3 ヴィルカ

 長い間留守にした屋敷の中も、どうやら人心地がついてきた。掃除や庭の手入れは人鴉ゼムトたちに任せてあったので汚れても荒れてもいなかったが、それでも人の住まない屋敷というものは相応にすさんだ雰囲気を持ち始めるもので、それがまずまずやわらいでくるのに一月近く掛かったことになる。

 私は毎日クロイの書斎で机に向かっては旅先で見聞きしたことを記録にまとめ、手が疲れると図書室に行って、クロイの集めた古い記録を読んでいる。

 窓の外には針葉樹の森が広がっている。この森はモミやトウヒが多く、この時期になっても木々の葉が落ちない。木々の間を渡る何羽かの鴉は、今年生まれの若鳥のようだ。

 黒く尖ったこの森の上を、月は毎日巡っていく。

 夢と狂気をつかさどる天体。魔性の鏡。吸血鬼ヘカート・ルクルたちの守り神。


『守り神であり、同時に吸血鬼たちに掛けられた古い呪いの源でもあるところの月。月は我々の養母であり、かつ、我々を奴隷とする主でもある。我々自身にはそのような契約をした記憶はない。しかし、我々の初めの一人が月に呪われたことにより、吸血鬼は生まれたと私は考える』


 記録にはそのような記述があり、私はその文字を幾度となく眺めている。クロイのかなり晩年の文字だ。線が震え、かすれ、もう細かくは書けない。それでも間違いなくクロイの字ではある。


 クロイのその原稿によれば、原初の吸血鬼は遥か昔、月に呪われて生まれた。月に呪われる前は、それはただ精霊のようなものであった。その頃は、処女の血を媒介に人間の生気を吸い取る必要はなかった。

 恐らく、精霊はあるとき様々なものに呪われて、様々な魔族に分かれた。少なくともクロイはそう考えていたようである。

 その理由としては、不確かだが精霊同士の争いが原因だったのではないか、とクロイは記している。吸血鬼ヘカート魔女アニアなどのように属性のはっきりしていない同士の戦いを思わせる伝承は各地に伝わっているらしい。

 材料がないのだから仕方がないが、この辺りはかなり曖昧である。精霊はたくさんいたのか? それともふたりの精霊が争ったのか? もしかするとたった一人の精霊が、水面に映った自分自身と戦おうとしたのかも知れず、それは分からない、とある。

 ともあれクロイの推論としては、その戦いがこじれたか何かして精霊が死に絶えかけた時に、この世の様々なものたちが何とかして精霊を助けようとしたのではないか、という話らしい。例えば樹、例えば川、例えば岩山、太陽、砂漠、鳥、星、そして月。

 精霊なるものに精霊としての命を与えることはできないが、別の形で生かすことはできる。呪って自分の眷族にするという方法で。

 そのようにして、精霊は千々に分かれ、様々な性質を持つ魔族が生まれた。

 ルカが呪ったものは、夢と狂気とが縛る魔族に。月が女であるがゆえにその魔族は、である処女の血を媒介にして生気を取り込む性質をあらわした。吸血鬼ヘカート・ルクルである。

 そこで仮に、自らに掛けられた呪いを揺るがすほど力の強い魔族か、そのようなものが、もしいたなら――と考えてみる。これはクロイがある地方で採取した昔話から思い付いたことだ。

 吸血鬼は処女神である月に呪われた存在であることから、男の吸血鬼であろうが女の吸血鬼であろうが生殖に縁付くことはない。ただ、吸血鬼ではない他の魔族は、人間との混血児をなすことがある。例えば人狼ユールがそうだし、人鴉ゼムトもそうだ。組み合わせによって、魔族ではなく人間の子が生まれる。人間だが魔族の血を引いている。その子は人間と婚姻し、更に子を残していくだろう。魔族の誕生から途方もなく長い時間が経った今では、薄いながらも魔族の血を引く人間は相当数いると思われる。

 血が薄くなれば魔族の力も弱まる可能性があるが、同時に魔族を生んだ呪いの力も弱まる可能性があるのではないか。

 魔族の力がそれほど弱まっていないが呪いは弱まっている、ということは可能だろうか。ごく稀に起こるのではないだろうか。実際、何代も前に混じった魔族の血のせいで人間のはずの子孫がまるで魔族のような力をあらわす例は幾つも記録を探すことができる。いわゆる先祖帰りというものだ。

