第19話 ローズ・オットーで若返ろう


 待ち合せした映画館は、ショッピングモールの一角にあった。

 約束した時間よりも少し前に着いてしまった恵は、その入り口でスマホを弄りながら時間をつぶす。


 ちょっと喉が渇いたな。先に中に入って飲み物だけでも買ってしまおうかななんて思ってふとスマホから視線をあげたとき、突然誰かに横から強い力で左手首を掴まれた。


「きゃっ……!」


 恵は思わず、スマホを手から落としてしまう。スマホは大きな音を立てて床に落下した。

 驚いて腕を掴んできた相手に視線を向けると、そこにいたのは風間だった。

 しかし、いつもの穏やかな表情はそこにはない。鋭く険しい目で、まだ掴んだままの恵の手を見ていた。


「か……風間さん……?」


 恐る恐る呼びかけた恵の声で、風間はようやくハッと我に返ったようだった。慌てた様子で手を離す。


「ご、ごめんっ……。痛かったよね……。あ、携帯……」


 風間が床に落ちた恵のスマホを拾い上げると、上着の袖で埃をぬぐって恵に渡してくれた。幸いフロア一面に絨毯じゅうたんが敷いてあったため、傷がついたりはしていないようだ。


「……どう、したんですか。風間さん……急に……」


 よほど強い力で掴まれたのだろう。手首を見ると赤く跡がついていた。まだ、痛みもある。


「ごめん……本当に、ごめん……。つい、その……君から香った匂いが」


 風間はそう言うと、顔を歪めた。苦しそうな、それでいて泣きそうなそんな表情。そんなに辛そうな風間の顔を見るのは恵は初めてだった。


「その匂いが……僕が知っている、あの匂いと似ていた気がしたから」


「あの匂いって……あ! もしかして、奥さんの……?」


 前にバーベキューに行ったときに聞いた、殺された風間の奥さん、香奈さんの手のひらに残っていたという匂い。香奈さんを殺した犯人のものかもしれないという香り。


「いま、一瞬、とてもよく似ている気がしたんだ。でも、改めて嗅いでみると、ちょっと違う気もする……」


 風間の声はかすれ、わずかに震えていた。明らかに動揺している。

 恵が左手首につけていたもの。それは、朝、出がけにつけてきた香水だ。


「これ、この前、ネットで買った中古の香水です」


 元はブランドショップが出していたもので、恵が購入した中古のものは未開封だが箱なしだった。だから安かったのだけれど、元は結構値段のするものだった記憶がある。


「うん……同じ匂い、ではないんだ。でも、とても近い気がする。この香水、まだ家にある……?」


 風間の問いに、恵は大きく頷く。


「あります! まだ、たくさん! 風間さん。いまから、取りに行きましょうか……?」


「え……いいの? だって、映画……」


 映画館の奥を指していう風間に、恵は首を横に振った。


「だって。風間さん。今、映画見たって、全然楽しめないでしょう?」


 恵の言葉に、風間は小さく苦笑を浮かべると、そうだね、とだけ答えた。






 恵が住んでいるのは単身者向けの賃貸マンション。そこの三階角部屋が恵の部屋だった。

 鍵を開けて玄関で靴を脱ぐと、恵はキッチンを抜け、奥の部屋へと駆ける。部屋は当然、朝に恵が出かけたときのままで、あの香水の瓶は部屋の真ん中のローテーブルに置かれたままになっていた。

 それを取り上げると、すぐに玄関で待っている風間の所へ戻る。


「はい、これです。箱はないんですけど、ブランド名は分かってるのでネットで調べれば詳細説明がでてくると思うので……ちょっと待ってください」


 瓶を受け取ると、風間は早速蓋を開けて鼻を近づける。


「うん……やっぱり、この匂い。そのものではないけど、すごく近い気がするんだ」


 そう言って、首をかしげる風間。そのことが何を意味するのか恵にはわからなかったけれど、タブレットでこのブランドが出している香水について調べる。まだあまり香水について詳しいわけではないが、この香水の瓶はこのブランドの今販売されている香水のラインナップとは形状が違う。


