4 女中頭ワイム
思いもよらなかった客人が滞在する離れから、真っ青になったメイエを連れて戻った。椅子に掛けさせて熱いお茶を出してやると、震える手で茶碗を取るには取ったが、口に近付けられずにいるようだった。
「あれは、まるでアルケさまです」
「瓜二つです。でも……そんなばかなことが」
「そうね。でも他人の空似ということはあるでしょう」
「声まで似るものでしょうか?」
それは、メイエの言う通りだった。タシャというあの娘は、姿も声もアルケさまにそっくりだ。
違うところがあるとしたら、態度がアルケさまほど悠然としていないこと。反応がひどく薄い。どこか怯えている、いや、諦めているかのような。
とにかく、
私はアルケさまを、お生まれになった時から知っている。
正直、動揺した。
しかしそれよりも、メイエの狼狽ぶりがひどかった。
普段は、どんな問題が置きようと冷静を保とうという姿勢を崩さないのに。顔は真っ青を通り越して土気色に近いし、手は震え、視線があらぬところで止まって何も見ていないような目をしている。それでいて不安すぎて破裂しそうな顔をしている。
いつものメイエではない。
「大丈夫? あなたにとってもアルケさまは大事なかたでしたからね」
ええそうです大切なかたでした、とメイエは、やはりどこを見ているか分からない目をしたまま早口で答えた。
それからこちらを見て、ワイムさん、と震える声で呼ぶ。
この短い間に、はっきりと憔悴している。
「どうしたんです。いくら何でも、あなたらしくもない……」
「ワイムさん、私、」
かちゃんと音がしてメイエの手の中の茶碗と受け皿がぶつかった。そんなことをしないようにメイエをしつけたのがもう20年も前のことになる、とふと思った。
またも音を立てて食器を側の台に置いたメイエは、椅子から立ち上がりふらふらとこちらに近寄ると、倒れ込むように私の膝に取りすがった。
「メイエ」
「私……私、とんでもないことをしでかしたかも知れないんです! もしそうなら、アルケさまにどんなにお詫びしてもし足りません。旦那さまにも顔向けできない」
「落ち着きなさい。落ち着いて、メイエ」
「どうしよう、ワイムさん。あのジルゼの話が本当なら、私が、あの晩熱なんか出さなければ、これじゃ私がアルケさまを、」
わっと泣き出して取り乱したメイエを隣に座らせ、肩を抱き背中を撫でて、
これは尋常ではない。メイエが泣くなんて普通ではない。この子が最後に人前で泣いたのはアルケさまが亡くなったときだ。以来十何年も、誰が死のうと、誰にどんなにひどいやり方で裏切られようと、涙など見せなかった。それでいて心が冷たいのではなく、人情も気配りも十分ありながら冷静を保つ力があるところを私は高く買ってきた。
そのメイエが。
「ねえ、メイエ。ジルゼに聞いた話でそんな風に取り乱すのでしょうけれどね。
いいこと、領主や王族、城下のただの商人であっても、お金のあるところにはこういう問題は起こりがちなことですよ。この子は誰々の隠し子だといって、お金を手に入れようとする
あのタシャという娘はアルケさまにそっくり、確かに私もそう思いますよ。恐らく、アルケさまの子かも知れません。でも、だからといって彼女を連れてきたジルゼの話まで全て本当かどうかは、分からない。
タシャだって
微笑んでやると、メイエは顔中を涙で濡らしたまま、それでも少しだけ泣き止んだ。瞳には見たこともないような悲しみが覗いている。
私はぽんぽんとメイエの背を叩いた。
「それじゃ、順番に考えてみましょう」
ジルゼの話というのはこうだ。
17年前、ジルゼの一座は祭りに合わせた巡業でザイスェルに行き、領主一族の一人にたまたま気に入られて、その屋敷の離れに滞在することになった。
その際、向かいの離れにその屋敷の奥方アルケが幽閉されており、一座の滞在中に出産したという。
出産は、誰の手助けもなく、誰も見ていないうちに起きた。アルケは屋敷でひどく冷遇されており、そもそも使用人も殆ど与えられていなかったためだ。