 そのような者がもしいれば、それは魔族が人間の夢を見てまゆの中にいるだけ。命をことによって呪いを壊し、に戻すことができるのではないか。

 そのとき、繭をことができるのは、夢に呪われた吸血鬼に他ならないのではないか。呪いは現実世界に力を及ぼす夢だからである。

 吸血鬼が人間として生きている者に呪いを与える方法は、吸血ではなく、自らの血を飲ませることだ。狂気の夢、夜の夢に引きずり込むその行いは、通常は吸血鬼が伴侶を見付けたときにのみ起こる。夢の境を越えさせることで逆にそれまで見ていた夢を、呪いを脱出させることができるのではないか。

 しかしそのためには、生涯に一度あるかないかの伴侶発見で見出だされた者が繭である必要がある。そのようなことが起きる可能性は、恐らく極めて低い。


 大体そのようなことだった。全てクロイの推測だ。確かなことかどうかは分からない。しかし、人間でありながら吸血鬼や同じ人間の生気を吸う飢えたタシャの存在は、この推測を強く思い出させた。

 精霊の繭であろうとあるまいと、ともあれタシャが私の見付けた伴侶であるには違いない。本来なら相手の同意を得て血を飲ませ吸血鬼にするのだが、タシャは飢え切って死ぬ寸前まで行っており、同意を取ろうにもアルケが混在している状況では困難だった。勝手に血を飲ませ勝手に人間でないものにしてしまったことは、責められても致し方ないと思う。

 どちらにせよ、結果としてタシャは、人間でも吸血鬼でもないものとして生まれ直した。

 打ち捨てておいたエザイをあの場に運ばせて人間に戻しておいたのは、タシャが生まれ直した直後に最初の一息で大量の生気を吸い込むことが予想できていたからだ。吸血鬼が人間を吸血鬼にする際もほぼ必ず起きる現象である。通常は親吸血鬼の生気で十分に足りるのだが、私はタシャの生前、限界近くまで生気を与える必要があることが見込まれたし、繭を破って生まれ直すタシャはクロイの予想通りならば吸血鬼よりも原初の存在だから、その一息が遥かに大きくなる可能性があった。それで、遊ばせてあったエザイを使うことにした。別にエラでも良かったのだが。

 兄妹は、あのあと御者と一緒に馬車で城から運び出した。エザイの方は荷台ですぐに死んだ。私は一座の他の馬車が滑落した場所まで兄妹を連れていって、エザイの屍を墜とし、エラの方は岩に変えてから墜とした。いつの日か奇跡的に、物好きな魔族が見付けて人間に戻してくれることもあるかもしれないが、岩であっても年は取る。私はもうあの女に用はないし、これでタシャの近くに戻ってくる可能性はまずない。御者はその場で腰を抜かして気を失ったので、失神させたまま運び、ダージュから遠く離れた土地に置いてきた。記憶の混濁した流れ者としてどこかの町に吸収されるだろう。




吸血鬼ヴィルカギィ戻ってきた」


 戸口の低いところから声がしたので、振り返るとゼムトが1羽、石床にいる。


「人間いるぞ」


「私の友達だ。襲うなよ、しばらくここに住むから」


「人間住むのか」


 鴉は意外そうな声を出した。実際、意外だろう。この館にはもう何百年も魔族しか住んでいない。

 私は机の上を軽く整理すると、鴉を肩にのせて書斎を出た。廊下を戻り階段を幾つか上がり下がりして、やがて広間に出ると、扉を開け放した明るい場所に立っている二人が見えた。そのうちの一人はギィで、こちらをすぐ見付けると雑に手を振る。


