3 侍女メイエ

「お城の中には、この黒い衝立ついたてが幾つか置いてあります。衝立の先には入らないように。先に何があるのか詮索することもいけません」


 まだ着慣れなくて丈の合わないような新しい制服を着た娘たちが、それぞれに戸惑いの様子を見せた。

 皆、年若い。子供が揃いの服を着ただけのよう。ここに入ってはいけない、してはいけない、と言われれただけでも入りたくなるのだろう。

 私は娘たちをじろりと見回し、少しだけ声を大きくした。


「いいですか、みなさん」


 皆の視線が私の方に集まる。この時私を見ない娘は要注意だ。今回も一人二人いる。脳裏で素早く名前を思い出して記憶すると、私は言葉を続けた。


「――衝立を越えて中に入った者は、理由に関わらず解雇です。衝立の向こうに何があるのか、何故入ってはいけないのか、詮索した者も同様」


 薄く小さな、怯えたような、それでもまだ幼いざわめきが起こった。

 それでもまだ衝立の奥を見ようとしている娘は完全に要注意だ。いる。


「これは旦那様のお決めになった長年の掟です。文句も反論も許されません。いいですね。私も、他の使用人たちも、衝立の先への侵入、詮索を知った時には決して情けはかけません。この件に関して質問は受け付けません。

 では次。着いてきなさい」


 娘たちを促して廊下を歩き出す。一度ちらりと振り返った。やはり一人、衝立の奥を見ながら最後尾に寄ってきた娘がいる。

 あの娘、配置をよく考えなければならない。


 衝立の先のものに、触れさせてはならない。


 城下の家々にとって、家族がお城に奉公に上がることはある程度名誉なこととされる。働きながら行儀作法を覚えることや領主一家と関わること、城で一定期間勤め続けられたことなどは後にその者の縁談に大きく影響する。それで大人たちはこぞって娘や息子を城に入れようとする。特に娘を。


 未経験者の定期的な雇い入れは毎年、3月と9月。その前に半月ほどもかけて希望者の中から必要な人数が選ばれる。

 今、私が連れて歩いているのは、今年の9月組だ。20人以上いるが、このうち来年のこの時期になっても残っているのは半分がいいところだろう。逃げる者もいる。掟を破ったり仕事ができなさすぎて暇を出される者もいる。


 そもそも、城の仕事を完全になめきって来る娘が多いのだ。

 娘の城仕えは、お茶の用意やお召し物の用意、簡単な掃除をするくらいで、あとは優雅にお姫さまの話し相手をしていればいい、と思い込んでいる者が城下ではなぜか多いが、とんでもない。やることは多く、重いものも多く、城は小娘の足には途方もなく広く、選ばれてたったひとりの主に仕える侍女にでもならない限りは領主一家と親しく話をする機会すらほとんどない。

 そして侍女になってしまえば、お仕えする相手の細々こまごまとした仕事をほとんどすべてひとりでやらなければならないし、責任は一気に重くなる。


 お給料は安定するし住む場所も食事も当たって行儀作法も身に付くいい職場ではあるが、向き不向きははっきりしている。新入りが来てしばらくは、それで色々とごたつくのが毎度のことだ。

 私も初めてお城に上がった時には散々失敗したものだった。泣いて部屋に引きこもったのをワイムさんが連れ出しに来てくれたこともあった。

 私は自分が優秀だとは思わない。ただ、ワイムさんのように何くれとなく世話をしてくれた大先輩たちや、初めて私を侍女にと望んでくださったかたに救われたのだ。

 それで今日までやってきた。


 あのかたがいなくなって、もうどのくらい経っただろう。


 進行方向の回廊にワイムさんが姿を現したので、私ははっと我に帰った。

 ワイムさんは、今やこの城の女使用人のなかでは最高齢に近い、長年の女中頭だ。色々厳しくされたことも多かったが、私にとってはこの城での母とも言える人。

 幾つになっても背筋がまっすぐ伸びて、歩き方が老けないし、目も耳もいい。彼女はあんなに遠くからもう私を見て微笑んだし、そのまま私を呼ぶだろう。声を張り上げなくても通る人なのだ。昔からそうだ。


