追憶 秋

垣間見た幻

893年 秋 ダージュの城




 身体は薄ら重く、不自由だった。

 まるでずっと水の中に沈んでいるみたい。

 目に見えるものはぼやけて歪み、聞こえる音はくぐもっている。肌はざわざわとかすかに寒いような震え方をしており、ものに触れても歩いても何だかふわふわ、ゆらゆらとする。

 人の言葉が聞こえてもよく分からないし、何を食べても味が薄い。香りもあまり感じない。

 気持ちの悪い夢の中にいるようだ。

 自分がどこにいるのかはっきりしない。


 夢の中で夢を見るということがあるのだろうか。

 ずいぶんひどい夢を何度も見た。夢が襲ってくるたびに世界が恐ろしく変わっていったような気がする。

 一番最初は星や森の声が聞こえなくなり、そのことが世界をすっかり別のものにしてしまった。

 気持ち悪くて、痛くて、怖くて、そういうところだけは鮮明な夢。

 暗闇から掴みかかってくる夢。

 私を引き千切るような、狂暴な夢。

 夢が、私の世界を喰い荒らし、こんなにも不気味で不安な場所に変えてしまった。


 確かなものはもう、何もないのかもしれない。

 城さえも私に無断で形を変える。今朝、私は湖の方に出ようとして、いつも開け放している窓を通り抜けるつもりが別の何かにぶつかり、そこが壁に変わっていることを知った。

 私を閉じ込めるために窓が潰されたのだろうか。お父様がそんなことをお命じになるだろうか。


 お父様。

 何故あんなに怒っていらしたのだろう。

 子供の、髪の毛の色のことかしら。

 私が嘘をついたと思ってお怒りになったのかもしれない。でも、私は確かに、黒髪の赤ん坊を見たような気がするのに。


 ――こんな栗毛は一族にはいない。青い瞳もだ。


 わからない。

 私じゃない人の髪の毛や瞳の色のことで、どうして私が叱られるのか、わからない。


 ――おまえは、一度ならず、二度までも。


 お父様、

 でもそれは、

 夢だわ。



 時々、女中たちが来て、部屋や私をさわったり、味のしない食べ物を置いていったりする。

 みんな、何だかとても怯えている。泣いたりする。気持ちの悪い空気になる。

 私はなにも無茶は言っていないのに。


 ――お嬢様。アルケ様。

 ――少しは召し上がりませんと。


 これは罰なの? 色も形もよく見えない、食事だと言って出されるものは、味が分からず口の中で気持ちが悪い。

 星にも月にも、森にも湖水にも、助けてもらえなくなった私の身体は、どんどんひびが入って砕けていく。

 世界にはもう、歌がない。

 本当にないの?


 薄暗い部屋の四方の壁をすべて触って確かめて、鍵のかかった扉と窓を見つけた。

 鎧戸よろいども降りていないのに、窓の側は明るくない。星も月も太陽も、空からいなくなってしまったのか。


 いつからだろう?

 いつから世界はこんなに酷くなってしまったのだろう?


 悪い夢を最初に見たあの朝から?


