第15話 スリースターズの行方
快晴。
蒼穹と呼ぶにふさわしい空を見上げて、その眩しさに目を細めた。
汗をかいて部室から重たい機材を持ち運び出しながら、ずっと心待ちにしてきたこの日がついにやってきたということを実感する。このまま身体が宙に浮かびあがってしまいそうなそわそわとした感覚は、何度味わっても中々慣れない。
でも、これだけは胸を張って言える。
今日は、絶好のライヴ日和だ。
いざ、大勢の人を前にして楽器を手にしたら、震えてきて、難しいフレーズも頭から吹き飛ぶんじゃないかとか、そういう心配が一切ないといったら嘘になるけれど。
それ以上に、
*
先週の日曜日。
田上先生と別れた後、俺は逸る気持ちで樹と咲の二人にそれぞれ電話を掛けた。
『三人で会いたい。俺、二人に伝えたいことがあるんだ』
樹も咲も最初は躊躇い気味だったけど、いつになく真剣な声色で訴えかける俺にほだされて、家から地元の駅まで駆けつけてくれた。
元々外に出ていた俺が一番先に到着したのは当然のこととして、二人はほとんど同じ時間にやってきた。
樹も咲も俺には挨拶をしたのに、お互いの顔を見るや気まずそうに視線を逸らして、口を噤んでしまった。いくらか時間をおいているし、二人とも頭が冷えてきて多少なりとも和やかな空気になっているんじゃないかという俺の甘い見通しはビリビリに引き裂かれた。
胃が痛くなるような剣呑とした空気に先を思いやられながらも、さっき先生の語ってくれたことを反芻しながら、どうにかしぼみそうになる心を支えていた。
先生から、先人の知恵と勇気を分け与えてもらった今の俺ならきっと大丈夫だ。
中学時代から三人でよく利用していたファストフード店に足を踏み入れる。そんなに混んでいなかったから、すぐに注文することができた。メニューを目にした時、もう一度ブラックコーヒーにチャレンジするか少し迷ったけれど、背伸びせずにアイスティーだけ購入することにした。
注文の品を受け取ると、俺たちは店内の奥の方にある丸テーブルに腰掛けた。
いつもバカみたいに明るい樹と咲が、その時ばかりはそろいもそろってまるでこの世の終わりを宣告されたかのような暗い顔をしていた。未だに重たい空気が取り巻いている中、俺は決意を固めてすっと息を吸い込んだ。
『結論から言うけど……俺はやっぱり、この三人でバンドを続けたい』
『……まー、ハルがそう言い出すことは、最初から予測してたけどよ。咲が、バンドだけが全てじゃない。バンドと同じくらい他のことも大事だってってゆーんなら、無理にはとめれねーだろ』
樹が、小さくため息を吐く。
諦めの滲んだその言葉に、咲は何か言いたそうな顔をした。でも、樹の言葉が想像以上に的確で、反論しようにもできなかったのだろう。口を開く代わりにほんのり紅く色づいた唇を噛んで、視線をテーブルの上に落とした。
『うん。でも、俺は思うんだ。咲にとってバンドは全てではないのかもしれないけれど、たしかに大切なもののうちの一つではあるはずだって。だって、咲のドラムは一年前に比べて、びっくりするくらい軽やかになったし、安定感も格段に出てきた。それは、前に咲自身も言ってたように血の滲むような努力のたまものなんだとは思うけど……楽器が好きな気持ちがなかったら、きっとここまで努力できなかったと思う』
ベースとドラムで携える楽器は違えど、楽器の上達がいかに日々の地道な努力にかかっているかということは痛感している。中々すらすらと弾けるようにならなくて、何度、歯がゆい思いをしたことか。
きっと、そんなにバンドに思い入れがない人だったら、咲くらい叩けるようになる前にとっくに匙を投げてしまっただろう。
咲が、ゆっくりと顔をあげる。
アーモンド形の瞳は、次の俺の言葉を恐々と待っていた。
