第12話 The Gold Wedding Ring
二人で借りているアパルトマンの一室から見える、交差点の一角にある人気の喫茶店が私たちの行きつけだった。豊かな髭がご自慢の店主と、その奥方で営まれている小さな店だ。子どものいないご夫婦は雌のフクロウを一羽店先で飼っており、近所では愛らしい売り子として評判だった。その店の名は『
私たちは休日には決まって、遅い朝食にその店のカウンター端でカフェとクロックムッシュを頼んだものだ。ご主人も私たちの顔を見ると人の良さそうな顔を綻ばせ、何も言わずににカップを差し出してくれた。白い陶磁肌に紺と金のラインが入った品の良いカップは、暖かなコーヒーに満ちてまだ寝惚けた頭を持つ鼻をくすぐる。口に含めばいっぱいに広がる苦味が覚醒へと導いてくれた。
「あ、この曲」
ハムとチーズに挟まれたサンドを大きくひとくち頬張った時だ。彼女はパンに噛り付いていた顔を上げて嬉しそうに笑った。
「あら、
良いわよねぇ、と言いながら搾りたてのオレンジジュースを差し出す奥方もまた、店内にかかる音楽へと耳を傾ける。流れているのは遼子が最近買ったレコードの最後に収録されている曲と同じものだ。確か『金の結婚指輪』と言った。歌い手はアメリカの女性で、ハスキーがかった声と節回しが魅力な人物である。
「いい声よねぇ。あまり海外の曲は聞かないんだけど、この
「分かります。特にこの曲が好きなんです」
「あの『ブラックコーヒー』より?」
「えぇ。なんか私と総一郎っぽくて」
「……それは初耳なんだが」
彼女がこちらを見ながら悪戯っぽく笑うのを複雑な思いで静止する。まったくもって聞き捨てならない。なぜならこの曲というのは “結婚指輪を渡したものの何れかの理由で側を離れることとなった男性を想う女性” を描いたものなのだ。何が悲しくて順風満帆(だと自分は思っている)に過ごしている恋人に、失恋ソングを重ねられねばならないというのか。実に不本意である。そして隠すことなく不満をありありと顔に出せば、違うのよ、とやはり笑いながら彼女は弁明をした。
「私たちの仕事柄、いつ何があるか分からないでしょう。だから、きっと、いつかあんたも私を置いていく日が来るんだろうって思ってさ」
二人で借りているアパルトマンの一室で、たった一人レコードをかける。そんな寂しい未来を想像してしまうのだという、それは彼女自身が悪いわけではなかった。幼い頃に事故で両親を失い、身寄りもなく孤児院で育ち、現実から逃げるように軍へ所属した彼女の、その生い立ちが悪いのだ。この異国の地で初めて見た遼子の顔は、今とは違う、まるで人形のように無機質だったことを思い出す。
コーヒーカップを持ち上げて鼻歌を歌う、今こうして笑っている彼女の、その心中は一体いかがなものなのだろう。優しい曲が切なさを掻き立てて、一人で、独りで、全てを失い佇む姿が脳裏に浮かんで眉間に皺を寄せ目を閉じた。
「……喫茶店をひらこう」
「へ?」
「ここシュエットみたいな、夫婦でやる小さな喫茶店がいい。君が買ってきたレコードをかけて、私がコーヒーを淹れる。何か看板メニューも欲しいな、考えておこう。日本へ帰っても良いし、私も国籍をとってここで暮らしても良い。とにかく、のんびりと明日を待つような、そんな仕事だ。週に二日ある休みの日には君は寝坊して、私が焼きたてのクロワッサンを買ってきてやる」
「何を……」
「私は、」
カップを置いた自分よりも小さな手をとり、困惑に満ちた目を見て息を吸う。ゆっくりと吐いて、遼子、と愛しい恋人の名を呼んだ。
「君を一人、石造りの家に残していったりなんてしない。君の最期を看取るまでずっと、私は共にいると約束する。だから、一人だなんてそんなこと、二度と口にしないでくれ」
ずっと一緒だ、誓うよ。瞳を逃さずに真正面から告げれば、彼女は詰まったような顔をして、バカみたい、とそっぽを向いた。その目尻に溜まった涙は見ないふりをする。ご主人と奥方は一連を優しい顔で見て微笑んでおり、今更柄にもないことを言ったと少し気恥ずかしくなる。誤魔化すように残ったコーヒーを煽れば、隣から囁くように「その話、乗ってやってもいい」と素直じゃない、けれど可愛らしい声が聞こえて自然と頬に口を寄せた。
どうか未来を悲観しないで欲しい。例え過去を拭えず悲しい思い出に捉われていたとしても、これから進む先が同じ暗がりだとは思わないで欲しい。少なくとも自分は、君が生き絶えるその瞬間まで手を握っていると誓うから。
次の休みは天気がいいことを願う。君の左薬指に嵌める、金の結婚指輪を買いに行かなければならないのだから。
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