「連れてきた。ほんとに来た」


「びっくりしたのか? 私は、来るだろうと思ってたよ」


 そう答えながら階段から広間におりると、ギィが連れてきた彼女に挨拶する。


「メイエさん、ようこそ、嘆きの森へ。道中無事でよかった」


「お久し振り。無事でしたけど、こんなに森が深いとは思いませんでした。これ、冬はいったいどうなるんです?」


そりもありますから、閉じ込められはしませんよ。ちゃんと人間あなたの食料も手に入ります。……鴉たちゼムト、このご婦人の荷物を部屋へ」


 暖炉の飾り棚や高い天井から大きな鴉が何羽も舞い降り、見る間に人間の姿をとった。様々な服装をしているが、皆黒っぽい装いを好むことは共通している。

 外套を脱ぎかけていたメイエは驚いて一歩後ずさった。


「皆、この森に住む人鴉ゼムトです。館の維持を手伝ってくれる。後でそれぞれ紹介しましょう。それよりまず、彼女の様子を見たいでしょう?」


「ええ。ずっと眠っていると聞きました。食べないで眠っていて平気なものなんですか?」


「周囲の生気を吸っているのでね。それでここに連れてきたんですよ。嘆きの森は木々や大地、風に星月の生気の濃いところで、魔族が身体を休めるのにうってつけなんです」


 手招きすると、メイエとギィは私について階段を上がってくる。ギィは昼間の変身が面倒になったのか、途中で狼の姿に戻った。

 彼女の部屋は2階の奥にある。斜め向かいのメイエの部屋には鴉たちが荷物を運び入れていた。

 目的の部屋の扉を開けると、柔らかく明るい室内に天蓋から垂れた白いうすものが揺れている。少し開けたままの窓からは針葉樹の匂いのする僅かな風と光が流れ込んでいた。

 羅を透かして見える寝台には、埋もれるように黒髪の娘が眠っている。

 メイエがはっと息を呑むのが分かった。この光景は、子供時代のアルケの寝室に似ているのかもしれない。アルケも窓を開けたまま眠るとよく言っていた。

 半分透けた白い布を柱にとめると、眠る顔が直接見える。私が彼女の傍らに腰掛け、メイエは歩み寄って控え目に彼女の顔を覗き込んだ。


「やっぱり、とてもよく似ていますね。アルケさまに」


「もう少しふとった方がいいけどね」


「ダージュでお目に掛かったときよりはずっと健康そうですよ。顔色が悪くて肌もがさがさで、ひどく痩せていましたもの。……ここでは養生できているのね」


 メイエの言葉を聞きながら、眠る娘のあまり伸びない髪を撫でた。少しだけひんやりとして、さらさらと滑らかに緩く波打つ、夜の冠のような黒髪。


「目覚める見込みは?」


 そう問われて、分からないな、と答えた。

 実際今、この子についてはどんな予定も立っていない。見通しの材料がない。


「だからあなたはもしかすると、これからずっと、目覚めない娘の世話を続けることになるのかもしれない」


「それならそれでも構いません。私は、このお顔を見ていられるだけで」


「……或いは、今夜にも目覚めて私に激怒するかもしれない。なぜ魔族側に勝手に引き入れたのかと。この子が私より強ければ、私を殺すかもしれない」


「まあ。ご冗談でしょ」


「分かりませんよ。強い感情に動かされた魔族は手に負えないこともあるから。でもなるべくなら、和解して一緒に暮らしたいと思ってるし、この子が私を好いてくれるといいなとも思っています」


「以前はどうでしたの?」


 メイエはこちらを真っ直ぐ見てそう聞いた。


「私、先生とこの方のダージュ以前の関係を存じ上げませんけれど、嫌われてらしたの?」


「どうかなあ」


 食べながら泣いていたぼろぼろのタシャの姿が思い出されて、自然と口許が緩んだ。

 タシャは私を好きになる暇も嫌いになる暇もなかったのではないだろうか? あんなにふらふらになるほどお腹を空かせて、養い親の影に怯えて。食べることに必死で、食べたらすぐに眠くなってしまう。あんな忙しい、余裕のない中で、目の前のスープのことだって冷静に考える暇はなかったのではないだろうか。

 私がどんな男か、タシャはほとんど知るまい。

 名前くらいは覚えているかもしれないが、それも人の世をあざむくための仮の名前だ。


「この子が、トルフィで出会った前後のことを全く覚えていない可能性もあるんです。でも、どうなっても私はがっかりしません。生き延びてくれたんだから」


 眠り続ける身体が薄く呼吸している。

 ……どうなってもがっかりしないというのは、少しだけ嘘だ。できたら目覚めてほしい。言葉を交わしたい。名付けたいし、名前を呼び合いたい。

 それから一緒に食事がしたい。


 寝台の逆側から、狼の姿のギィが飛び乗った。今はもう暴力的に生気を吸い取られることがないと分かっているので、ギィはよくそうして一緒に寝そべっている。

 ふさふさの尻尾を箒のようにぱたりぱたりと動かしながら、ギィはのんびりと言った。


「おれは、タシャはヴィルカを好きだったと思うけどなあ。少なくとも、急に会えなくなったことを悲しんだはずだ。だって、あの一座が撤収したあとの原っぱから、まだ新しい涙の匂いがした」


