第21話 フランキンセンスで祈りを


 3年前のあの日。

 朝、いつものように先に出勤する妻の香奈に「いってらっしゃい」と声をかけて、風間は彼女を見送った。それが彼女を見る最後になるだなんて、そのときは欠片も思っていなかった。


 次に会ったのは、警察署の地下にある冷たい霊安室だった。

 亜里沙も一緒にいたはずなのだが、あまり覚えていない。そのあたりから、記憶は混濁していて、霞がかかったようにあまりはっきりとは思い出せない。


 どうやったのか自分でも覚えていないけれど、親戚に連絡して、喪主として葬儀の手配も整えた。

 弔問ちょうもん客や親戚はいろいろと声をかけてくれたような気がするが、まったく頭になんて入っていなかった。出張先から仕事を終えて夜行バスで戻ってきた恭介が、色々と手伝ってくれたことはうっすらと記憶にある。


 火葬を待っている間、火葬場の待合室のソファに座り込んだまま風間はついに動けなくなった。ただ自分の膝においた両手のひらを、見つめてることしかできない。涙も出ず、ただただ現実感のない夢の世界にいるような、そんな妙な感覚だけがあった。


 隣にいた亜里沙が色々話しかけてきたが、上の空だった気がする。本当は母親を失ったあの子の精神的なケアをもっとちゃんとしなければいけなかったのに、頭の片隅ではわかっていたのだけど、身体が動かなかった。


 どうしていいのか、これからどうなるのか、なんでこうなったのか、なんで香奈がいないのか。まるで真っ暗な闇の中に突然迷い込んで出られなくなったようで、ただただ現実を受け入れられず戸惑っていた。まだ、哀しみに気づかないほど狼狽うろたえていた。


 そんなとき。

 一人の老婆が亜里沙のそばにやってきて、彼女の頭を優しく撫でた。フランスに住む香奈の祖母のニーナだった。


 フランス人と日本人のハーフで、白髪で黒い瞳、でも彫りの深い西洋的な顔立ちの彼女。黒のワンピースに、後ろ髪を丸くまとめて黒のネットでまとめたニーナは、亜里沙のそばに座るとその手を取って優しく話しかけていた。ニーナとは、いままでも何度か顔を合わせたことはあったが、直接会話を交わしたことは数回しかなかった。ただ、香奈がとても慕っていて、よく香奈の口から彼女の話を聞いたことは覚えている。


 ニーナは亜里沙と何やら話した後、こちらにきた。彼女は目の前に膝をつくと、風間の手を包み込むように握った。何か喋りかけてくれていたが、耳には入っているはずなのにどこか遠くから声が聞こえているようだった。何度か、名前を呼ばれて、ようやく風間は声を出す。


「……ニーナ……」


「シロウ。……大変だったね」


「……ニーナ。香奈が……香奈が……」


 そう繰り返すことしかできない風間の背中を、老婆の小さな手が優しく何度も撫でる。


「シロウ。感情に身を任せなさい。何も感じなければ、それでいい。いまは、起こったことに心がついていっていないだけだから」


 そう言いながら、あやすように何度も背中を撫でてくれた。

 そしてニーナは、「Bonheurボヌール à vous」 (あなたに幸せが訪れることを)と呟いた。途端に、爽やかな、それでいて重い甘さのある香りがぶわっと辺りを満たす。一瞬、何が起こったのかわからず、風間はニーナから視線を外して辺りを見回した。しかし、怪訝そうな顔をする亜里沙と目が合うだけで、周りの人たちはこの急に立ちこめた匂いの塊に気づいていないようだった。


「おや。シロウは、感じ取れるようだね」


 そう言って、ニーナはしわくちゃな目を細める。


「これは、フランキンセンス。昔から災いを祓う力があると信じられてきた香りだよ」


 あれだけ濃厚に香っていた匂いは、ほどなくしてすっと空間に霧散して消えてしまう。それでも、なお仄かに香りが漂っているのを感じて、風間はその香ってくる方に目を向けた。それは、ニーナがつけていたペンダント。それが香りの発生源のようだった。


「もう、これ以上の災いが大切な人たちに降りかかりませんように。少しでも心穏やかに、いられますように」


 不思議と、すこしだけ息がしやすくなった気がした。いままで息を止めてたんじゃないかと思うほど、胸につまっていたツカエのようなものがすっと軽くなった。

 途端に身体の中から声が溢れてくる。


「ニーナ。香奈の……香奈の手に、僕、ずっと握ってた。その手に、匂いが残ってたんだ! 香奈のじゃない! 知らない匂いなんだ! 警察にも言ったけど、話を聞いてくれただけで……。それに、かすかな匂いだったからもう、消えてしまって……思い出せなくて……もしかしたら香奈を殺したやつのものかもしれないのに! 忘れちゃいけない匂いだったのに、もう思い出せない……」


 風間はせきを切ったようにニーナに話し続けた。それを、彼女は静かにうなずきながら聞いてくれる。


「シロウ。よくお聞き。人は、一度体験したものは忘れることはないんだ。まして、一度そこまで強く印象に残った香りの記憶が消えてしまうなんてことはありえない。ただ、思い出せなくなっているだけなんだ。大丈夫。お前は、覚えているよ」


 ニーナは風間の手をぎゅっと握ると、知性あふれるその黒い目でじっと風間の目を見つめた。


「カナは、小さいころからほんとうに可愛い孫だった。よくニーナ、ニーナって呼びながら私の後についてきたのを覚えているよ。そのカナが選んだ相手なんだ、お前のことも私はカナと同じくらい、可愛い孫のように思っている」


 カナからも、何度も聞いたことがあったのを思い出す。フランスにあるニーナの家に行った時の話。まるで物語にでてくる魔法使いの家のようで、楽しくてあちこち探検してまわったって。


「シロウ。お前に、ひとつ魔法を教えてあげよう。好きな時に、記憶を引き出せるように。それが、お前の生きる糧になるのなら」


 それが、ニーナと風間との、香りを通した関わりの始まりだった。


 ――――――――――――――

【フランキンセンス(乳香)】

 梅に似た外観の低木です。

 幹から染み出した乳白色で涙型の樹脂を乳香とよび、古くから宗教儀式に使われてきました。清め、癒やし、悪霊や災いを払う力をもち、人と神とを結ぶものとされました。現在でも乳香には、分析不明な芳香成分が多いようです。


 乳香の精油は、平静な感情をおこさせ、呼吸をスローダウンさせることによって、心を慰めて不安や強迫観念を和らげてくれる作用があります。


 また、この精油は粘膜に対して効果が高く、肺や鼻、喉の粘膜を鎮静させ、過剰な粘液を抑えて排出を促します。そのため、風邪や気管支炎に用いると呼吸を楽にしてくれます。


 肌に対しては、うるおして柔らかくし、しわを伸ばす働きがあります。


 ただし、妊娠初期は使用を避けてください。



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