4 病
910年 9月9日 朝 トルフィのとある一軒家
世間では昔から、
嘘である。
昔、土に属性を持つ魔族がいて、そいつがある城下町の娘を死なせた。色々あって、そいつが血を吸う魔族、すなわち吸血鬼ということになった。それで、吸血鬼はそういうものだと言われるようになってしまった。
どうでもいいことだ。
私は今朝もベッドで目覚めたし、目が覚めた途端に考えたのは獲物のことではなく、たったひとさじのスープを飲ませただけで大粒の涙をこぼした、みすぼらしい少女のこと。
お腹を空かせた弱い子供だから気になる?
そうではない。そんなことならギィだって同じだった。毛皮があるくせに中の骨まで見て取れるようながりがりの、薄汚れた、林檎ふたつ分ほどの大きさもない、死に掛けの
では、誰にも保護されていない、孤独な、かわいそうな子供だから?
そうではない。それだって、ギィと同じだ。親に捨てられ、噛み殺されかけすらした。
口元が勝手に笑ってしまう。なぜいちいちギィと比べてしまうのだろう。
ギィとはもう長い付き合いになる。ああした道連れを得るとは思っていなかった。吸血鬼に限らず、他の魔族を使い魔として持つ者は珍しくないが、私は生涯使い魔を持たなかったクロイに育てられ、自分も使い魔を欲しいとは思わず生きていた。ギィと使い魔の契約をしたのは、本当に予想外の出来事だった。
すぐに死ぬ人間と違い、同じような時間を生きる同族には隠しだてすることも少なくて済み、お互いに気が楽だ。特に、クロイが死んでからはなお、ギィがいて良かったと思うことが多い。
こんな身の上では、長く付き合える相手そのものが稀少だ。人間と長く過ごせばいずれ、歳を取らないことがばれる。人間は魔族を退治すべきものとしか思っていない。
中には一時的に友情を示す人間もいるのだろうが、まず間違いなくその人間の不幸を招く。周囲の人間が怪しむことによって、魔族を忌み憎む人間たちの中で心を隠して生きる疲労によって、そしていつしか自分も魔族を疑い恐れることによって。そして必ず別離が来る。友情を保てなくなったとき、または、どうしようもなく寿命がお互いを
人間の友を持つなら老人にせよという戒めが長寿の魔族たちにはある。老人ならば、もしも魔族を友に持つ重圧に耐え切れず人に漏らすにせよ年寄りの
その点ギィは、人間ではなく魔族の
それではタシャは?
人間だ。相当風変わりな人間。そろそろ死にそうな人間。人並みの保護を受けられずにいる人間だ。
しかし、かわいそうだから保護したい、という感情は、これまでどんなにかわいそうな状況の人間を見ても起こらなかったし、現に今も起こっていない。
私は、同情からタシャに食事を与えたいわけではない。
スープを
けれども彼女が、あの子が、スープをひとくち飲んで泣き出したとき、自分はこう思ったのではなかったか。
――ああ、やっぱりこの子だった。
やっぱり。
結局、初めてあの舞台裏のテントにその姿を見掛けたときから、決まっていたし、分かっていたのだ。
彼女が帰って行ってからギィにそれを話した。薄暗がりの猫みたいに丸い目をして黙ったあとギィは、狼のくせに人の悪い笑い方をして、改めて言うことないだろと言った。
――改めて言うことないだろ、どうせそうだろうと思ったよ。
――だって、いつもと全然違ったからさ。
これがほしい、と思うことが、対象への情なのか、血を吸いたい自分の欲なのか、分からないし、区別する必要もない生き物だからだ。……と、言われる。
嘘である。
人間たちが
私の親、嘆きの森のクロイと呼ばれた吸血鬼もそうだった。私は今、育ての親がもう死んだのをいいことに、その名前を偽名に使い回している。
クロイは、はじめはどこかの王族だったという話だ。大抵の吸血鬼と同じく、元は人間だったのだ。
幾つかの条件が揃えば、吸血鬼は人間を仲間に加えることができる。クロイも遥か昔、その親となる吸血鬼に仲間に加えられた。
その親は、私がクロイと共に暮らすようになった当時もういなかった。なぜ姿を消したのかについてクロイは語らなかったが、人間に殺されたわけではないらしい。それ以上のことは今もはっきりしない。
