ダージュ、9月12日

1 扉を叩く

 ダージュの手前で待っていたギィの話を聞き、それに対してこちらの話を飲み込ませるのにやや時間がかかった。

 跳ね橋のある二重城壁を通過する頃には、時刻はもう朝を過ぎて昼時が近い。ダージュの街はどこか浮わついた明るさに満ちていて人出も多く、それは早朝から祭りが始まっているためだとすぐ分かった。そう、確か、ここの祭りは日の出の時刻に行われる儀式で始まる。

 それにしても、心臓に悪い。タシャのいた一座の馬車がふたつも崖を墜ちたとは。別の馬車に乗っていてタシャが無事なのは幸いだったが、ギィの話によると事態はかなりしち面倒くさいことになっている。


 タシャがアルケの娘だと、ジルゼなる女が領主に伝えて保護を求めた。そのため、タシャとアルケ、それに馬車の御者は城内に滞在している。

 城の人々の言葉を盗み聞いた限りでは、領主はタシャを城に迎えるつもりらしい――


 ギィは狼の姿で森から城内に忍び込み、様子を探ってきていた。それによると、ジルゼは顔を布の覆いで隠している。


「女の通った所に近付けたから確認してみたんだが、あれはトルフィの舞台小屋あたりでしていた匂いだ。一座の者ではあるんじゃねえかな。山道は雨で匂いが消えてて分からなかった。ただ、事故のあと無事だった馬車が休憩したらしい場所には、タシャとその女の匂いが残ってた」


「顔を覆った女なんか、あの一座にはいなかったはずだ。顔を隠したい事情でもあるのか」


「傷があるからって話らしいが、覆いを外したところは見られなかった。ただ髪は本物らしくて長い栗毛だな」


 栗毛。

 ジルゼという女は、恐らくタシャの母親、一座の歌姫エラだ。あの一座には他に長い栗毛の女はいない。ジルゼも旅芸人一座の歌手と名乗っているらしい。嘘をつく必要のない部分は本当を混ぜた方が安全になる。

 だがエラには顔に目立った傷などなかった。こめかみに古い傷跡が薄く残っていたように思うが、はっきり言って傷跡に敏感な吸血鬼の私だから気付く程度のごくかすかなもので、エラ自身も特に隠さず舞台に立っていた。

 では、なぜ顔を隠す?

 他の場所では必要なくても、ここでは隠す必要がある?

 ……誰かが顔を知っている?

 城の中の誰かが?


 どうすんだよ、とギィが聞く。早くも買い食いした林檎を噛み砕きながら。


「どうもこうもない。言った通り目的はひとつ、タシャを死なせないことだ。時間がないから勝手に入らせてもらう」


 幸い、ダージュの城は抜け道さえ知っていればそれほど出入りが難しくない。ギィは私があらかじめ教えた抜け道をいくつか確認していて、それで城内に入ってきた。この二十年、あまり神経質な修繕はしていないということだ。

 それも戦がないから放置されることなので、私としてはとりあえずこの地の平和に感謝する。領主はまずまずうまくやってきたのだろう。随分年を取って老人になっているはずだ。


「入るのはいいが、あんた、顔が割れてるんじゃねえのか? 前にいたのが二十年くらい前なら、まだ覚えてる奴がいるだろ」


「だろうな。ただ、タシャ達がいるのは湖側の別棟なんだろう? あそこは完全に独立しているはずだから、人を外に出さなければ城には知られない」


 年を取らないおおむね不死身の吸血鬼ヘカートとは言っても、流石に胸を刺し貫かれたり首を斬り落とされたりすれば死ぬ。そうならないよう、兵を来させなければいい。

 中にはタシャとジルゼ、その他はいても使用人が何人か。一座の生き残りなのだろう御者は、恐らく城側の使用人たちが使う一角に滞在するだろう。離れの方は、客が女で、しかも領主の孫かもしれないとなれば、女の使用人で余程信頼のおける者しか出入りさせていないだろう。さて、あのワイムさんはまだ現役かどうか。




  *  *  *




 昼時は食事の世話をする者が出入りすると踏んで、少し待つことにした。

 城内の森は湖を囲んで、この昼間にも深々とした影を作る。吸血鬼のような夜側の魔族には過ごしやすい場所だった。


「変わらないな。この森は結構好きだった。城壁や城そのものよりこの森の方が古いんだ」


 深呼吸すると身体の中に溜まったおりが消え失せていくような気がする。結局のところ魔族も人間もこうした山や川、海や空の星に力を分け与えられて生きていることには違いがない。人間でもだ。気が付いていないだけで。

