアに戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、「とっととくっついて、忘れちゃえよ……」と小声で呟いた恭介の声は、オフィスのざわめきに紛れて風間には届かなかった。
――――――――――――――
【ベルガモット】
5mほどの高さになるミカン科の高木。
ベルガモットの果実は苦味が強いため食用には向かず、古くから香料や薬として使われてきました。
現在も、アールグレイ紅茶の香りづけや香水の原料に使われています。
ベルガモットは、精神面への作用の大きな精油です。
ほかの柑橘系精油と異なり、リモネンが少なく、逆にラベンダーの主成分である酢酸リナリルやリナロールといった鎮静作用のある成分が豊富に含まれています。この酢酸リナリルはセロトニンの分泌を改善する作用があると言われています。
そのため、ベルガモットは心を穏やかに鎮静させて情緒を安定させてくれます。特に『天然の抗うつ剤』と呼ばれるように、抑うつ状態にとてもよく効くと言われています。
また、不眠や食欲不振、胃痛の改善にも効果があります。
さらに、消臭効果、抗菌、抗ウィルス効果もあるため、デオドラント用のローションやスプレーにも使われます。ただし光毒性にはご注意ください。
※光毒性があるため、皮膚に塗ってすぐに日光などの強い紫外線にあたると、皮膚に炎症を起こすことがあります。
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