3 死と繭
叫び声を上げるエラを見ると、タシャに触っている。
――無礼者が。
腹立ちのままに突き飛ばすと簡単に壁まで飛んで床に倒れ込んだ。
そのまま起き上がらない。当然だろう。今のタシャに生気を吸われて、ただの人間が平気でいられるわけがない。
「気軽に触るものじゃない。干からびて死にますよ。……メイエさん、あなたもこの子に触らないように」
苦しそうにするタシャに手を伸ばしかけていたメイエがその手を宙で停めた。
「どうして」
「お腹が空いているからです」
もうぐったりしているタシャを揺り椅子に座らせる。
「食事は多めにお出ししてますよ」
「蓄積の問題です」
腑に落ちない様子のメイエに、このくらいはいいかと思って説明する。
「これまでいた旅芸人の一座では
「死にかけって……?」
「環境が悪いから。この子は
エラ、あなたはタシャがアルケの娘だと知っていたから辛く当たったのかな」
床に
メイエは、触らないように気を付けながらタシャを覗き込んで、こちらを見上げた。
「……先生。結局のところ、あなたは何をしにいらしたんです? タシャが死にかけているから助けに来たの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
そこまでは説明する気がなかった。時間がない。
その時、部屋の外からどすどすと音が近付いてきて、扉が開き、ギィが入って来た。麻袋のような何か大きなものを背負って。
「はいお待ちどう。重いわ」
「ああ、すまないな。そこの女の、服の上に下ろしてくれ。動けないように」
「あいよ。これ何。女? 死ぬの? ああ、あの一座の女の匂い」
「死なないと思うけどね、倒れてるのはタシャに触ってしまったから」
「アホだな」
「仕方ないよ、知らないんだから」
ずしん、と下ろされた麻袋からギィが手を離すと、中から赤黒く醜い石が覗いた。
「久し振りにこんな重いもん持った。タシャは?」
「そろそろだ」
ギィは揺り椅子の上のタシャに触らないように近づいてその顔を覗き込んだ。
タシャはもう殆ど目を閉じ、顎が落ちて軽く開いた唇の間から浅い息を繰り返している。顔に血の気は失せ、身体を動かすこともしない。死相だ。
「うまくいくといいな。性格変わるのかな。おれ、タシャ結構好きなんだよ、うまそうにもの食うから」
「性格が大々的に変わることはないよ。私もそうだったし。ただ、
「他の魔族でもか? タシャは吸血鬼じゃないんだろ」
「他もたいがい似たようなものだと思うんだよなあ」
「……それも何となくで行くのかよ」
呆れたように言ってギィは、かなり気を付けた様子でごく
「これはまあ、すげえもんだ。あんたよくずっと触っていられるな」
「仕込みをしてから来たんでね。さすが祭りの時期は人が多くて獲物も見つかる」
今朝ギィに会う前に、獲物を見つけ次第血を吸った。どんな相手だったか何人いたかもうはっきりした記憶はないが、とにかくこちらが生気で充満していないと今のタシャには耐えられない。
それでも、もうすぐ私の側も限界が来る。多分間に合うとは思うけれど。
どうして生気を補給しながら生気切れを待つような非効率なことをやっているかというと、ひとつには、タシャほどの器をただ自然に死なせるとダージュの気象が大幅に乱れて災害になる恐れが大きいから。そしてもうひとつには、魔族や特別な人間が死の間際に何かを強く恨んだり呪ったりすると、
なるべく穏やかに死期を迎えさせた方が、私の狙う通りに運びやすいはずだ。
タシャの手に触れながら、その胸元をずっと見ていた。
やがて動きが少しずつ小さくなり、呼吸は不規則に、口が開き気味になる。
そろそろだ。
「メイエさん、刃物を取って」
ギィの登場に身構えてじっとしていたメイエが、果物籠のそばから小さなナイフを取ってきた。
「ありがとう。あとはなるべく離れていてください。エラにもその石にも、私たちにも近付かないように。
……じゃ、ギィ、頼んだぞ」
「了解」
ギィが私からナイフを受け取る。
メイエが壁際に後退する。
私は片手でタシャの手をしっかり握り、もう片手をギィの方に伸ばした。ギィはその手を取ると、私の手首に当てたナイフを静かに引いた。
手首の肉が外に開かれ血潮が噴き出す。とん、と心臓を蹴られたように
しかも目の前では、私の恐らく生涯に一度の特別な相手が今まさに事切れようとしている。
可哀想に、何が起きているのかもう、この城に入ったあとのことは殆ど分かっていないだろう。飢えて飢えて、死に際の長い夢を唄った。産みの母親の死地で、その記憶に身を沈めて。
それまでは何を思っていただろうか。トルフィを発ってこのダージュに辿り着くまでの間。一座の殆どを事故で失い、エラの企みに巻き込まれてこの城に入るまで。
絶望しただろうか?
飢えに苦しんだだろうか?
けれども、どちらにしても私はこの瞬間を待つしかなかった。人間としてのタシャの命が尽きる時を待つしかなかった。どう転んでも苦しめることにはなったのだ。他に方法を知らない。
そのことを一言詫びる機会がこの先あるだろうか。
タシャは覚えていられるか。
私も、覚えていられるかどうか。
タシャの薄く開いた
その向こうでエラが、何か
ギィの最後の準備が済んだのを横目で確認してから、血の噴き出した自分の手首に口をつけた。
自分の血はあまり味がしないし、人間の血よりは粘り気がない。錆と塩の混じった水のような味気ない液体を口に含んだまま、タシャの顔を上向けた。手首からは血が滴り続けていて、タシャのために城で用意したのであろう清潔そうな服の肩と言わず胸元と言わず私の血で染まっていく。
自分の血の色を見るのも随分久々だが、これも忘れるのだろうか。そう思いながら、タシャの最後の呼気に噛みつくように、
口付けた。
冷め始めた血を流し込む。
血濡れてさえも唇が乾いて荒れているのが分かる。
ちいさな口の中からは濃厚な死の匂いがする。
掴んだ手、押さえた頬に触れたところからこちらの生気を吸い取ることも、もはやない。ただ、今まで生きていた名残のように
この僅かな生死のあわいに、人の繭を破ることができたなら――
瞬間。
体内の全てを暴力的に吸い取られるような感覚。
裏返る。
昼は夜に。
夢は
血濡れた唇が煮えたぎる。
無数の叫びが星に
その空に月が。
月が。
そして、原初の夜が目を覚ました。
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