祭りの後

亡霊

910年9月21日 ダージュの城




 奇妙な噂が城内でささやかれていた。

 十何年も昔に亡くなった姫の産んだ子が祭の日に姿を現したが、一晩で煙のように消えてしまったという。夢や幻ではなく、あとには乳母と御者ぎょしゃが残されたし、食事を運んだ者もいるというのである。


「消えた娘は、亡くなった姫に瓜二つだったんですって。だからやっぱり死者の魂だったんじゃないかという話なの。お祭りの日は昔から、そういうことがあるっていうでしょう」


 わざとらしく潜めた声であおるように話す娘、その周りで押し殺した声をあげて怖がって見せる娘たち。

 私がひとつ咳払いをすると、娘たちはたちまちお喋りをやめて頭を下げる。


「皆さん、休憩ですか? いいでしょう、刻限までにそれぞれの仕事が終わるのならね。そうでないなら手を動かしなさい。つまらない噂話もおやめなさい。御一家のことをあれこれ噂するなど不謹慎ですよ」


 精々怖そうにそう言ってやると、娘たちはてんでに頭を下げたり申し訳ありませんと口にして持ち場へと散っていく。新入りの女中たちの背中が遠ざかっていくのを見ながら、思わず溜め息をついた。

 噂に過ぎない、ということになってはいるけれど、実際は噂ではない。アルケさまの子は本当に現れ、本当に消えた。私は見たのだ、何もかも。

 廊下の曲がり角に置かれた黒い衝立ついたての位置を何とはなしに直して、また溜め息をつく。

 旦那さまの体調がすぐれず、もう何日も寝室をお出にならない。無理もない、あんな風に失った末娘の、存在すら知らなかった子供が現れたかと思ったらかき消えて、その後は誰も知らないのだ。

 ……誰も知らないということになっている。

 本当は、私は大体のところを知っている。ただ、表沙汰にできる話でもない。とても、とても苦しいことだけれども、私はこれを旦那さまばかりかワイムさんにまで秘密にしている。

 食事や服を運ばせた女中ふたりは元々特に信頼の置ける者を選んであり、今回のことは決して他言しないよう言い含めて配属を替えた。ふたりとも、噂通り離れの客は煙のように消えてしまったとだけ思っている。

 ジルゼと名乗っていたエラも、御者として従ってきた芸人ハクスも、アルケさまの娘タシャも、もう城にはいない。祭の日、アルケさまの娘を連れた養母と名乗る女が城に現れたがそれは金銭目的の詐欺師であり、領外へ追放となった、ということになったのだ。消えてしまったから、表向きそういう物語にした。

 アルケさまの子などいなかった、ということになっている。

 いたと言ってしまえば、なぜ姿を消したか、行方、生死がいつまでも問題になる。いなかったことにしておけば、無関係でいられる。

 無関係でいるべきだ。その方が無闇に迫害されずに済むはずだ。

 旦那さまは私の偽りの証言を全て信じてくださった。

 心は痛むけれども、そうするしかなかった。

 あなたの孫娘は魔族です、などと旦那さまに申し上げられるものか。言ったところで信じていただけるかどうか。それに全て話すということは、アルケさまがあのエザイやエラに何をされたか明らかにしてしまうことでもある。

 そんなことはとても、できない。


 知らず、また溜め息が出た。

 あの離れでのことが、何度も何度も思い出される。

 血まみれのタシャ。

 血まみれの吸血鬼ヘカート

 あんなことが起ころうとは。




  *  *  *




 吸血鬼が瀕死の娘に口付けたあと、森の全ての草木が一度に遠吠えをするような恐ろしい何秒かが不意に終わると、私の目の前には奇妙な光景が広がっていた。

 ひとり多い。

 アルケさまの子タシャ。

 アルケさまのかつての家庭教師で吸血鬼のクロイ先生。

 恐らくクロイ先生の仲間であろう灰色の長髪の男。ギィと呼ばれていたか。

 アルケさまを幾度もおとしいれた鬼畜、エラ。

 部屋には彼らと私の5人しかいないはずだった。それなのに、ひとり多い。タシャの座る揺り椅子の側で、ギィとかいう男に身体を踏まれ手を掴まれている、もうひとりの男がいた。

