第7話 カモミール・ローマンで安らかな眠りを


 街が寝静まる頃。

 風間は自宅のダイニングテーブルにノートパソコンを広げて、会社から持ち帰った報告書の仕事をしていた。

 しんと静まりかえった室内に、風間の打つキーボードの音だけが響いている。


 彼はふとその小気味よい音を止めると、リビングにあるソファに目をやった。


(あれから、もう3年か……)


 妻の香奈かなは、よくそこのソファに座ってタブレットで電子書籍を読んでいたな、なんて当時の姿が脳裏に思い浮かんだ。


 3年前のあの日。

 風間はいつもと変わらず会社で遅くまで仕事をしていた。同じ会社の経理部にいた香奈が毎日早く帰って家のことをしていたのは知っていたし、有り難いなともおもっていたが、自分は家事も子どものことも妻に任せて午前様の毎日を送っていた。


 その日も、そんな普段と同じ一日のはずだった。

 しかし、そんな風間のスマホに、娘から電話がある。塾の帰り道、いつもなら最寄り駅まで迎えにくるはずの母の姿がなく、一人で帰宅したものの家にも母がいないという。

 どこかにちょっと出かけてるだけだろうと思って妻のスマホに電話を掛けるが、呼び出し音は鳴るものの出ない。LINEも読んだ形跡がない。


 嫌な予感がして、風間は仕事を切り上げ急いで自宅に戻った。自宅のマンションでは、娘が不安そうな顔をして一人で縫いぐるみを抱いてダイニングテーブルの椅子に腰かけていた。そのすぐあとに、インターホンが鳴る。訪れたのは数人のスーツ姿の男。警察の人間たちだった。


 香奈は、自宅マンションから少し離れた場所にある私鉄の高架下で倒れていたという。そこは住宅街を繋ぐ一方通行の道路で、線路の向こう側とこちら側を行き来する近隣住民が使う程度の人通りの少ない道だった。発見時には既に彼女の息はなく、財布とスマホだけを所持していたことから、線路の向こう側にあるコンビニに行こうとして通りがかったときに何者かに襲われたとのではないかと思われた。司法解剖の結果、判明した死因は首を絞められての絞殺。おそらく手で絞められたのだろうというのが警察の見解だった。


 犯行時刻は、夜の8時頃。捜査のために風間自身も取り調べを受けたが、犯行時刻に風間が会社にいたことを多くの同僚が見ていたことからすぐに疑いは晴れた。しかし、犯人は未だに見つかってはいない。顔見知りによるものか、それとも通りすがりに巻き込まれたのか、それすらわかってはいない。目撃者もいなかったため捜査は暗礁に乗り上げたままだ。


 それから、風間は降格願いを出して霧島工務店での課長職を捨て、霧島エステートの南関東支店に来た。そこを選んだのは、自宅から近いからだ。あそこなら、定時にあがれば6時頃には自宅につける。かつて妻がしてくれていたように娘のために夕飯をつくる時間もとれるし、何より夜に娘を一人家に置いておかなくて済む。


 一時は、まだ犯人も見つからない現状で同じ地域に住み続けることに不安を感じて引っ越そうかとも考えたが、娘が断固拒否したため諦めた。彼女にとっては生まれたときから住んでいる、母親との思い出が詰まった場所だ。母を亡くして情緒不安になっている娘をここから引き離すこともできなかった。


(さて。もう少し頑張ってキリのいいところまで終えてしまおう)