 もうごはんがたべられない、ごはんほしい、というだけで泣くような奴じゃなかったと思うんだよな、あ、でも食べてる時のこいつ可愛かったな、とギィは、のんびりのんびり喋っている。


 私は。

 一座が夜逃げしたあの現場で、この子が泣いていたなんて今初めて知った。


「何で言わなかった」


「え?」


「泣いてたこと」


「トルフィであんたと別れてダージュに向かう途中に寄ったからだよ。おれ一人だったし、山越えして合流した後は……ごめん、忘れてたわ」


「毛皮の敷物にするぞお前。……ああ、泣いてたのか。可哀想に。あの女、もうちょっと念を入れて苦しめるんだった」


 ギィが頭だけ起こしてこちらを見ながら笑っている。


「目が覚めておれが敷物になってたら、この子はまた泣いてくれると思うぞ。そしたらおれは毛皮から蘇るね。人狼ユールの古い伝承にもあるだろ」


「うるさい。泣いてたなんて、そういう大事なことを……、」


 もしかして、もうタシャだった頃のことは思い出さないのかもしれないのに。

 それならせめて、あの反転の前に、まだタシャであるうちに、もっと。


 ……いや、あの状況でできることは何もなかったか。


 全ては運命さだめだ。

 未来が全て決まっているという意味ではなく。

 最善を選び続けることはできない。起こったことは取り返しがつかない。

 我々は誰も、過去に触れて手を加えることができないのだ。


 覚えていてくれ、と祈るような気持ちになった。

 覚えていてくれたら。

 何度でも君のためにおいしいスープを作るし、君がどこかに連れ去られても必ず助けに行くし、どんな手を使っても君を死なせはしない。

 いや、覚えていてもらえなくても、きっとそうしてしまうのだろうけれど。


 ギィはまた寝そべって、眠る彼女の肩先に鼻をくっつけている。

 それから、メイエがまたこちらをじっと見ていることに気付いた。

 目が合うと、いかにもやり手の女中頭みたいに、目と唇のわずかな形だけで笑う。


あなたと一緒にいたかったんですね」


「嬉しいような気もしますし、……可哀想なことをしてしまったな、とも思いますね。ごちゃごちゃ考えていないでさらってしまえばよかったのかもしれない」


「でもダージュまで来てくれたから、私はこの方に出会うことができました。アルケさまに満足にお仕えできなかった長年の悔いを、今度はこの方にお仕えすることできっと、」


 びっくりするくらい速く真っ直ぐに、涙がこぼれ落ちていくのが見えた。

 微笑んだままのメイエの頬の上を。次から次に。


「私は」


 やっとご恩返しができる、と。

 水面に映った空が砕けるように、切れ切れに揺れる声で何とかそれだけ言って、メイエは崩れるように床に膝をつき、寝台に取り縋った。泣いているのだ。声を殺して。

 メイエが急病で寝込んでいた晩に、赤ん坊のすり替えが起きた。それを知って、どれだけ衝撃を受け、どれだけ己を呪い、悔いたか。問題のたった一晩、自分がちゃんとアルケの側についてさえいれば、と。

 長年仕えた領主や、育ての親ともいえる上司ワイムにすら事情を隠して城を急に辞めてくる決心がついたのは、恐らくそのためだろう。このうえはアルケの娘に生涯を捧げようと、この女性は心を決めたのだ。たとえ仕える相手が人間ではなくても。その館に自分以外人間がいなくても。

 アルケを失ったあとの十数年を、どんな思いで生きてきたのだろう。

 震える肩を軽く叩き、私は寝台から立ち上がった。


「あとでお茶にしましょう。説明しなければならないこともたくさんありますし。……でも、まずはゆっくりしてください。この子の顔を見ていてもいいし、部屋を片付けてもいいし」


「じゃあ、おれは林檎食いにいく」


 ギィものそりと立ち上がって寝台を降りた。

 そうだ、ちょっと二人きりにさせてやろう。目が合うと、お互いそう考えていることが分かる。

 涙が止まらないのか顔を起こせないでいるメイエに、もう一言付け加えた。


「この子のために、来てくれてありがとう」



 目が覚めて、タシャの記憶が残っているといいな、と思った。

 きっと辛い人生だっただろうけれど、君に会えたことをこんなに喜ぶ人がいるんだよ、と伝えてやりたい。

 君は、君の養い親たちが言っていたような、役立たずの愚図なんかではない。

 私たちにその存在を望まれているんだよ。


 どうか目覚めてくれ。



 どうかもう一度。




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