第5話 失恋はローズ・アブソリュートで乗り越えろ


 恵が霧島工務店から、子会社の霧島エステートへと出向になって早数ヶ月。

 不満は多々あったけれど、改善したものもあった。その筆頭が勤務時間だろう。

 以前は終電ぎりぎりに帰路につく毎日だったけれど、今は夕飯時には自宅に帰れてしまう。


 これには、一緒に仕事している風間がほとんど残業をしない人だということも大きく影響していた。係長が定時にさっさと帰ってしまうので、営業第三係の他の面々達も必要最小限の残業しかしない雰囲気ができあがっていたのだ。他の係や課の人たちが残っていても、営業第三係の人たちは「お先に失礼します」と皆、とっとと帰ってしまう。


 はじめはまだ5時台に帰路につくことへ何だかも言われぬ罪悪感にかられて時間を持て余していた恵だったが、それもほんのわずかな間のことだった。いつしか勤務時間が終わると同時にデスクをたつことも普通の事の様に思えるようになっていた。

 むしろ、夕方が近づくと、今日はどこに寄ろう、何しようと楽しくすらなってくる。


 工務店にいた時は彼氏ともすれ違いばかりだったけど、ようやくプライベートを充実できる! そろそろ結婚も考えたいし、この出向はむしろ自分の人生にとって好都合だったんじゃ?なんて良い方に考えることも増えてきた矢先のことだった。


「悪い。俺、他に好きな人ができたんだ」


「……へ?」


 一緒に安い焼き肉屋で肉をつついているときに言われた一言。まさに、青天の霹靂とはこのことだ。

 アルコールの入った勢いそのままに問い詰めたところ、なんと彼氏の二股が発覚した。仕事が忙しくてあまり会えない恵との関係を寂しく感じ、もう一年以上前から浮気をしていたことを彼氏は白状したのだ。


 その場で思いつく限りの罵声を浴びせて帰ってきた恵だったが、家に帰って一人でいると悲しさと悔しさで涙が止まらなくなった。


「……そんなわけで、今日は人前に出られそうにありません」


 営業第三係のデスクに力なくポスっと座った恵は、向かいのデスクに座る風間に力ない声で伝える。


 昨晩は一睡も出来ず泣きまくったおかげで、目元は腫れ上がり、いくらメイクで隠そうとしても酷いむくみは隠せなかった。


「まぁ……それは、僕や他の人で対応するからいいんだけど。……なんだったら有給休暇とって帰ってもいいよ? ほとんど使ってないから沢山あるだろ?」


「いえ……大丈夫です。人前に出る仕事以外はできますから。昨日、ネットで呪いセットを買ったんです。五寸釘と藁人形と太い蝋燭ろうそくが入ってお買い得なやつ。ふふふ……届いたら近所の神社に、丑三つ時にこっそり忍び込んで」


 なんて暗い笑みを浮かべながらブツブツ言っていたら、向かいの席に座る風間の表情が引きつっているのが見えた。どんいているのは間違いない。


「……冗談ですってば」


 でも、それくらいしてやりたい気分ではある。そうこうしていると、昼休みのチャイムが鳴った。恵はパソコンを落とすと、小さくため息をついて足下に置いたトートバッグからお財布を手にとると立ち上がった。

 外へ行こうとして、ふと思いつく。


「そうだ。係長。なんか、こういうときに効く精油とかありませんか?」


「え? ……んー、そうだなぁ」


 風間は少し考えたあと、デスクの引き出しから一つの茶色い小瓶を取り出して恵に放った。デスク越しに小瓶をキャッチして、恵は手のひらを開く。

 小瓶には『ローズAbs.』とあった。


「ローズ、エービーエス?」


「ローズ・アブソリュート、だよ。アブソリュートは溶媒を使って精油を抽出する方法のことをいう。そうすると香りの成分が壊れず抽出できるんだってさ」


 恵が小瓶の蓋を開けると同時に風間が指を鳴らす。甘く芳醇な薔薇の香りがふわりと恵の全身を包み込んだ。


「うわぁあああ! すっごい、良い香り!」


 1000本の薔薇の花束に顔を突っ込んで思い切り深呼吸したかのような、ゴージャスな香りに酔いしれそうになる。幸福感溢れる香りに、先ほどまで鬱屈して淀んでいた元彼への恨み辛みなど、どこかへ飛んでいってしまったような気持ちになった。


