2 再生
窓の外からタシャを見た時点で、そうなのだろうとは思っていた。だからこそメイエの警戒心もここまで弱くなり、私の言葉を聞いてしまう。
20年も前に見たきりの者が老いもせず全く同じ姿で現れて、誰も食べる気はない、などと魔族丸出しの発言をしたなら、もっと滅茶苦茶になるものだ。経験上、大体はそうだ。
けれどもメイエは戻ってしまう。私が家庭教師としてダージュにいた当時の意識に。
それは恐らく、アルケの記憶をまとうタシャに、メイエも巻き込まれているからだ。タシャは、この土地や建物のほか、当時のアルケを実際に知っているメイエからも記憶を読み取っている可能性が高い。
本当に面倒くさいことになっている。ギィの言うとおり、泳がせ過ぎたのだろう。
もう少し早く行動できていたら。
あと1日でも2日でも早く出会えていたなら。
まあ、今更過去のことを言っても始まらないのだが。
エラを素通りして部屋に入る。
死ぬ人間の匂いがする。
揺り椅子の上には、タシャが半分目を伏せて斜めに
「ちょっと、どなたなんです」
割と簡単に
窓の外には、森の奥に駆けていくギィの姿がちらりと見えた。
揺り椅子の側に片膝をついてタシャの手を取ると、かさかさして冷たかった。その乾いた肌の触れたところから、
「遅くなって済まない。手遅れになっていなくてよかった」
身体は動かないまま、半ば伏せた
彼女は私を視線で捉え、それから血色の悪い唇を震わせて、
「……先生。帰ってきたの?」
「君は? ずっとここにいた?」
「よく分からないの。ここにいたよ。ずっといたような気がするの」
手が、ようやく握り返してくる。タシャかアルケの手が。
吸い取られる。
生気。
記憶。
時間の感覚。
誰かが私の肩に手をかけた。エラだ。
「その手を離していただける? どなたか存じませんが、このタシャは領主の孫。そう気安くしてもらっては困りますわ」
「タシャ? 誰です、それは? 私はアルケさまに会いに来たのだが」
一瞬びくりとして、エラは手を引いた。
この女は、何か隠している。何か後ろめたいことがある。それは何だ?
「先生、」
タシャの声に、エラは阿呆のように、先生?と復唱した。
「私はアルケさまの家庭教師です」
「は? アルケって……あいつ、あたしと同い年の筈だよ。その家庭教師なら今はもう爺さんのはずだろ! アルケの家庭教師は、……あ、」
エラがさらに一歩引いた。驚愕の目で私を見ている。取り繕った口調を崩してしまったことにも気がついていない。
私を見覚えている?
「あんた……ほんとに、あの家庭教師の」
覚えているのだ。
少し不思議だ。
タシャの引き起こす記憶の渦にメイエが影響されるのは分かる。メイエは当時のアルケを側で見て知っているからだ。
しかしエラがなぜ? エラから読み取れるアルケの記憶があるのか?
あるとすればそれは、エラが赤ん坊のタシャを手に入れた時のはず。だが、今読み出されているアルケの記憶は、どの時点の記憶だ?
「どういうことです?」
私とエラの間に、メイエが割って入った。
「ジルゼさん。随分口調が変わりましたね。どうしてあなたが、城にいた者しか知らないはずのアルケさまの家庭教師の顔を知っているんですか? クロイ先生はアルケさまが嫁ぐずっと前に辞めた方です。なぜあなたが知っているの?」
「い、いえ、ちょっと、勘違いで。メイエさん、この方は?」
メイエは答えない。
タシャが私の手を引いた。
「ねえ。その人は、エナの娘でしょ。私、一緒に舟遊びしたことがあるよ」
振り返るメイエの向こうで、エラは静かに尻餅をついた。腰を抜かしたのかも知れない。
タシャは相変わらず瞼を半分閉じたまま、エラを、自分の育ての母を名乗る女を見ている。そうしながら、アルケの記憶を唄っている。
「……湖に、一緒に小さい舟を出して、私、落ちたの。水が助けてくれたから、死なないで済んだ。あなたはいなくなっちゃってたね」
私は知らない話だ。私が城にいない時期に起こった出来事なのだろう。アルケが何度か湖に落ちているという話だけは当時も聞いていたが、そんなことより。
エラはこの城の中で、アルケと遊ぶことがあった?