 ぼろぼろの服の袖から伸びる手が、死人のように土気色をしている。その手は、いつの間にかタシャの青白い手に重ねられていた。

 そういえば、クロイ先生がタシャに口付ける直前、ギィがその男の手を持ち上げているのを見たような気もする。

 タシャは服も口元も吸血鬼の血で真っ赤に濡らしてぐったり座っているが、目だけはぱっちりと開いており、身体は人形のように動かなかった。

 その瞳の色が変わっていることに、私はすぐ気付いた。真っ黒だった瞳は、今は夜色。私はその色を知っている。日暮れの後、夜に垣間見たアルケさまの瞳の色だ。アルケさまも普段は黒い瞳だったので、夜色はただ月や湖のあかりを映してそう見えるのだとばかり思っていた。あれは、見間違いではなかったのか。

 全く動かないタシャの足元には、クロイ先生が膝をついて、肩で息をしている。その膝も床も服の袖口も、流れ出す血で真っ赤に染まっていた。そうしながらクロイ先生はタシャを見上げている。口の端から自分の血を滴らせたままで、じっと見ている。

 とても心配そうに――こんな表情のこの人は一度も見たことがない、と私は思った。

 けれど、それもほんの数秒のことだっただろう。

 タシャは、小箱の蓋が閉まるようにぱたりとまぶたを閉じた。


「どうなんだよ」


 ギィが横からやや控え目に言うと、さあねとクロイ先生はかすれた声で答えた。


「……とにかくこの子も私も死ななかったし、私は多分タシャのことを覚えているよ」


「俺のことは?」


「覚えてるさ。獲物でもないのに、忘れてたまるか」


 軽く声を漏らして笑いながら、ギィは踏んで押さえていた男を蹴って床に転がした。あらわになったその顔を見て、私とエラがほぼ同時に悲鳴を上げた。

 エザイ。かつて旦那さまを誘惑した女エナの息子。アルケさまからタシャをさらい陥れ、今またダージュを強請ゆすろうとしたエラの兄。アルケさまを襲いはらませたけだもの。


「どうして」


 しわがれた声でエラがうめく。信じられないものを見るような目でエザイを見ている。


「どうして。エザイ、今までどこにいたの。あんた、かあさんに顔も見せないで。見つからないまま置いていくこと、かあさんがどんなに心配したか」


 エラがエザイに取りすがるのを勝手にさせておいて、ギィはクロイ先生の手首の傷を縛って手当てしている。自分の血にまみれたかつての家庭教師は、まだその場を立ち上がれないらしい。そのままこちらを見上げ、疲れた顔でふと笑った。


「メイエさん、あなたの血を飲むわけにもいかないしなあ。ああ、もう一人くらい喰ってくるんだった」


「血を吸われるのなんて、御免ですよ。……先生、怪我が随分いけないんですか? 処女の血以外の何で回復するんです? 何か用意しますか?」


 自分でも声が震えているのが分かる。クロイ先生もギィも面白そうにこちらを見た。


「あなたは本当に割り切りが早くて面白い。大丈夫、この分ならまあ何とかなりますよ。それより、もう少し共犯になってもらいたい」


「え?」


「我々はこのまま消えるので、あなたには後程、この離れに来たら無人になっていたと城に連絡して欲しいんです。そうですね、お茶の時間の時にでも。そのくらい時間があればこのゴミのような兄妹も御者も含めて撤収できるので」


「その子を連れて行ってしまうんですか!」


「勿論。タシャはさっき一度死んで、私の血を受けて生き返った。もう人間ではなく、魔族です。生前の記憶がどれほどあるかも分からないし、そもそもこの子は色々と特別なのでね。ここで市井育ちのお姫様をやるのは無理があります。年も取りませんし」