その晩、実家からついてきた唯一の忠臣といってよい侍女メイエは急な高熱で寝込んでおり、他にたった一人しかいなかった使用人は祭り行きたさに無断で仕事場を離れてしまっていた。
当時体調不良で一座に帯同せずひとり離れにいたジルゼは、遠くから聞こえてくる赤ん坊の声に気付いて向かいの離れに入り、アルケの寝室を訪れた。この奥方に従者は二人しかおらず、一人は寝込み一人は逃げたことを知っていたからだ。
すると寝室では栗毛の髪と黒髪の双子の赤ん坊が生まれており、アルケはジルゼに双子の片方を貰ってくれと言った。
ジルゼは黒髪の方の子を密かに預かり、アルケは栗毛の赤ん坊だけを生んだことになった。
なにか差し障りがあったようで、アルケの出産をジルゼが手伝ったと知れた途端、屋敷の主は一座に大金を渡して口止めし、その日のうちにザイスェルを出て二度と立ち寄らないよう言い含めた。
黒髪の赤ん坊は不思議と全く泣かなかったため、ジルゼの衣装入れに隠されて屋敷の主に知られることなくその地を去った。
ジルゼは次の街までの旅の間に、休憩した森で赤ん坊を拾ったということにし、自分の子としてその黒髪の赤ん坊を育てることにした――
「まず、あのジルゼがアルケさまの出産時にザイスェルにいたかどうか? メイエ、その頃のことを覚えている?」
「アルケさまのご出産は確かに祭りの最終日でした。皆が出払っていた時に急に、というのもその通りです。その日、私が高熱を出して
その頃、隣の離れには確かに、祭りのために巡業に来た者たちが滞在していました」
「あのジルゼがいたかどうかは?」
「今は布を
自分が倒れて見ていなかった間に一連の出来事があったと聞かされてメイエは取り乱していたが、話し始めると次第に混乱から回復しつつあった。頭を使わせた方がすぐ冷静になる。そういう子だということは初めて会った頃から知っている。
「では仮にそれがジルゼ、またはジルゼにこの話をした者であった、としましょう」
「ええ。全くの嘘にしては事情が細かく合っていますから」
「実際、人のいない時に急に産まれたという話は当時も聞きましたし、そうですね」
それで後から、アルケの父であるダージュ領主が随分怒ったことをワイムは覚えている。いくら札付きの傷物とはいえ、産み月の近い妊婦につける使用人が少な過ぎるし、つけた女中も持ち場を放り出すような躾の悪い娘だけとは、と。
「問題は、アルケさまがお産みになったのが双子のお子だったという話です」
メイエの言う通りだ。それはこれまで誰も聞いたことのない話だった。
「でもワイムさん、栗毛の子を黒髪の子と一人ずつ、ということがあるでしょうか」
「年の違うきょうだい程度にしか似ていない双子というものもありますからね」
父親が違うということもあるから、とは口に出さなかった。今それは一番の問題ではない。
「ではなぜ、わざわざ不貞の子と言われることが明白な栗毛の子の方をアルケさまは手元に残したのでしょうか。栗毛の子をジルゼにやって黒髪の子を残すのだったらまだしも理解できるのですが」
それについてジルゼは、アルケにこう言われたという。
生まれる前から不貞を決めつける夫が許せないから、いっそ栗毛の子を見せて離縁され実家に帰りたい。もうここに住んでいたくない、と。
「そこが、少々疑問なのです」
メイエは顎に指先を当てた。
「ご存知の通り、アルケさまはこのダージュにいるうちからあまりまとまったお話はできないようになっていて、ザイスェルでもそうでした。ダージュに帰りたいとおっしゃることはありましたけれど、幼子が家に帰りたがるような
それに、誰もいない時に出産になったこと自体は偶然ですよね。当時、双子だということも医師からは全く言われていなかったんです。偶然一人で産んで、ジルゼが偶然来るまでの間にそういうことを考えるでしょうか。
なぜ栗毛の子が生まれたのかも、私は今でも分からないんです。アルケさまはザイスェルでは全く外出なさいませんでした。離れを出入りする人間にせよ、最初のうちごく稀に旦那さまがいらしたほか男性はいませんでしたから、不貞の相手がいないんです」