誰の娘と言った?
――エナ?
「当時、エナという女中がいましたね。私が家庭教師を辞める少し前、彼女も辞めた。彼女には息子と娘がいた」
あの息子、エザイのことは忘れない。私の獲物を台無しにした。
エラがあのエナの娘ならば、エザイと兄妹ということだ。アルケを強姦しろとエザイを
なるほど、ここで繋がってくるのか。世間は狭い。
頭に氷水を打ち込まれたように思考が軋む。
この女がアルケという私の獲物を駄目にしたのだ。
この女を苦しめたい。
アルケが低く歌うように言葉を続ける。
「エナは、お父さまを好きだったんでしょ。お父さまのこと、色々聞かれた。エラも言ってたことがある。あたしのかあさんが旦那さまと結婚したら、あたしたち姉妹になれるのかしら、って」
メイエが手を握り締めている。やや呆然とタシャを見ながら。
当時のエナは、夫はなく出来の悪い馬鹿息子と悪賢い娘を抱えて住み込みで働いていた。野心のある女だということは私からも見え見えで、様々なことを仕掛けては領主に接近しようと躍起になっていた。
結局、アルケも言った通り、自分が領主と結婚すればお前たちも領主の子として城で安楽に暮らせるのだと子供たちに話していたところを当の領主と女中頭のワイムさんに聞き
その頃、城下で
……なぜだろう、僅かに記憶が霞む。
「そういうことでしたか。分かりました」
冷えきった鋼のような声でメイエが言う。
「つまり、ジルゼ、あなたは。あのエナの娘、エラなんですね。アルケさまにあれこれ危険なことを仕掛けていた、あの鬱陶しくて迷惑なエラだったということ?
……顔の覆いを取りなさい。あなたがエラなら、こめかみと首に傷痕があるし、顔のほくろの位置も私は覚えている!」
ジルゼと名乗っていたエラが、メイエの剣幕に圧されて、ひっ、と息をのむ。
床の上をずるずると後退して遠ざかろうとしながら、狼狽した声色で、ちがう、ちがう、と言っている。
「なにを、言ってるの。ちがう。あたしはそんなの知らない。ただ、赤ん坊を預かって育てただけ。アルケなんて知るもんか。ザイスェルで会っただけ。エナという人だって知らない!」
「エナはね、昔から、私によくお菓子をくれたの。台所で余ったからとか、自分は食べないからとかいって、たぶん私に好かれたかったんだと思うよ。お父さまに近づくために。
いつもこっそり、物陰で、今のうちにお食べって。団長や
見ると、タシャは両手で私の手を握って、真っ黒な瞳から涙を溢すところだった。
「おばあさんだけが、みんなに内緒で私に食べ物をくれたの。私、いつもすごくお腹が空いていた」
「それは、旅芸人の一座にいた時のこと?」
質問すると、タシャは
「おばあさんというのが、エナか」
「そう。エナという名前。占い女をしてた。おばあさん、時々泣いたよ。ダージュにいた頃はよかったって。あたしの息子は今どうしてるんだろうって。エザイという息子がいたらしいの。
……庭師の見習いをしてた人だよね。白い薔薇をひどく切っちゃって、すごく怒られてたことがある」
ゆらりとタシャが立ち上がり、エラはついに悲鳴を上げた。
ひい、ひい、と聞き苦しい荒い息を漏らしながら、近付いてくるタシャから逃げようと
「ねえ、エラ、知っているんだよね」
「私を犯したのがエザイだと、あなたは知っているんだよね?」
今度はメイエが、短い悲鳴を上げた。
彼女は知らなかったのだ。
無理もない。ことが起こったすぐ後、エザイは私が石にしてしまった。人前に引きずり出して罪を認めさせることよりも、長く苦しめることを私が選んだ。
殺してしまっては、そこで終わってしまう。死ぬなんて楽をさせるつもりはなかった。長く、長く苦しませたかった。あの男は私に対してそれだけのことをした。私の獲物を台無しにした。