 魔族。年を取らない。

 本当かどうかは分からない。分からないのだが、タシャは確かに死にかけていたし、クロイ先生の血を飲んで、今は意識はないけれどずっと穏やかに呼吸していて顔色も落ち着いた。しかも瞳の色は変わっていた。タシャに人の力を超えた何かが起こったことは間違いがない。

 それに、タシャがここに残るならばエラやエザイのしたこともいずれ知れる。エザイが今また姿を現したことについて、吸血鬼であるクロイ先生のことも知られる見込みが高くなる。それは多分、よくない。城の領主は魔族と関わりがあると思われることを嫌う。魔族は領民の恐怖や不安の対象だからだ。

 だから、そうなのかもしれない。

 全て葬って、なかったことにするのが一番いいのかもしれない。


 私さえ口をつぐんでいれば……

 そんなことが出来るか?


 これまでワイムさんには、仕事については何一つ隠し事をせずにやってきた。ワイムさんは驚くほどよく気の付く人だ。黙っていても勘付かれてしまうのでは。

 旦那さまには隠し通せても、ワイムさんに隠しておける自信がない。


 クロイ先生は布切れでタシャの口元の血をぬぐってやっている。そうしながら視線だけこちらに寄越して、見透かしたかのように付け加えた。



 「もし心配なら、――――……」




  *  *  *




 離れは無人で残され、城に滞在させていた御者も姿を消した。彼らが乗ってきた馬車も馬も消え失せた。

 私はお茶の時間に女中ふたりと離れに行き、それを

 祭りの日のどさくさ。人出が多く、城からも広場の催し物に人員が割かれている。街は丸ごと、通常とは違う段取りで動いていて、そんな中では事情を隠して人を探すなどとてもできない。

 領地の外れの崖からは馬車が墜ちたような痕跡が見つかったと後から報告が来たが、いつのものか、関係のあるものかも分からない。崖下の渓流を捜索するのは難しく、それ以上のことは分からなかった。


 あれから毎日、黒い衝立の奥のアルケさまの部屋に行く。タシャのいた離れにも。今日は離れの外のベンチで暫く休んだ。

 離れの周りはいつも通り、信じられないくらい美しい空と森。木々の向こうに湖水のきらめきが見える。

 立ち上がって振り返るとダージュの城。


 アルケさまが生まれ育ち暮らした城。

 アルケさまが愛した森と湖。

 アルケさまが最後に歩いた森。

 アルケさまが命を絶った湖。


 ……お湯がこぼれるように、両目から涙があふれ出しそうになった。前掛けの裾を顔の方まで持ち上げて涙を染み込ませた。あれ以来、毎日こうしている。ひとしずくでも頬に流れ落ちれば、たちまち明らかに泣いた顔になってしまうから。


 あの晩、もしも私が熱なんか出さなかったら。

 アルケさまのお側にいたなら。

 あのタシャが、アルケさまから奪われていなかったら。


 多分この気持ちを抱えたまま私は死の瞬間まで過ごすだろう、と思った。全身の血を抜かれるようなこの、空恐ろしく氷のように冷たく、二度と何も元には戻らないという現実の重み。身体の中に大きな石が閉じ込められたような、この気持ちとともに死ぬまでを暮らすのだろう。

 一方で、空っぽの怒りのようなものが私の身体を内側からあぶっているようだった。これは自分への怒りだ。古い燠火おきびのような怒りだ。私は、かれて生きていく。

 しっかりしなくてはいけない、と思った。これでぐずぐずになって、酒に溺れるように後悔や自責に絡め取られて駄目になっていく訳にはいかない。


 それでもまだ、私にはすべきことがあるはず。

 やれることがあるはずだ。

 決断し、行動しなくてはならない。


 全ての恩に報いるために。


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