薔薇ローズの香りは、情緒を安定させて自信を取り戻させてくれるからね。風呂とかに入れてもいいかもね。肌のくすみとかにも効くらしいし」


「うわぁ、それいい! すごくいいです! 今晩は、うし刻参こくまいりやめて、薔薇買ってきてお風呂に浮かべよう。そんで、この精油も垂らしたら最高じゃないですか!」


 それを考えると、今にも心がウキウキしてくる。


「それにしても、……係長。こんな女子力の高そうなこと、よく知ってますよね」


 精油に詳しいのは前から知っていたが、女性が好みそうな精油の特徴や使い方までよく知っているのが少し不思議ではあった。


「まぁ………、娘とね。話すきっかけが欲しくて、いろいろ調べたんだよ。いま、中3でさ。こんなきっかけでもないと話すネタなんてなかなかなくてさ」


 なんと、涙ぐましい努力の成果だった。


「えー、でもすごいですよ。そういう家のことは奥さん任せにして、思春期の娘さんには腫れ物に触るようにしちゃうパパさんも多いじゃないですか」


「僕も、昔はそうだった。でも今はうち、奥さんいないから」


「え……」


 娘さんの事は風間の口からちょくちょく聞いていたので知っていたが、そういえば奥さんの話は聞いたことがなかったことに恵は思い当たる。


「すみません。離婚されてたなんて知らなくて……」


 謝る恵に、いいや、と風間は薄く笑みを返した。


「離婚したわけじゃないんだ。3年前。僕が自宅に帰ったときには、もう、亡くなってた」


「え……」


風間の普段と変わらない淡々とした口調とは裏腹に、その内容は雑談として聞き流せるような軽いものではなかった。


「他殺が疑われているけど、犯人はまだ見つかっていないんだ。……と、こんなこと話していると昼休みが終わっちゃうな。コンビニに昼ご飯、買いに行くんだろ?」


「え……あ……は、はいっ」


 促されて、恵は慌てて財布を掴むとデスクを後にした。けれど、頭の中には先ほど風間から聞いた話がぐるぐると渦巻いて離れない。


(え……、奥さん……他殺……!? 犯人見つかってないって、そんな……)


心臓がドキドキ大きく脈打つのは、エレベーターホールまで小走りしたせいだけではない。


(でも……そっか。それで……)


 風間が毎日定時で帰る理由に、ふと合点がいった気がした。彼は、残された娘さんのために早く家に帰っているのだろう。霧島工務店から霧島エステートに移ってきたのも、そのためなのかもしれない。


 犯人はまだ見つかっていないと風間は言っていた。それは、どんなに不安で心配で、悔しいことだろう。きっと恵には想像だにできない辛さに違いない。


(早く……見つかるといいですね……)


 そう願うことぐらいしか、恵にはできなかった。


 ――――――――――――――

【ローズ・アブソリュート】


 誰もが知っている薔薇科のお花。

 アブソリュートとは、溶剤をつかって精油を生成する方法のこと。熱を加えないこの精製法だと香りの成分が壊れにくいため、芳醇な香りを楽しむことができます。


 精神面では緩和作用と高揚作用をもたらすため、情緒不安定や自分への自信のなさを改善する効果があります。悲観や嫉妬、恨みといった負の感情も和らげます。


 また、老化やくすみ対策としてスキンケアにも有効ですが、肌につける場合はローズ・オットーの方が有効成分が多いようです。



【精油の楽しみ方・その1】


精油の香りを拡散して使う方法です。

〇ディフューザーを使う方法

ディフューザーは超音波で水と精油を振動させて霧状にする電動の機械です。タイマーがついているものがあったり、火を使わないので火事の心配がない、効率的に香りを拡散できるなどの利点がありますが、比較的高価です。


〇アロマランプ、アロマポッドを使う方法

上皿に水を張って精油を数滴垂らし、下からキャンドルや電球で熱します。

香りはほのかですが、特にキャンドルの光は温かみがあって見ているだけでもゆったりした気持ちになれます。


〇素焼きの石

専用の素焼きの石に精油を垂らし、わずかに立ち上る香りを楽しみます。火も電気も使わないので、玄関や室内に置いておくのにも便利です。


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