第14話 猫は気まぐれ


 昼下がり。

 柔らかな陽を受けて暖かくなったそよ風に毛先を揺らす。こんな穏やかな日は外でのんびりと昼寝に限るだろう。そう心に決めて意気揚々と勝手知ったる街中をひとり散歩する、今日の涼子りょうこはご機嫌だった。金の瞳をきらきらと輝かせて、三角の耳を立て長い尻尾を揺らすこの猫は、ここだけの話、かつて白面金毛の九尾と畏れられたこともある化け狐だ。紆余曲折(話せばそれはそれは長い話になる)あれど、今は小さな町外れの山に建てられた無名の神社でひっそりと祀られている。本来であれば境内でひとり遊びに興じることが望ましい立場ではあったが、暇を持て余してはこうして家族同然共に暮らす神主たちの目を盗み街へ降りることが彼女の楽しみのひとつだった。

 そんな彼女の常は美しい黒髪の麗女のなりをしている。昔から最も馴染んだその姿は彼女の一番のお気に入りだ。寝るときも食べるときも遊ぶときも、基本はその女の姿をしていた。そしてその人型の次に好む姿が、現在ご機嫌で尻尾を揺らして歩く黒毛の猫の姿なのである。艶々の毛並みを降り注ぐ陽に輝かせ、遠目に見ても整った顔立ちと分かるその姿は住宅を闊歩すればたちまち目を惹く。そう、猫好きは多い。少しサービスをしてやれば皆愛らしい猫にメロメロとなる。元来目立つことが嫌いではない性格の涼子にとって、その事実はなんとも優越に浸る時間をくれた。

 だから暖かな昼下がりはこうして知らぬ人の家の塀を我が物顔で歩き、たまに木陰で一息ついて、「帰りは総一郎そういちろうのところでコーヒーでも飲んで帰ろうかしら」なんて楽しみを膨らませている彼女が人の目をそこまで警戒しないのは致し方ないことでもあった。そう、だから『田中』と表札のかかった塀を歩いている際に、まるでそこらの間抜けな猫のように捕まったって全くもって致し方ないのである。


 「ニ゛ャ゛……⁈」


 手つきは慣れて優しかった。傷つけないよう柔らかに、脇の下から両手を入れて涼子を持ち上げたのは見知らぬ女性だ。二十代前半だろうか、グレーのパーカーをざっくりと羽織っている。彼女は可愛らしい見た目のはずの猫(涼子)を顔の前まで持ち上げると、神妙な面持ちでこちらをヒタと見つめてきた。恥ずかしくなるくらい、それこそ穴のあくほど、ガン見である。何か見た目が可笑しかっただろうか。猫の体で狐の尾っぽなぞになっていなかろうか。持ち上げられながら自身の身体に異変がないか確かめる。が、問題はない。ならばこの熱烈な視線は無類の猫好きに依るものか、はたまた溢れんばかりの美貌に見惚れているのか。美しすぎるのも罪ね、なんて呑気なことを考えている涼子を知ってか知らずか、程なくして女性は「違うよねぇ」なんてため息混じりに呟いた。そうして元の塀の上まで下ろすと、頭や首を指先で撫ぜながらにこりと笑う。


 「ごめんね、猫違いでした」

 「ニャ」

 「うちの猫も黒毛なんだ。クロっていうんだけど、三日も帰って来なくて。もし見かけたらばあちゃんが心配してるから帰ってこいって伝言お願いしてもいいかな」


 よろしくね、と期待もしてないような声色で最後に喉を撫でると、彼女は手を振って家へ入っていった。まったく無礼だわ、なんて首を振り、はてと思う。クロなんて猫は知らない。というかそもそも他の猫と交流は全くない。知らないなら、しょうがない、と思う。


 (だって、しょうがないし……)


 かつては悪戯(伝承にまで残る、あんなこんな全てはちょっとした悪戯だ)も多く海を跨いで世を騒がせた涼子ではあったが、今はこの街をひっそりながらも見護る街外れの神社の主である。叶えられない願いは多くあれど、少しくらいは手を貸してやっても……、なんて最近は思うようにもなってきた。だから、こんな小さなことくらいはどうにかしてやりたい。やりたいのだが。