『咲は、俺たちの思う頑張ると、あたしの思う頑張るは違うのかもしれないって言ってたね。それは、その通りだ。人はそれぞれ別の価値観を持っていて、同じことを体験しても全く違う風に感じる。それって、当たり前のことだ。でも、違っていて当然な中で、俺たちはたしかに同じバンドを好きになって、分かりあえたでしょ? つい見逃されがちだけど……それってきっと、ホントは凄いことなんだ』
その時、二人は驚いたように切れ長の瞳を見開いて、俺のことを見た。
一億人いれば、一億通りの価値観がある。
だからこそ、全員が納得する絶対的な拠り所なんて、どうやっても見つかるはずがない。そうやって途方に暮れてしまう気持ちもよく分かる。
でも、暗い方にばかり目を向けていないで、少し違う角度から眺めてみればこんな風にも見えてこないのだろうか。
人の数だけ存在しているといえる膨大な価値観。
その中で、俺たち三人は同じバンドに心惹かれたという点において、たしかに重なった。普段気にも留めていなかったことだけど、きっと、これって今まで思っていた以上に奇跡的なことだ。
そもそも違っているからこそ、少しでも合致した時に心から嬉しく思う。
同じことを好きだという人に出逢った時に舞い上がるのはこういうことだった。
『もちろん、いくら同じものを好きになったからといって、好きの深さも程度も人それぞれだよ。だから、そのレベルまで完璧に一致している人を求めることは、限りなく不可能だ。それに、もしそんな奴が存在してたとしても、俺はそいつと一緒にやっていきたいとは思わない。だって、何を経験しても全く同じように感じる相手なら、話をするまでもなくそいつの考えてることが分かっちゃうだろ? そんな奴と一緒にいてもすぐに退屈しちゃうよ』
もし、全人類が色も形も同一で均等な価値観を有していたら、共感できたことへの喜びは生まれない。
違いがもたらすのは、分かりあえないという絶望だけではないのだ。
違っているからこそ、人との関わりは常に発見や驚きに充ちていて、分かりあえた時はとてつもなく嬉しい。その意味で、希望でもあるのだ。
二人は黙りこくって、俺の話に耳を傾けている。
『たしかに……現実的な話をすれば、咲よりもっと熱意のあるドラマーも、探そうとすれば見つかるのかもしれない。でも、俺と樹がどんな人とやっていくにしたって、そいつとなら上手くやっていける保証なんてどこにもない。だって、物事の感じ方や受け取り方は人によって千差万別なんだ。だとすれば、二人以上集まって何かしようとする時点で、どこかで衝突してしまうことも逃れられない宿命なんだ。だからこそ、少しぶつかってしまったくらいで、価値観が違うからだなんていうある意味当たり前の理由で早々に諦めてしまうことは、勿体ないことだと思う』
相対主義の蔓延った世の中で、一人闘い続けたソクラテスを脳裏に思い描く。
国家って言うとスケールが大きく感じるけれど、厳密な難しい定義を抜きにしてものすごく簡単に考えれば、要は、沢山の人が集まって一緒に生活をしているということだ。
民主主義は、国を成り立たせている国民一人一人が真摯に国の未来を思って決断を下していくことで、初めてその真価を発揮する。
民衆が、どうやったらみんなが気持ちよく幸せに暮らしていけるか考えることを放棄してしまった瞬間から、アテネの民主主義は堕落した。
バンドという小さな国を成り立たせるためにも、きっと同じことが言える。
『ねえ、樹、咲。二人とも、叶うことなら、これからも三人で一緒にやっていきたいと思ってるでしょ? 樹は難しい曲をやりたいけど、咲が練習を負担に思っているなら、ギターソロが派手で、ドラムは比較的簡単な曲を選ぶという方法もある。咲がバイトでこれない日は、俺と樹だけでスタジオに入って、ドラムの代わりにメトロノームを流して練習したって良い。何が一番良い方法かは分からないけど、ちょっと俺が考えただけでもこれだけの方法があるんだから、三人で話し合えばきっとうまくいく。三人にとっての最善を、見つけにいこう』
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