第13話 金の結婚指輪
梅の香が芳しくなりましたよ、と篠山家のお嬢さんより伝言を受けてようやく、私は二月ももう下旬なのだと顔をあげた。月日というのは本当に光陰のごとく過ぎ去ってしまう。そしてそれは歳を重ねることでようよう顕著になっていくようだ。まったく、一年など昨日のことのようである。
この喫茶店の本来の主による命により原則無休で営業をしてはいるここも、初春のこの日だけは休みを許されていた。
彼女の、昔の恋人の命日だけは、店の外へ出ることに目を瞑ってもらっていたのだ。
そんな仰々しく言い回してみたところで、やることといったら毎年変わらず慎ましやかなものである。街の外れにある昔からの地酒屋で一升瓶を二本買い、その足で裏山の神社へと向かう。長い長い階段を登って、石畳みの上で待ち構えている宮司に酒瓶を一本渡す。深々とお辞儀をひとつだけ置いて、そうして境内の裏手に咲く満開の梅の木の元へと向かう。毎度飽きることなく一年に一度だけ、白が美しいこの老木を、毎年見舞いに来るのである。
「やぁ。今日もいい天気だね」
片手に持った日本酒を開けると半分ほど根元にかける。私と梅の木以外居ないここで、当然その掛声に返事はない。無言を貫いても良いのだが、なんとも寂しがりの性分ゆえに中身のない言葉も口をついて出てしまうのだ。良い酒の匂いと
身寄りがないから墓はいらないと言った故恋人の言葉を受けて、位牌をはじめとした彼女を象徴たるものは遺していない。遺された者の立場としては実に不本意ではあるのだが、口は悪くとも我儘は少なかった彼女の数少ない頼みの一つであるならば聞かざるを得なかった。だから、この老木には彼女とは何の所縁もない。ただの美しく香り高い一本の梅の木である。
しかし何も無い、というのも置いていかれた側としては残酷なものだ。少なくとも恋人を失ったばかりの当時の私には耐え難かった。何でもいい、彼女のいない時間を生きるために両手で縋りつく “何か” が私には必要だった。
だから、これはひとつの折衷案だ。悩みに悩み抜いた末の、たったひとつの私の我儘なのである。
「今年の出来はなかなからしい」
懐から御猪口を取り出して一杯仰ぐ。酒屋の若が自慢していた通り、口の中でキンと映える米の旨さが秀逸な一品だ。空となった器を満たし再度杯を傾ける。ついつい杯が進んでしまう。立ちながらというのは些か行儀が悪いが、今日は無礼講なのだと目を瞑らせてもらった。
決して梅の木の下に死体が埋まっているわけではない。小指の爪の先ほどだって遺灰がかかっているわけでもない。別に梅でも桜でも紫陽花でもなんだって良かったのかもしれない。けれどかつて彼女の一周忌、立ち寄った花屋の片隅に置かれたこの芳しい白花の苗木をひと目見たその時、私は予定していた菊束ではなく小さな鉢植えを手にしていたのだった。柔らかな笑みを湛えて『それも縁でしょう』と言った私の雇い主は、この神社裏に植えることを勧めた。ここならば他の誰からの障りもなく根を伸ばせるだろうと。
その日から、もうかれこれ五十年程経つ。
当時は四六時中、寝ても覚めても、食事も喉も通らずに彼女のことばかり考えていた。今こうして皺も増えて髪も白くなりようやく、自ら彼女の元へ向かうのではなく迎えが来る日を待てるようになった。一年に一度、梅の香を楽しむ時間を待つようになれた。年々枝を伸ばし花を咲かすこの木に思い出を語るくらいには、過去を昔話として飲み込めるようになったのだ。
「ありがとう」
梅は何もしていない。
けれど、いつもここで私を待っていてくれる。それだけで十分だった。
ゆるりと老木の全貌を見回すと、一番近くに伸ばされた特に花蕾を多く携える枝へ目をつける。そうして宮司から借りた
毎年変わらず酒を買い、梅を見舞い、そうして店に置くためのひと枝を持ち帰る。それが、墓を持つことを許さなかった彼女への、私の独りよがりな慣わしになっていた。
「……帰るよ」
空の酒瓶を腕に抱えて梅に告げる。用は済んだ。ここへ訪れるのはまた来年だ。その次もそのまた次の年も、たった年に一度だけ、私の命が果てるまで付き合いを続ける。
「また、来年」
ほんのりと風に乗って花香る。
それがまるで物言わぬ樹木からの返事のようで、今日も私は頬を綻ばせて踵を返すことができる。
持ち帰った梅の枝はカウンターの端、いつも飾っている黒い細身の花瓶へと佇むように生けた。その隣にはこの日だけ、紺のビロードで飾られた小さな箱も置かせてもらう。中には結局恋人に渡せなかった金の結婚指輪が収まって輝いている。
彼女がこれを嵌めて隣で笑っている未来もあったのかもしれない。そんな夢想を掻き立てて、今日だけは、ほろりと梅の香を全身にまとうのである。
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