 風間が再びノートパソコンに向き合ってキーボードを叩き始めたとき、ガチャッという音が静かなリビングに響く。

 そちらに目をやると、娘の亜里沙ありさがパジャマ姿で立っていた。


「どうした? 眠れないのか?」


 亜里沙はコクンと頷くと、テーブルの向かいの椅子にポスっと腰を下ろす。ゆる可愛いネコの縫いぐるみを抱いて、そこに顎をのせた。


「寝ようとしたんだけど、なんか寝れない。明日、塾のクラス替えテストがあるのになぁ。もういっそ、寝ないで勉強しようかな」


「……徹夜は、やめた方がいいんじゃないのか」


「だって、ベッドでゴロゴロしてても寝付けないんだもん」


 亜里沙は、むすっと頬を膨らませる。中3で受験を控えている今、ナーバスになっているのかもしれない。それとも、3年前のことが蘇ってくるのだろうか。

 あの時も、娘は小6で中学受験を控えていた。結局、事件のあと受験どころではなくなってしまって中学受験塾をやめた娘は地元の公立中に進んだのだが。


「ちょっと待ってて」


 風間は立ち上がると、キッチンへと向かった。

 牛乳を注いだ小鍋をコンロにかける。そして、戸棚から白いドライフラワーが入ったガラス瓶を取り出した。蓋を開けて、ドライフラワーをいくつか手に取ると、鍋に入れる。

 それはカモミール・ジャーマンのドライフラワーだった。カモミールティーにはジャーマン種を使う事が多い。ローマン種はハーブティにすると苦みがあるからだ。


 弱火でしばらく煮てから、マグカップ3つに茶こしでカモミールを濾しながら注ぎ、さらにハチミツを一さじずつ入れて甘さをつけた。

 カップをテーブルに持って行くと、一つを亜里沙の前に置く。


「ほら。これ飲んだら、もう一度ベッドに入るといいよ。きっと寝られるから」


 亜里沙は嬉しそうに頬を緩めると、包み込むように両手でマグカップを持ち、口をつける。風間は、こっそりカモミール・ローマンの精油の瓶を開けて小さく指を鳴らした。ふわっと甘いリンゴのような優しい香りが広がる。ハーブティにするとジャーマン種の方が苦みが少ないが、精油の場合は逆にローマン種の方が甘い香りが強い。

 それに、ローマン種の精油は心を休ませて安心させる効果が強いと言われている。


「うわぁ。良い匂い。パパが作ってくれるハーブティって、お店で飲むのよりも香りがいいよね。なんでだろう」


 なんて娘は首をかしげる。風間は苦笑を浮かべて、さぁ?なんでだろうなと適当に答えた。そして、自分の席にマグカップを一つ置くと、もう一つのカップを持ったままテーブルを離れた。


「それ、ママにあげるの?」


 娘に言われて、風間は「そう」と目を細める。

 そして、リビングの横にある和室へと足を向けた。和室の奥には小さなテーブルが置いてあり、その上に位牌と写真がある。

 写真の前にカモミールティのマグカップを置くと、正座して軽く手を合わせた。


「甘い物、好きだっただろ?」


 そう言って小さく笑うと、立ち上がって娘のところに戻った。

 カップからは穏やかな香りとともに、柔らかく湯気が立ち上っていた。写真の中の最愛の人は、3年前から変わることのない笑みを静かに湛えている。


 ――――――――――――――

【カモミール・ローマン】

 30cmほどの多年草。

 花言葉は「逆境に負けない強さ」。

 古代ギリシャの人たちは、その甘いリンゴのような香りから「大地のりんご」と呼びました。


 動揺している心を静めて休ませたり、過度な興奮やショックを抑えて気を落ち着かせたりするなど強い鎮静効果があります。不眠の解消にも使われます。


 また痛みを和らげる効果もあるため、筋肉痛や緊張性の頭痛の緩和にも使われます。消化不良や胃の痛み、腹痛の改善など胃腸系のトラブルにも使われます。


 さらに、月経を促す作用もあるため月経不順にも用いられます。


 子どもにも使える精油ですが、低血圧の方や妊娠中の方は要注意です。特に妊娠初期には避けた方が無難です。

 また鎮静効果が強いので、同様の作用をもつ精神薬と併用すると作用が強く出る場合がありますのでご注意ください。

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