「あ……ありました。これだ。これ、数年前に出された限定モデルです。販売期間は……」


 販売期間の表示を見て、恵はハッとする。そして何も言わず、タブレットを風間に見せた。それを見て、風間の目がわずかに大きく見開かれたのが恵にもわかった。


「3年前……ちょうどいまぐらいの時期に発売されてたのか……」


「事件があった時期と、重なってます?」


 恵の問いに、風間はコクンと頷いた。


「ぎりぎり……重なってる。香奈が死んだのは、クリスマスのちょっと前だった」


 この香水は、その年がブランドの何周年にあたるとかで会員向けに作られた個数限定モデルだった。


「僕は、あの出来事の後……販売されている香水は国内のも海外のもしらみつぶしに調べたつもりだったんだ。でも……そっか……会員限定モデルだったら、見逃してた可能性がある。ありがとう。僕、この香水の購入者について、ちょっと調べてみるよ。しばらくこれ、借りててもいい?」


 そう言って恵から受け取った香水の瓶を大事そうにカバンにしまう風間。


「はい。差し上げます、それ。……あ。あのっ。私にも、その……手がかり探すの、手伝わせてもらえませんか?」


 恵の言葉に、風間はきょとんと不思議な物を見るような目で恵を見る。


「でも、これ以上、迷惑かけられないし……」


「それでもっ。だって、ほら。一人で探すより、二人で探した方が効率よく探せるじゃないですか」


 恵は、食い下がった。映画館でこの香水の香りを嗅いだときの、風間の辛そうな様子が思い出される。この人はきっと、そうやっていままでずっと、たった一人で哀しみと向かい合いながら犯人を捜し求めてきたんだろうなと思うと、なんだか放っておけなかった。


「それは、そうだけど……あ、そうだ。この件とは全然関係ないんだけど」


 風間はそう言うと、カバンの中から小さなプラスチックのクリームケースを取りだした。


「これ、亜里沙から。作りすぎたから、あのお姉ちゃんにあげてって言われてたの、ずっと忘れて渡しそびれてたんだ。君、この香り、前に好きだって言ってたでしょ」


 クリームケースを受け取ると、恵は開けてみる。ハチミツのように甘く優しい薔薇の香りがふわりと立ちのぼった。


「香りの女王、とも言われることがある、ローズ。これはローズ・オットーの精油をミツロウに混ぜて作ったクリームだよ。アンチエイジングとか皮膚の若返りとかに効くらしい。それから」


 パチンと風間が指を鳴らす。すると、ふんわりと立ちのぼっていたローズの甘い香りがいっきに膨れ上がり部屋全体を包み込んだような気がした。


「ローズは、辛いことや哀しいことがあっても、それを受け止めて前に一歩歩き出す勇気をくれる香りなんだ。だから、僕も好きなんだよね」


 そう言って風間は、ふわりと笑った。


 ――――――――――――――

【ローズ・オットー】

 誰もが知っている薔薇科のお花。

 オットーは、水蒸気で蒸留して精油を精製します。アブソリュートよりも大量の薔薇の花を使用するため、さらに高価ですが、溶剤を使わないためアブソリュートと比べて肌への刺激は優しいです。


 精神には鎮静作用とともに高揚作用としても働きます。

 本当に辛いときや寂しいとき、深く心を痛める出来事や自信を失くすような体験のあと、ネガティブな感情を癒やして心を慰め、再び喜びや愛情を受け入れ、感じられるようにしてくれる精油です。


 ローズは伝統的に催淫剤として使われてきた歴史もあるとおり、精油にも催淫効果があります。


 また、皮膚の弾力や潤いを取り戻して肌を若返らせ、ニキビ、乾燥、肌荒れ、しわ、しみ、色素沈着、目のクマなど全年齢のスキンケアに役立ちます。


 アブソリュートとオットーの違いは、精製方法の違いによる成分の差です。

 アブソリュートはフェニルエチルアルコールという薔薇の香りの芳香成分を多く含んでいるため香りを楽しんだり香りの効果を期待するときに適しています。


 一方オットーは、シトロネロールやゲオニールを多く含むため、鎮静、抗菌、虫除け、収れん、消炎、皮膚の弾力回復、保湿などの作用が高いです。


 そのため、香りを楽しむならアブソリュート、マッサージや化粧品などに入れて使うならオットーの方が向いています。

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