第14話 天使でも悪魔でもなく…

 また、だ。


 先週にも、似たようなことがあった。


 今日もまた、熱弁し終えた後の田上先生の瞳からは、それまで煌々と灯っていた光がふっと吹き消されでもしたかのように消え失せてしまった。


 田上先生にそんな暗い顔をしてほしくなくって、先週は、拙いながらに頑張って自分に生じ始めた変化を言葉にして伝えた。それは全て、先生の機嫌を取り戻すために繕ったものではなくて、紛れもない俺の本心だった。


 その時に感じた思いは、今でも変わっていない。


 それどころか、先週以上に沢山の話を聴けて、俺は嬉しかった。


 先人の生み出した知恵が現代にも十分通じるものなのだと先週以上に分かってきて、長いこと眠り続けていた学習意欲が、淡い電流を流され続けているようにずうっと震えてた。


 何よりも……他でもない自分自身の頭で考えに考えあぐねた末に、納得のいく答えに行きつくことができた時には、晴れ間がのぞいたように心が凪いだ。


 こんな俺落ちこぼれでも、哲学について考えてみて、自分なりの答えを出すことができた。


 あの時、それまでうじうじと悩んでいたことが随分とちっぽけなことだったように感じられた。


 テストで良い点数を取らないと、大事なベースを売り捌かれるから。


 勉強しなきゃと焦ったきっかけはそうだったけど、今は、それだけじゃない。


 俺は……純粋に、こんな時間が少しでも長く続いてほしいと思ったんだ。


 先生と哲学の話をするのは、楽しい。

 今では、ハッキリと迷いなく、そう言い切れる。


 それなのに。


 どうして先生は、そんな辛そうな顔をして謝るの。


 田上先生は、好きで好きで仕方のないことについて、ありったけの愛と熱意を込めて語っただけだ。何一つ、悪いことなんてしていない。


 でも、そんな風に暗い顔をして謝ったら、まるで先生が悪いことをしたみたいじゃないか。


「……なんで、謝るんすか」

 

 渇いた舌から絞り出した言葉は、悔しさで少しだけ掠れてしまった。


 たしかに、あまりにも語りに熱が入りすぎて、そもそもこの話のきっかけとなったバンドの解散の危機からは、少しだけ脱線してしまったかもしれない。


 でも、そもそも脅迫じみたことをしてまで勉強を教えて欲しいと頼み込んでいる俺に哲学の話をしたからといって、そんな風に後ろめたいことをしてしまったような顔をすること自体がおかしい。そんなの、間違ってる!


 未だに顔を曇らせている田上先生を真っ直ぐに見据えた時、先生の細い肩が揺れた。


 俺はこの胸のわだかまりを吐き出すように、強い口調で言った。


「人は、悪いことをしたなって思うときに、謝るんですよね? なのに、先生は今、なんにも悪いことしてないのに謝りましたよねっ!? 先生が俺に対してそんな風に謝ったら、まるで哲学について語ることが、悪いことだったみたいじゃないですか!」


 その時、田上先生はハッとこぼれんばかりにその瞳をさらに大きく見開いて、俺のことを凝視した。その磨き抜かれた漆玉には、唇を強く噛んで、眉根を寄せている俺の姿が映っている。


 俺はただ、自分が心の底から楽しいと思った時間を、他でもない先生に黒く塗り替えて、貶めてほしくなかった。


 彼女の桜色の唇が、迷うように開いては、閉じられる。


 先生は、何て返答すべきか酷く迷ったのちに、蚊の鳴くような小さな声を絞り出した。


「…………最初はみんな良い顔をするくせに……私がひとたび哲学の話をし始めると、みんなもう沢山だって顔をして、いつの間にか離れていってしまうのよ」


 ぽつりと落ちた言葉は、俺の耳に届くか届かないかくらいの小さいもので。


 でも、悔しさで震えかけていた心を冷ますには充分すぎるほどの淋しさが滲んでいた。


「えっ……」

「別に、去っていった彼らのことを責めているわけではないの。いくら興味の持てない話を散々されたところで、苦痛でしかないことは身に染みて分かっているから……。だ、だから……」

 

 縋るように見つめられて、直接心臓を素手で撫でられたようにドキリとする。


 天変地異の何が起こっても動じなさそうな先生は、今、生まれたての無垢な子鹿のように、弱々しく震えていた。


 田上先生はきゅっと瞳をつむると、風に紛れたら消えてしまいそうなくらいにか細い声を、どうにかして絞り出す。


「あ、天野君にも……うっとしいって思われちゃったんじゃないかなって……不安、で」

 

 いつになく弱々しいその言葉は俺の心にすっと垂れ落ちて、水が浸透するように染みわたっていく。


 そ、っか。


 俺がどうしようもない落ちこぼれだからと先生から見放されることを恐れたのと同じだった。


 先生は先生で、俺に見限られるかもしれないと不安に思っていたんだ。


 俄かに信じがたくって、田上先生のことを呆然と見やる。


 目の前にいる先生は今、学校にいる時の天使のように清らかな聖女でもなく、刺々しい毒を吐き出しまくる悪魔でもなかった。


 紛れもなく、か弱くて、守ってあげたくなるようなただの一人の女性で……それが、どうしようもなく可憐で胸を締め付けられるようで。


 ……これは、本格的にヤバイ。


 先生をこんな風に追い詰めてしまったのは自分で、動揺している場合じゃないのに。どうやっても頬が燃え上がるように急速に熱くなっていくのを、とめられない。


 先生が今、ものすごく勇気を奮って自分の心の柔らかい部分を曝け出してくれたのだとおもうと、心臓が痛いくらいに高鳴って、苦しいくらいで。


 動揺する心をできるだけ宥めるように、スッと小さく息を吸った。


 落ち着け、天野 晴人。


 先生が熱意を込めて哲学について語るのを聴くことが、どれほどわくわくすることなのかということを、きちんと伝えなきゃ。


 過去に、先生に心無いことをした人たちのことを思うと、こぽこぽと血が沸き立ってきて、そいつらのことをぶん殴りたくなってくるけれど。


 今はとにかく、俺に対してそんな不安を抱く必要はこれっぽっちもないんだって、ちゃんと分かってもらわなきゃ。

 

「そんなこと、思うわけがないじゃないですか。うっとうしいどころか……ずーっとでも聴いてたいって、本気で思ったくらいです」

 

 田上先生の瞳が、俺の本心を探るように、恐々と揺れる。


 ねえ、先生。

 どうか、俺のことを信じてほしい。


「まだ出会って日も浅い俺がこんなことを言ったら、知ったような口をきかないでって怒られそうだけど……田上先生はきっと、哲学の話をしている時が、一番、輝くんです。だから、そんな風にブレーキをかけてしまわないでください。少なくとも俺は、哲学を心の底から愛している先生に惹かれてるんですよ」


 瞬間。


 時が止まってしまったかのように、田上先生はピタリと動きを止めた。

 

 なにか信じがたいものでも視界に映っているかのようなぼんやりとした瞳で、先生はただただ俺のことを見つめている。


 嘘偽りのない正直な思いをそのまま言葉にしただけなのだけど、そんなにおかしいことでも言っただろうか?


 首を傾げながら、ふとした時に先生からこぼれるあの優しい微笑を真似して、頰を緩めた。


「それに先生は、結果的に俺の悩みにも、答えをくれました。今後どうなるのかはまだ確実にはわかんないけど、俺にできるだけのことはやってみます。いや……絶対、今の三人で、新歓ライブに出てみせます! だから、その……遠くからでも、眺めてくれたら嬉しいです」

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