5 図書室の記憶
910年 9月9日 夕刻 トルフィの町外れ
結局この日、タシャは姿を現さなかった。
私が夕方まで外に出なかったのは、思い出しそうで思い出さない記憶を
長く生きてきた中で、私の記憶が乱れている時期はふたつだけ。多くの人間たちと同じく、生まれてすぐの頃のことは記憶がない。そして、
生気を吸う人間について私が何か見聞きしたとすれば、後者の時期である可能性が高い。
当時、私は嘆きの森の館に暮らしていた。吸血をやめて病み衰えていくクロイの看病があったので、殆ど離れることはなかったと思う。館ではクロイの話を聞いたり図書室の本を読んだりすることが多かった。
多分、その中に何かある。
一旦嘆きの森に戻って調べようかとも思ったが、このトルフィからだと馬を使っても片道5日はかかる。世間では吸血鬼は
往復で最低10日をかけることは現実的ではなかった。タシャは旅芸人一座の娘だ。いつ小屋を畳んで移動するか分からない。既に、あの一座がトルフィに小屋を掛けて1週間は経過している。
ならば記憶を揺さぶり起こすしかない。
* * *
私の親、
我々はどこから来たのか。
我々は何者なのか。
我々はどこに行くのか。
そんなことをしょっちゅう言いながら、旅をしては歴史を調べ、そこに住む人々の話を聞き、本や記録を集めては図書室に持ち帰った。
吸血鬼はどこから来たのか、
吸血鬼とは何なのか、
吸血鬼はどうなっていくのか。
それが知りたいと言っていた。
そもそも、吸血鬼はあまり頻繁に生まれるものではない。我々は稀にしか人間を吸血鬼に変えられない。
私自身も自然発生ではなく、
私の出自は分かる。人間の父母を持ち、人間として生まれ育ち、吸血鬼に招かれた。遠い昔のことで、既に名前を含めた記憶も薄れつつあるが。
クロイが知りたがっていたのは、私のように人間から吸血鬼になる方法ではなく、元人間ではない吸血鬼そのものの出自だった。
吸血鬼は世界のはじめからいたのではない、という。
かと言って、世間でよく言われるように、死者が起き上がって吸血鬼になるのでもない。
必ず最初の吸血鬼がおり、それがなぜどのように生まれたか知りたいということだった。
人間出身でない原初の吸血鬼は、今では殆ど残っていないと言われている。世界はあまりに広く、吸血鬼は隠れ住むのが上手いから、彼らを見つけ出して話を聞くというのはあまり現実的ではない。
だから、もう存在しないかもしれない彼らを探すよりも、クロイは、周辺情報から推論することに力を注いだ。
――魔族は元々ひとつの存在だったのではないか。
――
――だとすれば、それはいつ。
――古い記録から同族の記録を読み解けば、何か手掛かりが掴めるのではないか。
雲を掴むような話ではあった。
しかしとにかくそういうわけで、クロイは各地を巡り、吸血鬼をはじめとした魔族によるとされる様々な出来事の記録を集めた。
調査は難航を極めた。凶事はとかく、別の物語をかぶせて隠蔽されるものだ。更に、人の噂は日に日に尾ひれを生やして膨れ上がり、あるいは姿を変えてしまう。そして、似たような凶事、似たような性質の魔族も、遠く離れた土地では別の名前で呼ばれたりする。もちろん、全く違うものが同じ魔族の仕業とされる例もある。
人間はまるで歴史を歪める装置だ、とまでクロイは言ったことがある。そして我々吸血鬼は記録しないポンコツだと。たしかに魔族は記録をつけるということをあまりしない。ひとつには、長寿がばれる手掛かりを残したくないからだ。
クロイは各地の記録をまとめながら、吸血鬼としては珍しく、自身の生涯も書き溜めていた。
旅をして、旅をして、旅をして。
そして、その旅先で出会った人間に、生涯に一度の恋をした。
今、その恋のことは問題ではない。思い出すべきは、クロイが死んだ頃に私が何を見たかだ。
嘆きの館の訪問者ではない。クロイの晩年、あそこは来客がほぼなかった。
館の住人はクロイと私の他、ギィだけ。
するとやはり、図書室で何か読んだとしか考えられない。
本。クロイの書いた記録。
クロイとの永遠の別れは、人間時代の親が死んだのを知ったときよりも辛かった気がする。
私は、表面上静かに過ごしてはいたが、あのとき人生で一番取り乱した。吸血鬼になった時よりも混乱していたと思う。
昼も夜もよく分からなくなり、食事も取らずに図書室を出たり入ったりしていた。
あのとき何を読んだ?
クロイがまだまとめていなかった書き付けの束。
これまでの調べをまとめた何冊もの帳面。
どことも知れぬ町の古い張り紙。
印刷のかすれた本。
原初の吸血鬼。その言葉が何度も記憶をちらつく。原初の吸血鬼。だがそれは、魔族の生気を吸う人間、という意味ではなかったはずだ。
条件の組み合わせがおかしいか?
生気を吸うもの。
人間。
タシャは、
魔族ではないが、
私の生気を吸った。
原初の、
そして私は、思い出した。
* * *
既に夕刻だった。
明日またタシャが来るようなら今のうちに食料を買い足しておいたほうがいい。買い物を台所に片付けてから小屋の様子を見に行こう。
そう思ってこの日初めて町に出たところで、すぐに異変に気がついた。
雨に濡れた町のあちらこちらで、人々が囁き合っている。
――旅芸人の人
――今朝には小屋が消えていたって。
タシャのいる一座のことだとすぐ分かった。
何も買わずに小屋のかかっていた場所まで行くと、空っぽになった草原を
誰もいない。
タシャがいない。
言わんこっちゃねえ、だらだら泳がせておくからだろうが、とギィはぼやきながら立ち上がり、食卓に伸び上がってそこに載っていた林檎をくわえ、噛み潰した。
「
「おれは山越えするのにわざわざ人間の道は走らねえ。雨も降ってきてたし馬車とぶつかってもつまんねえから、道のないところを来た」
「やっぱりそうか。やれやれ、それじゃあ同じ雨の山をもう一度走ってもらおうかな」
「あいよ」
鍋のスープも食材の残りも、仕方がないが殆どをこのまま置いていくことにする。パンだけは切り分けてハムやバターを挟み、ジャムの小瓶やチーズと一緒に包む。革袋に水を詰める。林檎も幾つか鞄に放り込む。
「私はさっき馬車を手配してきたからそれに乗る。この天気だとそう速くは移動できない。先に行って、あの一座を見つけたら知らせに戻ってくれ」
「へいへい。いいけどよ、相当長ぇぞ、あの道は。山を越えて隣の領地の城まで丸一日かかる。辿り着いても、小屋も掛けらんねぇような小さな村だ。そこは通り過ぎて次の興行地を探すとすれば、」
そうだ。道なりに行くならば、片道2日で次に辿り着くのはあのダージュだ。
アルケが生き、そして死んだダージュ。
これも
あとで説明しろよ、と言ってギィは雨のただ中に駆けて行った。何も言わなくても、説明すべきことがあると気付いている。それは正しい。
どうしてもタシャを追わなければならない理由を、勿論ギィには全て話すつもりでいる。
タシャは人間で、人間以上の力を持っており、そのうえ、ただ何となく気になっただけの存在ではないのだということを。
問題は、時間だ。
タシャが飢え死にする前につかまえて、助けなければならない。
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