 ただその力には個体差がある。

 そして、人間のようで人間でない者もいるのだ。


 ギィは一旦狼の姿に戻って、森の下草の上に長々と身体を伸ばしている。


「確かにここは、古くていい森だな。嘆きの森に似てる」


「あれも、人が作ったんじゃない太古からの森だからな。……ああ、この件が片付いたら一旦帰ることにしようか。休養が必要になるだろうし」


「タシャを連れてか?」


「そりゃ分からないよ。さっき話した通りだ――どうなるにせよ、この計画はかなりおまえ頼みのところがある。うまくやってくれよ」


 ふん、とギィは鼻を鳴らして、視線だけこちらを見た。


「面倒くせえ種族だよなあ、吸血鬼ってのは。なあ、本当にどうなるか分かんねえのか?」


「分からないね。子は、クロイの古い本に不完全な記述がある以外に見たことも聞いたこともないんだ。これから私がしようとしていることについての前例も書かれていなかった。本当にどう転ぶか分からない」


「それでもやるわけ」


「出会ってしまったものは仕方がない」


 彼女が私の特別な相手なのだと分かってしまったから仕方がない。

 考えてそう決めたわけじゃない。会ったらそうだと分かるのだ。クロイがかつて語った通り。

 そこに私の意思はない。

 誰に教わらなくとも蜂が花の蜜を吸うように、魚が川を上るように、雪が降れば冬眠し春が来れば起き出すように、まるで動物の本能のように、なのだ。それが吸血鬼という種族に備わる本能なのだろう。


「問題は相手がタシャの場合にやり方がそれでいいのかどうかだ。でも記録はないし、原理的にはそれでいいはずだから、……多分」


「多分で命賭けてんじゃねえよ、本当に病気だなあんた」


「まあ病気みたいなものではあるよ」


 吸血鬼ヘカート・ルクルという病、と言うこともできなくはない。

 そもそもが吸血鬼であるということは不治の病だ。人間から吸血鬼になった者はいても、吸血鬼から人間に戻った者はいない。

 そんな言い方をしなくても、もっと古くから言い習わされた言葉がある。呪いを受けて人間から吸血鬼になるのだと。それも正しい。呪いは血を媒介としてもたらされる。

 そして、吸血鬼になったなら、吸血鬼の本能に抗うことはほぼ不可能だ。飢えれば人の血を求める。血を吸うまでは獲物に執着し、血を吸ってしまうと獲物のことは心底どうでもよくなり忘れてしまう。そういう病だ。

 出会ってしまった特別な相手に、どんな面倒が見込まれようと強く執着してしまうこともまた、まるで不治の病のように、吸血鬼の性質だった。


「……仕方がない。やってみるしかない」


 出会ってしまったものは仕方がない、と私は繰り返した。

 たとえタシャがアルケそっくりでなくても、アルケの娘でなくても、関係ない。タシャが私の特別な相手ならば、することは一つだ。


 食事を下げるらしい使用人がふたり出てきた。中ではお茶でも出される頃合いだろうか。

 恐らく、関わる使用人の数をなるべく絞っているので一人当たりの荷物が多いのだろう。両手に大きな籠を持った女中ふたりがささやき合うのが聞こえた。


 ――あの方、あんまりお召し上がりにならないみたい。


 そうだろう。そのはずだ。だから、急がなければならない。

 ギィに合図をして静かに立ち上がると、私はかつてよく知っていたその離れに向かった。



 窓から覗くと、ずいぶんと綺麗に洗い立てられて着替えさせられたタシャが見える。表情がない。

 それから、顔を布の覆いで隠した女。確かに栗毛だ。体つきも手のかたちも間違いない、あれはエラだ。

 もうひとり若い男の御者がいるという話だったが、それは予想通りここではなく城のほうに滞在しているようで姿が見えない。

 使用人は女がひとり。その姿を見て、口の端に笑みが浮かんだ。

 相手を見て気が変わったので、普通に表の入り口から入ることにした。礼儀正しく扉を叩いて。

 もちろん、吸血鬼だからといって、招かれなければ初めての家には入れないなんてことはないのだが。


 返事をして内側から少し扉を開けたメイエは、一瞬息をのんだようだった。何か声を出そうとする寸前に口を押さえて、扉の中に滑り込む。はある種の魔族の得意技で、ごく短時間、相手の判断や動作を遅らせることができる。


 静かに、と私は言った。


「危害を加える気はない。久し振りですね、メイエさん。あなたは年をとっても変わらない」


 数秒の間に嵐のように目まぐるしく、色々なことを考えているのが手に取るように分かった。昔もそうだった。落ち着き払ったまなざしの奥でたくさんのことがとんでもない速さで飛び交い、繋ぎ合わされ、それでこの人は時にびっくりするほど判断が速い。


