第6話 ゴキブリも水虫もレモングラスで退散


「うひゃあ! 係長! そっち! そっち行きましたよ!」


 恵がきゃあきゃあ言いながら逃げる後ろから、カサカサと黒い物体が迫る。

 Gという隠語で知られた小さな魔物。夜中のキッチンなどに現れて、カサカサと這い回るアレ。いわゆる、ゴキブリというやつだ。


「君の後ろにもいるけど」


「え? 本当ですか!? うわー! 係長助けてください!」


 思わず風間の腕に飛びついた恵。風間は迫り来るゴキブリに、プシューっと殺虫剤を吹きかけた。

 それまで元気にカサカサ這い回っていたゴキブリは、ふきかけられた薬剤の中でピクピク痙攣しだし、やがて動かなくなる。


「はぁ……本当に、ゴキブリ多いんですね。これは、確かにお困りでしょう」


 やれやれといった様子で風間はこの部屋の住人である中年女性に視線を投げた。彼女は、そうなの、わかるでしょ?私の苦労が、という不満と静かな怒りをたたえた目で薄く苦笑した。


 ここは霧島エステートが管理している賃貸マンション。1階が店舗になっていて、2階以上はファミリータイプのマンションになっているのだが、その2階に住むこの女性から訴えられた「やたらゴキブリが多いから、どうにかしてほしい」という苦情対応のために風間と恵の二人はここに来ていた。


 指摘されている通り、たしかにゴキブリが多い。いまこの室内で見かけたもの以外にも、ここにくるまでの間に共有スペースの廊下でも死んでいるのを見かけた。こんなに頻繁にゴキブリに出くわすようなら、恵なら自宅に帰ってくるのが嫌になるかもしれない。


「理由はわかってるのよ。あれのせいよ、あれの」


 苦情主の女性は、ベランダに出ると階下を忌々しそうに指さす。


「はぁ……まぁ、原因はそこですよね。おそらく」


 女性が言っているのは、1階にある居酒屋のことだ。


「私がこのマンションに越してきたときは、下はコンビニだったのよ。だから、とても便利で良かったの。でも、そのコンビニが去年の夏に潰れて、そのあと入ってきたのがあの居酒屋。それからよ。ゴキブリがこんなに増え始めたのは。よく裏を通ると勝手口のドアが開いていて厨房の裏側が見えるけれど、あまり衛生的そうじゃないもの。絶対あの店のせいよ。あの店を追い出すことはできないの?」


 と、女性はその居酒屋への不満を口にする。

 とはいえ、1階のテナントをどんな店に貸すかはこの不動産の所有者である大家おおやさんが決めるため、恵たちにどうこうできるものでもない。


「テナントを誰に貸すかは、私どもでは……。大家さんに直接相談してみては?」


「そうよねぇ。大家さんにはもう話はしたのよ? でも、ここまでゴキブリが出るのは2階の部屋くらいなものらしくて。大家さん的には、むしろテナント料をしっかり払ってくれるからって好印象みたいなのよ」


 そういうことなら、管理会社にできることなんて1階の店にゴミの管理の仕方を徹底するように指導するくらいしかないんだけどなぁ……なんて恵は思うが、そんなことでこの女性が収まるとは思えなかった。


「わかりました。ちょっと何とかしてみます。とりあえず、ゴキブリが出なくなればいいんですよね」


「え、ええ。そうよ」


 住人の女性に断ってキッチンや洗面所を見て回る風間に、恵がこっそり小声で問いかける。


「係長。害虫の駆除業者に頼みますか?」


「いや……、ここの管理契約に害虫駆除の薬剤散布は含まれてないんだよね……。大家さんがOKしてくれるならすぐにでも手配できるんだけど、マンション一棟やるとなると結構費用かかるしね」


 風間は洗面所の脇に置かれた洗濯機の下を覗き込む。そこにも洗濯水を排水するための排水口があった。


「こういう排水管とか、キッチンや風呂場の換気扇とかから入って来ちゃうんだよ。まず侵入経路にフィルター付けてもらうよう大家さんに進言してみるかな。まぁ、とりあえず」


 風間はポケットから茶色い小瓶を出すと、蓋を開けて数滴を洗面台のシンクに垂らした。そして、彼が指を鳴らすと、部屋全体に濃い香りが立ちこめる。


「うわー! 爽やかな香り! これ、レモンですか?」


 爽やかな酸味を感じる香りは柑橘類を思わせたが、どこか青っぽさもある匂いだった。


「惜しい。レモングラスだよ。レモンみたいな匂いのする草。虫はこういう匂い苦手だからね。嫌って近寄らなくなる。ついでに、水虫にも効くんだよ」


 よし。帰りに同じ精油買って、自分ちのキッチンと洗面所に撒こうと恵は心に決める。このマンションほどではないが、恵の住むワンルームマンションもときどきゴキブリが出るのだ。決して、冬場にお気に入りのブーツを頻繁に履いてからというもの、ときどき足が痒くなって『もしかして水虫!?』と自分の足へ疑いを持っているわけではない。決して。


「といっても。一時的な効果しかないし。やっぱりまずは、1階の居酒屋さんに事情を話して生ゴミと廃油の処理を徹底してもらうしかないよなぁ」


 面倒くさそうに風間は頭を掻く。


「ですよね。じゃあ、行きましょう! 早くしないと、居酒屋の営業始まっちゃいますよ」


 ――――――――――――――

【レモングラス】

 イネ科の多年草。

 東南アジアやインドなどで数千年前から熱病や感染症の治療や予防に使われてきた薬草です。


 精神的作用としては、興奮や神経過敏を抑え、気力を高めてくれます。頭脳明晰作用もあり、勉強部屋にも向いている香りです。


 身体的作用としては、鎮痛作用や抗ウィルス作用、血流を促す作用などがあります。また、乳酸の排出を促し筋肉をしなやかにさせる働きもあるため、筋肉痛にも効果があり、運動時のクールダウンにも使われます。


 さらに、この精油に多く含まれるシトラールは虫が嫌う香りであるため、虫除けにも効果があります。

 殺菌作用があり、特に水虫の原因になる白癬菌に効果があるといわれていて水虫対策にも使われます。


 妊娠中の使用は避けた方がいいでしょう。また、高濃度で使用すると皮膚刺激を強く感じることがあるため敏感肌の方は要注意です。




【精油の楽しみ方・その2】


 〇ティッシュやハンカチに垂らして

 テッシュやハンカチに数滴垂らして、楽しみます。花粉症に効く精油をマスクに垂らすのもよし。ただし、精油は肌に直接触れない場所につけましょう。


 〇スプレーを作る。

 無水エタノール5mlに精油3~5滴を入れて溶かし、さらに精製水45mlを加えてスプレー容器に入れるとお手製ルームスプレーのできあがり。

 使う時は必ず、振ってからご使用ください。


 ※精油は油なので、そのままでは水に溶けません。そのため、無水エタノールで溶かしてから水に混ぜます。


 〇風呂に入れる

 バスタブに湯をためて、そこに精油を1~5滴ほど入れ、あとはゆっくり湯につかって温まりましょう。

 洗面器に湯を張って精油を1~3滴ほど入れ、手浴、足浴も良いですね。


 〇その他

 熱湯を張ったマグカップなどに数滴垂らして蒸気とともに香りを広めたり、専用のアロマオイル用のペンダントに精油を染みこませて身につけたりなんていう使い方もできます。




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