 夢は私を捕らえ、

 私を引きずり倒し、

 私の声を奪い、

 私を封じた。

 私は夢の力に抗えず、

 泣き叫ぶ声を出すこともできず、

 されるがままに痛みに耐えた。

 それ以外にできることはなかった。


 夢が私の世界を粉々に砕いた。


 砕かれた世界にはもう誰もいない。

 月も星も、森も花も、風も湖水も、

 それまで私を迎え入れ助けてくれたものたちが、

 すべて死んでしまった。

 もう声は聞こえない。


 夢は何度もやってきて、私の世界を喰い荒らす。



 がさがさに傷んだ指先が、ようやく窓の掛け金を外した。


 お願い、外に出して。森が星が、まだどこかに息づいているかもしれない。

 その側に行きたい。


 身体はうまく動かない。

 足首はぐにゃぐにゃと曲がり、地面の感触は一定せず、なんだかうまく歩けない。

 外へ。

 転げ落ちる。

 立ち上がる。

 数歩歩いて、何かにぶつかる。

 においがする。古いともだちのにおいが。

 ああ、そこに行きたい。


 光がない。


 やがて足先から、ゆっくりと私を包みながら、ひんやりとしたそれが、私を迎え入れる。

 あかるい暗闇。

 わずかなきらめき。

 懐かしい湖水。

 星のひかり。

 私たちはあんなに一緒だったのに、もうその姿も感触もはっきりとは感じられない。


 たすけて。

 私をみたして。

 私を迎え入れて。

 あんな恐ろしい世界から、私を連れていって。



 まもなく、大きな冷たい塊がすべてを私から引き剥がしていき、


 私は見ていた。


 を。



 男。

 青灰の瞳。

 月のにおい、

 底知れぬ記憶の気配。


 少女。

 黒髪の子。

 星月の助けで生きる、

 私と同じいのち。



 少女は生きたむくろだ。

 かさかさに干からびて、肉だったものが剥がれ落ち、骨の見えるところがある。

 落ち窪んだ眼窩にはしかし、夜の星空が映っている。


 おなかがすいた、と少女は発した。


 口を縫い付けられているのが見えた。


 おなかがすいた。

 おなかがすいた。


 肉を失い露出した頬骨の上を、煌めく星空がひとしずく流れ落ちた。


 おなかがすいたよう。



 男は、木のさじを差し出している。


 だめよ、と私は呟いた。

 先生、その子、いま食べたいのはそれじゃないの。


 匙が手を離れ、落ちていく。

 男は次に、パンを。

 卵を。

 林檎を。

 何を差し出しても少女は、ぽろぽろと星空をこぼして声も立てずに泣くばかり。


 私はれて、また言おうとする。

 ねえ、クロイ先生、どれもだめでしょ。

 たべたがってるものは、別にある。


 少女は指先からぽろぽろと砕けていた。

 たべないからだ。


 早くしないと死んでしまう。



 不意に、彼がこちらを見た。

 青灰色の瞳がじっと光る。

 微笑うその唇の陰に、ちいさな牙。


 ああ吸血鬼ヘカートだったかと私は了解した。


 クロイ先生、あなたは、だったのかと。


 だから月の匂いがした。

 だから時間の匂いがしたのだ。



 黒髪の、少女の骸が泣いている。

 餓えて餓えて、泣いている。

 もうじきこの子も砕けてしまう。


 私と悪夢の間に生まれた娘。



 おなかがすいたよう。



 彼の両手が少女の頬に添えられた。

 少女の眼窩から溢れ落ちる星空は、身体と一緒に砕けて散っていく。

 ふたりの顔が近付いて。

 青灰の瞳から夜色の涙が、ぽたりと少女の顔に落ちた。

 ぽたり。

 ぽたりと。

 月を呼ぶ、その乾いた唇に。



 そうだ。

 それこそが、



 ――さよなら、私の、





  *  *  *




 秋の早朝、半地下の部屋から窓を壊し、そこから誰かが森を抜けていった痕跡を下男が見つけた。

 知らせを受けた女中が確かめると、部屋は空であった。

 城の者たちが直ちに外に飛び出し、まだ薄暗い森の中、ランプを手にして痕跡を追う。

 叩き起こされた城の主が、急いで着た服の乱れも構わずランプの群れの先頭に追い付いたときには、もう皆、何が起きたかを悟っていた。

 夜明け前の雨に濡れた森が切れたところに、見覚えのある肩掛けが放り捨てられていた。城主の末娘、半地下の部屋に幽閉されていたアルケのものだ。

 少しぬかるんだ地面の上を、ちいさな足跡は一直線に湖に向かい、その波打ち際に消えていた。

 言葉を発するものは、誰もいなかった。


 子供時代から変わり者だったアルケ。

 ある年、誰の子とも知れぬ赤子を宿して流産したアルケ。

 どんな傷ものでもいいからと望まれて、遠いザイスェル城主の三男に嫁がせた。まるで厄介払いのように。既に気が触れているのを分かっていながら黙って送り出した。

 何年か後、嫁ぎ先でアルケは、栗毛に青い瞳の赤子を産み落とした。両家とも黒髪に黒い瞳の者しかいないにも関わらず。

 まもなくアルケと赤子は送り返されてきた。見るかげもなく痩せ衰えたアルケは、花嫁として送り出した時よりも更に心を病み、会話が成立しない状態だった。

 城主は、私生児に対する慣例通り赤子を聖職者の離れ館に渡し、娘は城に幽閉した。

 そうするより他にはなかったのだ。


 波打ち際に消えていく我が娘の足跡を呆然と見ながら、城主は誰にともなく言う。


「あの子を、アルケを、探してくれ……」


 既に小舟が呼ばれてきていた。

 男たちが朝靄あさもやのたなびく湖水の上へ漕ぎ出していくのを、城主はただ立ち尽くして見送るしかなかった。



 湖面に漂うアルケの亡骸なきがらが見付かったのは、その日の昼も近くなってからのことである。


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