「クロイ先生?」


 見上げる表情も昔のままだ。ただやはり、その表情の奥底から恐怖が滲み出てくる。無理もない。


「誰も食べる気はありませんよ。ただ、友達に会いに来たんです。多分困っているんじゃないかと思って」


「友達って」


「タシャです。この中にいますね? 彼女、食が進んでいないんじゃないのかな」


 一段と強く警戒の光が両目に込められたのが見てとれた。忠義のためならば恐れを知らぬこの性格が、城の女中たちの中では付き合いやすかったのだ、と記憶が甦る。


「どこからその話を。城の中でも一部の人間しか知らないことです。大体、どうやってここに」


「私はこの城を知っていますから。抜け道がちっとも修繕されていない。ダージュはあれからずっと平穏だったようですね」


「……平穏ですって?」


 眉がぎゅっと形を変え、メイエはこちらを睨み付けた。怒りと恐怖に震えているらしかった。

 ……怒り?


。答えなさい。あの頃、城下で起きた吸血鬼騒ぎはあなた? アルケさまを身籠らせたのはあなた? 平穏なんて冗談じゃない、あれからどれだけ酷いことになったと思っているの!」


 ああそうか、と思った。メイエはアルケの侍女だから。本当にアルケによく仕えていたのだ。アルケがどうなったか側で見ていたはず。

 アルケのために怒っている。

 怒るだけのことがアルケの身には起きていたのだ。


「メイエさん。当時の城下の騒ぎの件は私じゃないし、アルケさまにも指一本触れてはいない」


 事実、そうだ。どちらも、やったのは別の男。吸血鬼を持ち出すまでもなく人間がやったことだ。


「あなたがた人間は様々に吸血鬼を言い伝えるが、実際のところ我々吸血鬼には、人間のような生殖を行う能力はないんですよ。男の吸血鬼は、吸血鬼であれ人間であれ女を孕ませることはないし、女の吸血鬼も、妊娠することはない。それから、夜霧になったり飛んだりもできないので、人目を避けて彼女の寝所に滑り込むこともできません」


「本当かしら」


「証拠を示せる話でもないので、信じないならそれまで。それにしてもメイエさん、あなたは相変わらず胆が据わっていますね。大抵の人は私が吸血鬼だと知ると恐怖で混乱するのに」


「混乱! してますとも、十分混乱してるわ」


 メイエは額に手を当ててうつむき、天を仰ぎ、それからまた私を見た。まだ怒りは去っていないが、同時に何かを迷っているように。


「あなた、……おお神よ、こんなこと本気に取るなんて、魔族の言葉を聞くなんて、私は気が狂ってるに違いない。

 クロイ先生、もう一度聞きますけれど、アルケさまを手込めにしたのはあなたじゃないのね。それに、危害を加える気はないと言いましたね。それは信じていいの?」


「もちろん。それに、食べる気ならこうしてお喋りの手間を掛けずにすぐやっていますよ。……ああ、何かあったんですね?」


 メイエは一瞬ぐっと詰まり、こちらをしかと睨み付け、それから口を開いた。


「タシャという娘が、確かにここにいます。そして、彼女の中にアルケさまがいる。アルケさまでなければ知りようのないことを話すのよ。……彼女も吸血鬼なの? アルケさまが本当は生きていたの? だけど私は17年前、アルケさまの亡骸なきがらをこの目で見たんです」


 タシャは吸血鬼ではない。

 アルケも吸血鬼ではなかった。

 二人は母娘ではあるかもしれないが別人だ。


 だが、タシャがアルケにというなら、恐らくそれは。


「この一帯に残されたアルケさまの記憶を読み取ってしまっているのかもしれない。多分、タシャが飢えているせいです。会わせてもらいますよ」


 飢えて?とおうむ返しに呟いたメイエの向こうで、居間に続く扉が開いた。

 顔に布の覆いをした女。


「ねえ、領主さまがいらしたの? あたくし、ご相談したいことが」


 言いさして、布越しに私を見てとったらしいエラはたじろいだ。それはそうだろう。私が着ているのは城の使用人の制服ではない。


「メイエさん、そちらどなた?」


 僅かに粘つく声色。

 この女詐欺師に、洗いざらい吐かせる必要がある。

 挨拶をするかのように進み出ると、女の向こう、部屋の中に、揺り椅子にぐったりと沈むように座る少女の姿が見えてきた。


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