「あれから、だめになっちゃった。月も、星も、森も、聴けない。食べられない。何度も、何度も、悪い夢がきて、世界がしんでしまった」
ぎゅう、と手を握ってくるタシャの声が震えている。悲しみ? 怒り? いつもぼんやりしていたアルケには珍しい、はっきりした感情。
真っ直ぐ立っているのも難しいらしく、ゆら、と揺らいだタシャの身体を支えた。
「わたしは、」
離れの外で、ごう、と風が
まるで森が裏返るように
死に際に、辺り一面の植物を枯らしたり天気を変えてしまったりする魔族の記録は幾つか残っている。いずれも、元の器が大きいのに次第に気の取り込みができなくなり、最後の一息が必死に周囲の気を吸い取ろうとして壊してしまう現象と言われている。
ずっと手を繋いでいるのに。私の生気をまるで一気飲みし続けるみたいに喰らい続けているのに。
それでもまだ足りず死に近付いていってしまうほど、タシャは飢えているのだ。
そして恐らく、死の直前のアルケもそうだったのだろう。タシャはその時のアルケの記憶をも読み込んでいる。
時間がない。ゆらゆら揺れるタシャの身体を抱くと、魂まで噛み千切ろうとするかのように生気を食い荒らしにくる。本人はただぐったりしているだけなのに。
「タシャ。……アルケ。答えてくれ。きみが産んだ子は、どんな風だった?」
ああ、と小さな嗚咽が聞こえた。身体が震えている。
「わたし……私の子。産んだよ。誰もいなくて。薄暗くて、こわくて、痛い、くるしい、痛いよう……たすけて、メイエ、たすけて」
両手で顔を覆って。
私から手を離してしまい、一気に力が抜けてふらつくタシャを抱き止めた。瞬間、心臓を引き寄せられるような吸い込み。
本人はもう何も分かっていない。私の生気を途方もない強さで吸おうとしていることも、自分か死にかけていることも。
誰に抱かれているかも分かっていないに違いない。
ただ過去の記憶に
窓硝子に
「私の子は、月の。どうして。先生、私、」
――私、黒い髪の子を産んだはずなのに。
予想通りの言葉だが、まだ足りない。まだ状況ははっきりしない。
「栗毛の子は?」
「あの子、気がついたら、髪が栗色になってた。顔も違ってた。私、うまく喋れなくて、周りが尖って痛くて」
「きみが産んだ子はひとりだった?」
「ひとりだけ。ひとりだけだよ。お腹の中にいる時から、分かってた。悪い夢が壊しに来るから、おまじないを教えてた」
「……ザイスェルでエラに会ったことはある?」
「隣の離れに」
倒れた椅子と割れた花瓶の間にへたり込んだままのエラが、ああ、ああ、と
「……エラは、赤ちゃんにお乳をあげてた。エラも赤ちゃんも、栗毛だったね」
わああああ!とエラが割れた叫びを上げた。真っ青な顔でアルケの言葉を聞いていたメイエが弾かれたようにエラに飛び掛かり、顔の覆いを引き剥がす。
布の覆いの下から出てきたのは、安化粧の崩れた四十絡みの、こめかみに薄い古傷のある栗毛の女。恐怖に顔を強張らせ土気色の頬に涙を流して、魔物でも見るような恐怖の
メイエはエラの襟首を両手で掴み上げる。これまで見たこともないような怒りと蔑みの形相で。
「あなたは……! 自分の子とアルケさまの子をすり替えたの!?」
泣いている。メイエが、ぼろぼろと涙を溢して。ああ本当に、メイエは不思議だ。アルケのためにこんなに怒るのだ。
怒って怒って、叫んでいる。
「後でこうやって、ダージュを利用するために、子供をすり替えて、双子の片割れなんて嘘を! この人でなし! あのとき赤ん坊が栗毛だったせいで、アルケさまがどんな目に遭ったと思うの!?」
「知ったことか! ダージュを利用!? はっ、おめでたい侍女さん、元はと言えばあんたがあの晩寝込んだりしたからアルケが一人になったんだろ、恨むなら自分を恨みな!
