嘆きの森
1 ギィ
910年10月4日 嘆きの森、林道
葉の散らない森なので、匂いで季節を知る。
まだ雪の気配はしなかった。雪が降るまでにはもう二月くらいは待たなければならない。おれは冬が好きだ。毎年、夏が終わるとすぐに雪を楽しみに待つ。
今年は、この森で冬を越すことになりそうだ。
ここ十数年のヴィルカは館を空けがちで、冬じゅうをゆっくりこの森で過ごすことがあまりなかった。だが今年は、少なくとも春までここで暮らす予定になっている。
あの子がいるからだ。
トルフィで見付けて、ダージュまで追って、ヴィルカが結構やばい橋を渡って
人間としては一度死に、魔族の側のものとして息を吹き返した。以来、
おれは生前のあの子が割と好きだった。悲惨なまでに腹を空かせていたからヴィルカが食事を与えたら、ものすごく美味そうに食うのだ。食べさせるというのは、何だか見ているおれの気持ちも満たされる。またあの様子を見たい。たくさんは食えないみたいだが、子供が一口一口を本当に美味そうに食う様子というのは何とも言えずかわいい。
だが今のところは眠ったまま、魔族の側の何かとして森やヴィルカの生気を吸って生きている。
自然に目覚めるのを待つしかないとヴィルカは言う。随分心配しているくせに、一言もそうは言わない。勝手に魔族にしてしまったから怒られるかもしれない、なんて言いながら、毎日あの子の顔ばかり見ている。
名前を何にするかはもう決めたらしい。人間から魔族になった者は、人間の名を捨てて魔族の親が新しい名を付ける。あの子もタシャと呼ばれることはもう滅多にないだろう。
それにしても、ヴィルカは結構むちゃくちゃな賭けをしたな、と今更ながら思う。
ダージュであの子にヴィルカが血を与えた時、何が起こるかは予想し切れなかった。
ただ、どうなるにせよ息を吹き返した時にはまとまった量の生気を吸い込む可能性があるというから、岩にされていたエザイを戻して使った。
そしておれがあの場にいたのは、あの子ばかりではなくヴィルカも記憶を失うかも知れなかったからだ。
あの子が本当に原初の精霊に近い存在になるのか、ヴィルカ自身も確信が持てていたわけではない。もしかすると繭を裏返しても吸血鬼にしかならないのかもしれず、ヴィルカが血を与えることはあの子がヴィルカを獲物としてその血を吸う行為に当たるかもしれない。もしもそうなら、二人ともがお互いの記憶を失くす可能性があった。
仮にヴィルカがあの場で記憶を失ったり行動不能に陥った場合には、おれがヴィルカとあの子を安全な場所まで避難させる役割を仰せつかっていた。
断る余地はない。おれはヴィルカを失うのはいやだ。あいつはおれの命の恩人だし、家族だし、一番の友達だからな。
まあ、使い魔の契約はしてあるから形式上はおれが従者なんだけどさ。
……とにかく、結果としてあの子は死なずに済み、ヴィルカもどうやら記憶を失ってはいない。あの子の今後はまだ分からないとはいえ、おれにとっては二人の命が無事だっただけでも最低限の成功はしている。
しかしあのエラが、ダージュ時代にヴィルカの獲物の一人だったというのは驚いたな。ヴィルカがあの女に
今となっては、エラは石に変えられてもう喋ることはない。何とかうまくおさまったからいいものの、全く、行き当たりばったりにも程がある。
ただ、ちょっと気になることはある。
あれ以来ヴィルカは何だか、言うことや態度が人間臭いのだ。
これまでは、冷酷と思うことさえあるくらい情の薄そうな言動が多かったのにな。
……まあ、それはいい。今までだっておれ相手には軽口も叩いたし心配もしてくれる奴だったのだ。死んだクロイのことも大好きだったようだし、彼を
多分、あの人間臭いほうが本来のヴィルカなんだろう。そんな気がする。
林道の終わりが少し広い道に合流する。この分かれ道まで来れば、もうイールの町外れだ。旅の馬車に
行き先は決まっていた。ヴィルカと付き合いの長い宿屋がある。
宿に入ると、主人にヴィルカの書き付けを渡した。それを見て主人は、おれを中庭の向こうの部屋に案内した。
主人が扉を叩くと、中から返事が聞こえる。
おれの知っている声。
すぐに扉が開いて、顔を覗かせたそいつに、おれは正直な言葉を贈った。
「よう、メイエさん。本当に来るとは思わなかったよ」
女は困ったように笑って答える。
「私も、自分の人生がこんな風になるとは考えてもみませんでした。全く、何てことかしらね!」
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