「メイエ、手間をかけて済みませんでしたね。ここから私が代わります」


 落ち着いた優しそうな声。私の少しかたくて高圧的な喋り方とも違う。

 それでも、この新入り娘たちは程なく知るだろう。ワイムさんはこの優しく穏やかな口調のままで、この城の誰よりも厳しく怒ることのできる人だということを。


「ワイムさん、もう半分以上来ましたから、このまま私が連れていきましょうか?」


「いえ、この最初の案内も大事な仕事ですからね。娘たちの様子も直に見たいし、私が行きましょう。……それよりメイエ、」


 もう、すぐ側に来ている。ワイムさんは歩くのが速い。

 彼女が小さく手招くので、私は素早く進み出た。

 新入りの娘たちには聞こえない声で、ワイムさんは囁いた。


「この子たちは私に任せて、あなたは旦那さまの所に今すぐ行ってほしいんですよ。書斎にいらっしゃいます」


「旦那さまに? 分かりました。何かあったんですか?」


 するとワイムさんは常になく深刻な目をして、さらに低く囁いた。


「アルケさまに関係することです。それで、当時を知る者が旦那さまには必要なのよ」




 心臓がぽんぽんと跳ねて飛び出しそうな気持ちだった。以来、アルケさまの名前すらこの城内では口にするのも躊躇ためらわれたのに。


 アルケさまがお亡くなりになった当時からお城に勤めている者は、今ではそう多くない。例によって娘たちはどんどん辞めるし、仕事が合っていても縁談が来て城を辞していくこともあるので入れ替わりが早い。ワイムさんや私のように、ここに勤め通そうと決めて結婚の希望を手放した女が生き残るが、それにしても病気をして退いたり、仕えた相手が外に嫁いだり館を持ったりするのについて行くことも多く、いなくなる者は多い。

 アルケさまを間近で見ていた者となると、城内にはもう数人もいないだろう。

 そのうちのひとりが、私だ。

 私はアルケさま付きの侍女だった。この城であのかたに望まれて侍女になり、あのかたが嫁ぐのに従って一旦はダージュからザイスェルに移ったが、離縁されたあのかたと一緒にまた戻ってきた。

 あのかたがお亡くなりになるまで5年の間、お仕えした。

 何があったのだろう。

 あれ以来、悲しみのあまりアルケさまの名前すら口になさらなかった旦那さまが。


 半開きのままにしてある書斎の扉から、暗い石廊下に明かりが溢れ出している。

 扉をこつこつと叩くと、誰だ、と中から声がした。震えている。そのことに私は嫌な感じを受けた。

 メイエです、と答えると、お入り、とまた震えた声がする。

 いつも通り明かりのともされた書斎がなぜか寒く感じた。椅子に掛けた旦那さまの姿がしぼんで見える。

 どうしたというのだろう。

 私は数歩進み出てお辞儀をした。


「お呼びだと伺いました」


「うん。……アルケのことだ。それも聞いたかね」


「はい、アルケさまに関することだ、とだけ、ワイムさんから。何か、あったのですか」


「うん」


 旦那さまはすっかり老いてしまわれた、とその時急に思った。

 私が初めてお城に上がった頃の旦那さまは、まだ40代の若々しい領主だった。あれから20年も経ったのだ。その間に、色々なことがあった。

 昔はこんな、うん、なんて小さな、力ないお返事を私たち使用人に聞かせることはなかった。

 どうしたというのだろう、私はさっきから胸騒ぎがしている。


「旦那さま、」


 私が呼び掛けると、旦那さまはようやくこちらを見て。

 そして、重い病の話でもするかのように、こうおっしゃった。


「アルケの娘と名乗る者が、現れた。いま、空きになっていた庭の離れにいる。アルケによく似ている。瓜二つだ。本当にアルケの子なら城に住まわせることも考えている。

 それから、その娘を連れてきた女だ。顔に傷があるとかで覆いをつけているが、どうも知った人間のような気がする。それもあっておまえにも来てもらったのだよ」


 私は途中から旦那さまの声が半分聞こえていなかった。

 何とおっしゃった。

 アルケさまの、

 アルケさまの娘だと?


「そんなはずは」


 私は自分の声が上ずっているのを聞いた。


「……そんなはずは、まさか。あのお子は、遠いところへ送り出したじゃありませんか。私もそれをこの目で見ました。旦那さまもご覧になったはずです、尼僧にお子を抱かせたのは私です。彼らが船に乗るところも、川下に船が遠ざかっていくのも見ました。子に出自は明かさず、離れ館の領地を出すこともしないと証文まで作って」


「違うのだ、メイエよ、違う。


 まるで嘆くような声で旦那さまは私に言った。


「そうとも、おまえは、栗毛に青い瞳の赤ん坊が夢魔エンクトイの烙印を押されて船で送り出されるのを、わたしと一緒に見た。

 だが、いま来ている娘はアルケと同じ黒髪に黒い瞳の娘なのだよ。かつらではないし、目の前で髪を洗わせて確かめた。染めた黒ではなく、生まれながらの黒髪だ。烙印もない」


 それともメイエ、わたしは夢を見ているのだろうか?

 アルケの亡霊がわたしを訪ねてきたのだろうか?


 そう力なく言葉を続けた旦那さまに、私はかける言葉を持たなかった。


 一体、何が起きているの。


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