 「手伝おうか?」

 「…………」


 こいつに頼むのは嫌だったのよね。

 と、いつの間にか隣に立ってにこにこと微笑む、黒髪の青年に隠すことなくため息を吐いた。いつから見ていたのだろう。のろのろと歩を進めた涼子に合わせるように青年は隣をゆっくりと歩く。濡れたように滑らかな黒髪に、黒のジャケット、黒のジーンズを履いている。中のTシャツも黒い。『SAMURAI!』と達筆に書かれたロゴと、ジーンズにジャラジャラとつけられたチェーンに彼のセンスを感じる。見目は若く十代のようにも見えるが、彼の醸す雰囲気は恰好とは真逆に落ち着いていた。黙って着物でも着ていればそれなりなのに、と整った目鼻立ちを盗み見て涼子は思う。自分より美しいものなんていないとは思うが、それでもこの男、顔だけは良い。

 俺、田中さん家のクロちゃん知ってるよ。と白々しく声をかける彼に、涼子は素知らぬ顔をして無視を決めこんだ。そんな彼女を意に介さず、青年は楽しそうに話しを始める。


 「ちょっと気まぐれで遠出したみたいだけど、もしかしたら今迷子になってるかもねぇ」

 「……」

 「しかもあの子犬嫌いだからなぁ。例えば涼子が足取り掴んで見つけてお願いしてもなぁ。話聞いてくれるかなぁ」

 「…………」

 「俺だったらなぁ、話せるんだけどなぁー」

 「………………」

 「なぁ〜〜」

 「あぁ! もう五月蝿うるさい!」


 猫が人の言葉を喋っているところを見られたら大問題なのは承知している。だがこの見目だけは良い男は、本当に、煩わしいまでにぺちゃくちゃとよく喋る。そう、涼子は彼のことが苦手だった。随分と年月を跨いで歳を重ねた彼女の数少ない年上の知り合い、というのも理由の一つである。確固たる実力をもった上で尊大な性格をしている彼女にとって、自身よりも強く、長く生きた存在というのは非常に接し辛い。なので出来うる限り関わりたくない、と思うのであるがそれは彼が許してくれない。


 「分かったわよ、頼れば良いんでしょ! それで今回は何がお望みなの、三彦みつひこ

 「ミッちゃん、って呼んでほしいなぁ」

 「そんなのどうでも、」

 「ほしいなぁー」

 「……〜〜!」


 本当に信じられない。敬意なんてどこにもない出来得る限りの蔑んだ眼(猫の表情だって意外と豊かである)で彼を一瞥してから、眉間にこれでもかと皺をつくって、今にも消え入りそうなか細い声で「ミッちゃんどうかお願いします」と呟いてやった。誰がどう見てもそれは “お願い” には程遠かったが、三彦には十分だったようだ。しょうがないなぁ、なんて嬉しそうににんまり笑った。分かっている。この男は単純に涼子をからかって遊んでいる。当たり前に涼子には筒抜けで(というか隠す気がない)、その事実もまた彼女を憤慨させる一因だった。


 「俺と涼子の仲だしね。お代は、そうだなぁ。今晩すき焼き食べたいなぁ、真人まことくんお手製のやつ」

 「……伝えとくわ」

 「あ、そうだ。ハワイのお土産もあるよ。ホントはこれ渡しに来たんだ」


 おもむろにマカダミアナッツチョコの箱を取り出してちらりと涼子を見ると、その姿じゃ持てないだろうから家に届けておくね、なんて下手くそなウインクを送ってるもんだから猫パンチではね除けてやった。そんな姿すら三彦にとっては他愛のないものらしい。ちゃっかりと涼子の頭をひと撫でして、それじゃあまた夜に、と颯爽と去って行った。いつの間にやら来たと思ったら、風のように去っていく。


 (あの化け鴉め……!)


 目の前で口にするのは少し憚られる、けれど真率になるのは些か不服な涼子の心中は、きっと彼にはバレている。そんな素直になれない彼女も恐らく手のひらの上、というのが益々気に食わない。


 (でもすき焼きっていうのは悪くないわね)


 とんだ散歩になってしまった。しかしまぁ、たまにはこんな日があってもしょうがないのかもしれない。結果的には夕飯は豪華になった訳だし、まずは家に帰って我が家の料理担当に今晩の献立変更を命じなければ。無理矢理にでも納得してかぶりを振る。それにきっとあの子は困った顔をするのだろうと想像すれば、思わず笑みが溢れ溜飲も下がるというものだ。その穏やかな心境が先の三彦と同様であることは、涼子は気付かない。

 そうだ、今日はせっかく天気が良いのだ。気を取り直し尻尾を揺らしてのんびりと、暖かな陽を受け愉しげに歩く。せっかくだから帰りにコーヒーを一杯だけ、飲みに店に寄ろうかと思う。持ち帰りに家族の分も買って帰れば、バチだって当たりはしないだろうから。



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梟の木 文月六日 @hadsukimuika

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