2 歌姫エラ
だから嫌だったのよ、山越えなんか。
ただでさえ、山道は嫌いだ。
それもこんな雨の中。
馬車の車輪が滑ったのが分かると心臓が縮み上がるし、夜道は見通しが悪そうで怖いし、崖道を見るのも大嫌いだ。
この山を越えたって死に体のボロ城しかない。
そこを走り抜けて次の領地までは2日かかる。
次の領地は、
ダージュだ。
ダージュ。
あのダージュにまた行く日が来てしまった。
これまで一座がそっちに近付きそうな雲行きになると、何とかかんとか言って行き先をそらしてきた。
今回だって、近付きたくなかった。
ラーキ越えでどうしていけなかったの? 突っ走って通り抜ければよかったじゃないか。そりゃあ、お仲間稼業があそこで何人も吊るされたのは本当だけど。
あたしだって、罪人になって責められ吊るされるのは嫌だけど。
この道を行くなら、ダージュで留まらないわけにはいかない。ダージュを更に通り過ぎて次の町まで行くには、あたしたちの食料も馬ももたない。
あのダージュで小屋を掛けるのか。
あれから何年になるだろう。
あたしを見知った者は、まだいるんだろうか。
行きたくない。
そう思っていると、雨の中でがたんごとんと馬車が止まって、外で騒ぎが聞こえ出した。
「どうしたっていうの」
雨を透かして向こうを見ると何か変だ。
前にいるはずの馬車が見えない。
道を外れるようなはずはない。山の中の一本道だ。
追い剥ぎ? こんな雨の夜に?
ああ、思い出してしまう。
ほんとは、雨の山道が嫌いなのはあたしよりもかあさんだったのだ。
かあさんは平地でしか育ったことがなくて、山も谷も海も嫌いだったな。
とにかく移動するたび怖い怖いと言うから昔のあたしはかあさんを笑っていたものだったけど、ある時本当に馬車が横滑りして横転し、そこを追い剥ぎに襲われた。あれは本当に怖くて、あたしはそれ以来本当に雨の山道が嫌いになった。
あの時は確か、座長と、仲良しの曲芸師とで、追い剥ぎの一団を半殺しにしてしまったんだった。二人ともまだ若くてむちゃくちゃな乱暴者で、見たこともないような逆上ぶりで食い荒らすように追い剥ぎをぶちのめしていた。
山道や事故と同じくらい、座長たちも恐ろしいと思った。
あの曲芸師も、かあさんより前に死んじまったんだっけ。
酒を飲み過ぎだったんだよね。
座長は、身体を悪くして舞台に出られなくなった団員はその街にあっさり置いていく方だった。連れて歩いても飯を食うだけだと言って。
でもその曲芸師だけは、馬車の荷台に寝床まで作って二つ三つの町を連れて移動したっけ。
あの人は特別だったんだ。座長が独立する時、元いた団から一緒に来た兄弟子だと言ってた。
死んだ時には声を上げて泣いていたから、あたしもみんなも随分びっくりしたものだ。
それから
でも、その少し後からだったか。
座長ニドは弱くなったと、あたしは感じるようになった。
身体も、気性も、少しずつ弱くなっていった。
団員もそれは感じ取っていて、にせ占い師だったあたしのかあさんも、あれは長くは持たないだろうと言い出した。もちろんあたしにだけ、こっそりと。そんなことを言ったと座長に知れたら、年寄りだろうとただじゃすまないもの。
あたしの死んだかあさんは一座で水晶玉の占い婆をやっていたが、別に占いができるわけじゃなかった。
そりゃあそうだ、かあさんは四十路まで占いとは縁もゆかりもない暮らしをしていたし、何か神がかったお告げを受けていきなり占い師になったわけでもなかった。
かあさんは、一座にあたしが入るとき一緒に座長が引き受けて、いるからには何かやってくれというのでちょうど欠員だった占い師の役を宛がわれただけだ。
一座の舞台で見せる占いのやり方はこうだ。
いつも客席の女子供を選んで、その住まいや家族や何かを言い当てるのだけど、それは団員があらかじめ何人も調べてあるのだ。調べのついてる者が客席にいれば、それを指して舞台に上げる。水晶玉に手をかざしておどろおどろしい声色を使い、知らされてある通りに言えば、一丁あがり。
いんちきだが、こういう占いや魔術にはたいていタネも仕掛けもあるものだ。悪いことなんかしてやしない。何も、おまえは今から誰々を殺さねばならぬと占って殺させるわけでもないんだから。
そのかあさんが、言ったことがある。
あたしのはいんちきだけど、中には本当に魔術を使えるのがいるんだ、と。
