鳥籠

青汁

空ろ色のグリーフ

 宵の空に星が瞬く。

 冷たい風が吹く静かな森の中、草を踏み締めて歩く縹色の髪の青年の姿がある。

 湖に面して弧を描くように連なる木々の合間を抜けながら、彼は歩く先を見上げた。

 

 ひとつの塔が見える。

 それは遥か昔からそこに立つように存在し、しかしお伽噺を目前にしたような非現実的な風貌をしていた。

 何より、その内部は外観の構造を全て無視して構築されていることを、彼は知っている。

 毒のような茜色と、死を思わせるほどの青空が、そこに広がっていたことを、彼は覚えている。

 僅か数日前に経験したばかりだった。


「ゆうげんふじっこう」


 無表情のまま塔を見上げる青年に、突如として声が掛けられた。

 近付く音も気配も何もなかったが、声がした方を振り向く青年の瞳の先に、確かに一人の少女が佇んでいる。


「あなた、あの街をでていくって言ってたじゃない」


 漆黒に近い濃紺の長い髪を揺らして現れた、一人の少女。髪よりも黒い薄手のワンピースを着ている。

 見た目こそ10歳前後ほどだが、彼女の穏やかな表情は、ともすれば青年以上に大人びて見える。尤も、以前青年の知り合いがそのようなことを言った時には、少女は「酷いことを言う」と嘆いていたが。

 予想より早く目的の人物に出会えた青年は、僅かに破顔させて肩を竦めた。


「出て行きますよ。出て行きますとも。ただ、その前に用事が残っていたんです」

「わたしに会いにきてくれたの? 光栄だね、べつにうれしくはないけど」

「つれない。……まあ、用事があるのは、私というよりは恐らくこっちのほうで」


 言って青年は、右手に提げていた刀を少女に向ける。

 手を後ろで組んだ少女は、上半身を若干傾げてから、ああ、と呟く。


「リドヴィナの」


 青年は首肯する。

 その刀は、リドヴィナという名の女性が常に提げていたものだった。青年が鞘から刀身を抜くと、ぎらりとした銀色の光が月明りに瞬いた。

 無表情に戻った青年は、少女にその切っ先を向けて、言う。


「死にました。彼女は」


 青年の持つ刀は、崖の傍に、主のないままに突き刺さっていたものだった。

 刀を見つけた時に彼は崖の下を見下ろしたが、鬱蒼とした森と葉が擦れる音が鳴り響くばかりで、リドヴィナと呼ばれた女性の姿は何処にもなかった。

 女性の死を確たるものとする証拠は何もあらず、けれど青年は、予想でも推測でもなく、その死を確信していた。


「そう」


 青年の言葉を受けて、しかし少女は穏やかな笑みのまま、目を瞑る。


「だろうね」

「知っていたと?」

「きまっていたことだよ」


 冗談でも言われたかのように、少女はくすくすと笑う。


「しんじつなんて、つまらない言い方をしたけれど。あのふたりが冷静になったとき、のこっている道はそれだけだったもの」

「一応聞いておきますけど、良心の呵責とかそういうのは」

「死が非道だというそこらへんにありふれた認識にこそ感じてもらいたいものかなあ、それは」


 だいたいね、と腰に手を当てる少女。


「うふ? あなたが言えることじゃないでしょ、それ。ながい焦燥と疲労の果て、そこまでおいつめたのはあなたなのに」

「そうですね。ですからまあ、本当に一応聞いてみただけです」

「いじのわるい。せいかくもわるい」


 少女は青年に歩み寄り、そして彼の前を過ぎて、湖の縁に立つ。

 水面にゆらゆらと移ろう月を背にした少女。手を軽く広げて、綺麗に微笑んだ。


「死にたくなかった、殺されたくなかったワガママなオトコの目的は果たされた。……まんぞく?」


 透き通るような声音に告げられた言葉。

 青年は苦笑して返す。


「最初から、満足のしようもありませんでしたよ」


 二人の知り合いが死んだ。

 一人は青年の目の前の少女によって殺され、もう一人の、崖から消えた女性は自ら命を絶った。

 本来であれば惜しむべきであると、悲しむべきであると青年は分かっている。

 だが、彼の感情はその理解に追いついてくれていない。生まれた時より欠陥を抱えていた青年にとって、死を心の痛みとする人々の在り方は、決して届かぬ先行く者の影の姿だった。

 それでも。


「私は死にたくなかったけど、彼らにだって死んで欲しかったわけではない。だから、そう……諦めて欲しかったのです。身を焦がすほどの憤怒という感情を捨て、首を絞めるほどの絶望という心を捨て。諦めて、欲しかった」