大体あたしは、後でダージュに来ようなんて思ってなかった! ただアルケが大ッ嫌いだったんだよ!」
びりっ、と部屋中が震えたような気がした。
メイエの手を乱暴に振り払ったエラは、後ろの壁に手をついて立ち上がろうとする。涙で化粧をどろどろにした顔で、なおも怒鳴り続けながら。
「強姦しても、私生児を
かあさんがあたしを売ったんだ、とエラは言った。
「紹介状がないからどこでも雇ってくれない。お金がなくて。泊まるところも食べるものもなくて。……それでかあさんは、あのけだものみたいなニドにあたしを売った。一座で働くなら養ってやると言われて。だけどそんなの、……どういう意味か、決まってるでしょ。
それなのに! あたしはあんな下品な乱暴者に身体を買われて、殴られながら働かされてるっていうのに、アルケのやつは、知らない顔で別の城に住んで、働きもせず、立派な寝台で子供を産む。偶然泊まった城でアルケに出くわしたあたしの気持ちがあんたに分かるの!? かあさんがうまくやればあたしたちは姉妹だったのに、この違いは何よ!
あたしはアルケが憎かった。めちゃくちゃにしてやろうと思った。ニドがあたしに産ませた子と取り替えて、間男のいるいかがわしい女に仕立て上げてやろうと思った!」
エラはもうメイエを見ていない。アルケに向かって喋っている。私の腕の中のタシャに喋っている。
「がりがりに痩せて気を失ってるあんたを見たときはせせら笑ったよ。子供も泣かなかったから簡単に取り替えられた。あとは布やら何やら用意して汚して、見回りに来た使用人にお産を手伝ったって嘘をついて、口止めの金をもらっておさらばさ。やっぱり栗毛じゃまずかったんだろ? 何年かしてあんたが死んだって聞いたときはあんまり愉快で気が狂うかと思った!」
耳障りな声で
「……なのに、何でアルケがいる。あんたはいつからアルケだった?」
エラが突進してくる。タシャに掴み掛かろうとする。メイエが弾き飛ばされるが、私が手を伸ばしてエラの首元を前から掴む。
「離してよ! ……なんでタシャが、アルケなの。覚えてるはずない!」
「ここはアルケが暮らした城ですよ。アルケの記憶がまだそこかしこに残っている。タシャはそれを読んでいるんです。お腹が空いているし、アルケの娘で器としてはぴったりだしね」
まあ意味は分かるまい。
ぐっ、と少し首を締め付ける力を強めるとエラは
「あんたは……なんなの、あんたもあの家庭教師の息子で、記憶を読んでるとでも言うの」
「私は昔のままの、家庭教師クロイですよ」
「……魔族なの」
めちゃくちゃだな、と思った。エラはようやく思い出したように私を恐れる。タシャという器が死にかけているだけで、周囲の人間はここまで順番が分からなくなる。
何だか変な感じがある。エラの首筋には何か傷痕があるのだ。さっきメイエが言っていた傷痕。随分以前からあるものらしい。
一方で、タシャがもう立っていられない。もうすぐだ。私に身体を預けて
「……エラ。あれは、エラの匂いだったんだ……赤ちゃん、知ってる匂いがした」
「栗毛の子が?」
「いっぱい泣いた。あの子、何が起きたか分かってた。でも私の子じゃない……私の、黒髪の子は、瞼に星がある」
大したものだ。アルケは確かに人間だったが、ちゃんと気付いていた。自分の産んだ子が、普通の人間ではないということを。
人間の中では魔族や精霊に近い感覚を持つ娘だとは思っていたが、当時はそれだけのことと気にも止めなかった。そういう人間はたまにいるから。
けれどもタシャがこういう存在である以上は、実の母アルケは、
その時、思考を切り裂くようにエラが悲鳴を上げた。
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