タネが分かんないだけじゃないの、とあたしは笑ったんだけど、かあさんは真面目な顔をして、いやいるよ、と言った。
――
――彼らは妖術を使うからね。
――それが人間に化けて、暮らしているのさ。見た目じゃわからない。
確かに、どこの町にもたいがい魔物の話はあるものだ。吸血鬼は黒い夜霧に身を変えて移動できるというし、魔女は魔法を使うという。
彼らが人間になりすましていたなら、あたしたちには分からないのかもしれない。
それでかあさんは言う、夢の中で。
――あたしは占いはできないけどね。
――ろくなことにはならないよ。それなのに、
――おまえという子は、なんということを。
* * *
目が覚めたのは、もう随分日も高くなってからだった。
死んだかあさんの声を聞いたような気がしたが、聞こえるのは鳥の声と馬の息遣いだけ。
見回しても、馬車の中にいるのはあたしだけ。
思わずため息が出た。ため息のたびに歳をとった気がしてしまう。
気がしてる、のではなく、実際にあたしはもう十分な
元々がそれほど美人じゃなかった。だから着飾って美しく見せることに取り憑かれていた。
それで。
どうする、一座は消えたのに。
ダージュの領に入る手前でまた大雨に遭い、馬車を停める場所も食料もないからと無理に進んだのがいけなかった。
崖道で先導の2台が脱輪し、馬もろとも谷底の川に墜ちたのだ。
先頭の1台に座長と芸人たち。2台目にいかにも逃げそうな娘たちと道具類を積んでいた。
最後尾の3台目にはあたしとタシャと、やはり道具類。
以前はこの3台目にも芸人がぎゅうぎゅう乗ったものだったし更に4台目を持っていたけど、団員が減りお金の余裕がなくなってからは馬車は3台。
そして、団員がどうも逃げそうなのが多くなってきているから、女は外から鍵のかかる2台目に、男は座長のいる1台目に。
そんなわけで、大概あたしはこの3台目を独占できるようになっていた。人がいない代わりに衣装と道具だらけだが、一人になれる機会はこの移動中だけだから、あたしはこの馬車の中が結構好きだった。山越えさえしなければ。
御者台からタシャが陰気な顔を覗かせて、あっ、と小さな声を出した。
「おかあさん、おはようございます。いま水を汲んできたところです」
「……何時」
「10時になるところです。もうダージュの町が見えてます」
「誰も追ってこないのかい」
少し間があって、タシャは、はい誰も、と答えた。
人拐いの罪でトルフィから追ってきた兵もいないし、墜ちた2台の馬車の奴らも追ってきていない、ということだ。
あたしは墜ちた馬車を助けには行かなかった。
責められるいわれはない。大雨の真夜中に、誰も通らない真っ暗な山道で、遠い谷底に墜ちたものをどうやって助けに行ける。こっちには、あたしと役立たずのタシャと、腰を抜かした、まだ子供みたいな軽業師の3人だけ。
雨の山道で泥だらけになって崖っぷちを覗き込んでいた軽業師が、みんな墜ちた、と言った瞬間にあたしは、このまま進むと決めた。だって、できることは何もないんだから。
軽業師はあたしの馬車の御者だったから、そのまま道を進めと言った。反論は何もなかった。
「ハクスはどうしてる」
軽業師の名を出すと、馬に水を飲ませているところだとタシャは言った。
「何か食べますか? パンとチーズだったら少しあります」
「そうだね、それと水もちょうだい。その前に、水をよく絞った布を持ってきて」
はい、と変に疲れたような耳障りな答えが聞こえたときには、もうタシャの姿はない。
外は明るい。少し風が流れ込んできた。
さあ、腹を
今となってはそれしか活路はないし、どうせいつかはこの日が来るような気がしていた。
本当はずっと、どうしようか考えてきた。あの夜からずっと。大きな町に立ち寄ることがあればそれとなくダージュの情報も集めてきた。当時の領主はまだ生きているが、あの姫は気が触れて随分前に死んでいる。
できる。
できるはずだ。
多少疑われたにせよ、事実の部分で領主はあたしを無下にはしないはず。
一座の殆んどを失いはしたけれど、タシャが生きていたのだから、あたしにもまだツキがあるに違いない。
座長も一座も失った今、あたしはダージュの領主に賭けるしかないのだ。
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