 青年は刀の切っ先を振り下ろして空を切り、鞘へと仕舞う。


「良かれと思ったのです。彼らが焦がれる復讐相手を殺す機会が、彼らより先に私の手元に降りてきた。ただの偶然。だけれど、千載一遇の機会。「彼」が死ねば、彼らの殺意と灼熱の感情は雲散霧消する。そう思っていたのです」

「でも、あのふたりの感情は、その矛先をかえてしまうほど、煮え滾っていた」

「そうです。そして――彼らの殺意は、名目上「彼」を殺したあの騎士へと移った」

「斯くて、ふたりのこころという鳥は、籠から放たれる。どこまでも飛んでいった。おいかけて、おいかけて、そして羽ばたき疲れて、地に落ちて潰れるしかないときづくまで」


 ひとりはわたしがその心臓を射抜いてしまったんだけど、と悪戯を告げるように少女は言う。


「うふ? いつまでもあきらめなかったあのふたりが、きもちわるかったってわけだね」

「そうですね。悍ましかった。私の方がおかしいことは分かっていましたが、それでも気味が悪かった。だから、彼らを眺めるばかりになったのです」


 夜空には数多の星が無数に煌めいていた。

 少女は月と星々の光を浴び、青年はそれを避けるように茂る樹の下に佇む。

 それきり口を閉ざした青年をしばらく眺めていた少女は、足をすっと引き――静かに湖の中に倒れ込んだ。


「え」


 間の抜けた声を出した青年が、湖の傍へと駆け寄る。ぶくぶくと気泡を立てる少女が沈んだ場所を唖然としたまま見つめていると、激しく揺れる無数の光に彩られた少し遠くの水面から、何事もなかったかのように顔を出した。


「あー、きもちいいー」


 満面の笑顔で、阿呆のようなことを少女が宣う。


「何をしているんですか、君は――」

「ワガママなんだよ、だからあなたは」


 そして相変わらず笑顔のままで、彼女は。


「わかってるでしょ、あなたの言ってることぜんぶ、子供のいいわけみたいだってこと。くだらねー。たしかにあなたのしたことで、ふたりは死へとたどり着いた。でも、それはふたりが摩耗する心を、それでもだいじに抱えつづけていたからだよ。捨てられなかっただけだけど。諦められなかっただけだけど」


 少女はもう一度水の中に潜ると、今度は青年の足元、湖の縁から顔を出し、茂る草の上に両腕を置いて、そこに顎を乗せた。


「でもそれが不可侵たる心のうちがわ。あのふたりがたどり着いた歩みの果て。死を忘れて死に方を忘れた、あのふたりの終着点。おろかかもしれない。でも、誤ちではない」

「……君は、錯誤だと言ったはずでは。誤ちだと」

「わたしが言った誤ちとは、しんじつとは、あの時にいたってなお、まだ死を選んでいなかったことだよ。生きていく気も、気力もなかった、あのふたりの、無意識の欺瞞」


 よっこらせ、と湖から陸に上がる少女。全身しとどになった彼女は、犬のように頭を振って髪から水滴を飛ばした。次いでやはり濡れに濡れて肢体に張り付いたワンピースの裾を、雑巾よろしくぎゅうと絞る。


「そんなことをわたしに言うために、街を出るのをおくらせたの、あなた」

「……そういうつもりじゃなかったんですが、まあ。結果的にはですかね」

「その刀、どうするの」

「持って行きます、彼女の形見だ。ただ墓標にしておくだけでも良いとは思いますけど、でも」

「うふ? そう。まあ、いいんじゃないかな。あなたはたしかに欠陥品だけど、欠けていない部分もあるもの」

「慰めですか、それは」

「んなわけないでしょ、べつに悲しんでなんてないくせに」


 意地の悪い青年に、意地の悪い物言いで返す少女。どちらともなく、くすくすと笑う。


「では、さようなら。羽ばたき始めた少女」

「さよなら、ふりょーひん。ねがうなら、とこしえに」


 振り返って、夜の森の中へと消えていく青年。

 少女はそれを、手も振らず、ただじっと見ていた。


 ひとりきりになった宵の世界で、彼女はひとり呟く。


「ああ――わたしの鳥籠はこわれて、そしてわたしはどこまで羽ばたいていけるのだろう」


 胸の前に両手を置き、


「どうか、このせかいがほろびるまで」

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鳥籠 青汁 @aojiru02

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