「それは当時も言っていたわね。ただ、アルケさまには一度、前例があったから……」
ダージュで暮らしていた頃にアルケは一度、父親の分からない子を身籠り流産している。その時も、アルケ自身が父親は分からないと言ったのだ。たくさんの男がいたから分からないのではなく、男と子供のできるようなことをした覚えがない、と。
一時は、妊娠発覚の前に急に辞めていった家庭教師が疑われたほどだった。しかしその家庭教師がアルケを教えている時には必ずメイエが同席していたので、それも有り得ないということになった。
それでついに、本当に、
「
とにかく、子供が二人生まれていて、その片方を預かった、とジルゼは言っている。
アルケの子とされる娘は、アルケに瓜二つである。
子供を預かった経緯を聞くと、少なくとも当時の事情を細かく知っていることは確かだ。
「どうしたものかしらね。旦那さまはあのアルケさまそっくりの姿を見てすっかりその気になっているし。……私も正直、あんなに似ていて赤の他人ということは考えにくいと思うけれど」
変装で顔かたちを似せているのではないことを確認する意味もあって、メイエに問題の娘の湯あみを手伝ってもらった。結果としては、ひどく痩せ細ってはいるが、きれいに洗った方がよりアルケにそっくりになった。領主が言った通り、髪も染めているわけではないし、烙印もない。
「ワイムさんは何が気になります?」
「どうして今になって現れたのかということね」
これは即答できた。最初からそれが一番気になっている。長い時間が経ってからこういう申し出をする場合は
一応ジルゼの話では、これまでダージュに来なかった理由はこうだ。
ザイスェルを発ったあと、元々予定していた南方回りの長い巡業に2、3年かかり、戻ってから消息をたずねるとアルケが実家に戻ったあとすぐ亡くなったと分かったので、これもそのような運命と呑み込んで一旦すべてを忘れることにした。
ところが十数年経った今、たまたまダージュの近くで一座の馬車が滑落事故に遭い、座長以下殆どの団員と道具を失って今後の生活の手立てがなくなったため、苦渋の決断でダージュを訪ねてきた。
筋が通っているようではある。
事故の痕跡を確認するよう人も出したので、おっつけ報告が来るだろう。
「それから、旦那さまはどうなさりたいのか、ということも気になりますね。あの娘さんを引き取りたい、という話になるのは、まあ分かる。ジルゼと付き人をどうするかが問題でしょう。あのジルゼは育ての母としての地位を旦那さまに要求したようだから。それにね」
メイエがこちらを見る。
私は目を閉じて、真剣に思い出そうとするが、やはり分からない。
「……私も、あのジルゼという女とどこかで会ったことがあるような気がするのよ」
私はメイエと違い、アルケさまのお供でザイスェルに行ったことはない。会ったのならそれ以外の場所で会っているのだ。
そして私は、若いうちからこのダージュの城に勤めて外に長く出掛けたこともないのだから、可能性としてはダージュで会っている可能性が一番高い。
ダージュで?
このダージュのどこで?
しかし、印象だけの話だ。何しろ布を被っているので顔が見えない。顔を隠していること自体も怪しいといえば怪しい。
「このワイムも年を取って焼きが回ったということね。メイエ、あなた、代わりに頑張って思い出してちょうだい。もしやザイスェル以外の場所であの女に会っていないかどうか。
旦那さままで、どこかで会ったことがあるような気がするとおっしゃるのが、どうも気にかかるんですよ」
このままだと様々な雑事に紛れて最初の違和感が消え失せてしまいそうな気がする。それはいけないと警告の声がする。
旅芸人。
顔の覆い。
舞台の上。
不意に現れ不意に消えて、原っぱを空っぽにする。
このダージュでも明日から祭りの時期に入ってしまう。
騒がしくなれば――きっと何かが誤魔化される。
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