私が確実に知っているのは、クロイがあるとき一人の人間に心を奪われ、その人間のために命の
彼はそれを、愛だと思う、と言った。
そのために吸血欲をへし折り、老い衰え
私には愛というものが分からなかったし、クロイも、言葉で教えられるものではないと言った。
ただ、その人が現れれば分かるのだ、ということだけは繰り返し言っていた。
――絶対に分かる。ヴィルカ、よく覚えておけ。
――疑う余地がないくらい明らかに分かるんだ。
――ああ、これが自分の出会うべき相手だったのだと。
嘆きの森の古い館で、クロイと過ごした最後の時期のことを時々思い出す。
私を見出し、ヴィルカと名付け、育てた老吸血鬼。朝が早くて、料理が好きで、指が長くて、古い魔族の話が好きで、そして愛した人間を一度も見せてくれなかった吸血鬼。
クロイが生きていたなら、私はこれをどんな風に報告しただろうか。
彼はそれを聞いて何と答えただろうか。
今日彼女が来たら何を食べさせるかはもう決まっている。昨夜のうちにまた種類の違うスープを作り、鶏肉を買ってきた。あの痩せぎすの娘には肉を食べさせないと始まらない。
まじないで補ったものか、普通の人間とはどうも違う飢え方をしていることも、初めて言葉を交わした川辺で私の生気を吸い取ったことも、気になってはいる。しかし、今後どうなるにせよ命あっての話だ。おかしな飢え方と暴力的な環境でまるで呪われでもしたかのように自分は逃げられないと思い込んでいるのも、心身を
とにかく、見つけたのだ、ということは確かだ。私は、生きてきて初めて、執着する対象を見つけた。
それがあのタシャだ。
そうである、ということだけをこの数日間、確認していたようなものだ。
なぜタシャなのか知りたかったからだ。なぜあの子が、美しいわけでもなく何かに秀でているところを見せるでもないぼろぼろの少女が、私の生涯には二度と再び現れないであろう執着の対象なのか、理由を知りたかった。知りたいから彼女のこれまでの人生について色々聞いた。
結果として、聞き取ったタシャの生活は劣悪の一言に尽きた。彼女の人生は控えめに表現しても奴隷だ。この国では一部の罪人しか奴隷にできないはずなのに。
でもだから助けたいというような隣人愛や正義感で彼女が欲しいわけではない。
そうだ。分かったのはそれだけだ。獲物ではないのに彼女が欲しい。側に置きたいし、他の人間が彼女を痛めつけることに我慢がならない。
彼女が私の特別な存在であることに、理由などないのだ。
発って5日目になるが、ギィはまだ帰ってこない。
はっきり言って、タシャとアルケの関係があろうがなかろうが、大元ではどうでもいいことではある。アルケと全くの無関係だったとしても、私にとってのタシャの価値は変わらないだろう。
それでも一応の調べは必要だ。アルケはごく最近出会った娘で、歳から言えばまだ生きていてもおかしくない。時間的にそういう近さで、アルケにあれほどそっくりな娘を連れて歩くとなれば、怪しまれないようアルケにゆかりの土地を避けて旅するなりの注意が必要になる。
タシャの意向をまだ何も聞いてはいないのに、彼女が私と生きることを受け入れるのではないかと希望をもって先のことを考えている。彼女を連れてこの町を出ることを考えてしまっている。
まるで馬鹿だ。自分がそんなものの考え方をするとは思わなかった。
あの子が、私の思考を狂わせてしまう。
私はもうどうかしているのだ。
自分の朝食がわりに林檎を
出会ってから初めての雨だ。あの子はどうせ雨避けの外套など持っていないだろう。靴も、布の破れたのを紐で縛ったあの靴のままではぬかるむ道を歩きにくいはず。
今日は来られるのだろうか。
足を滑らせて川に落ちでもしたら。
立ち上がって窓の側まで寄ってみた。いつも彼女が来る方角を雨の向こうに透かし見る。古い窓硝子のおもてを流れ落ちる
来ないようなら、夕方の舞台の時間に様子を見に行こうか。
いや、やはり心配だから近くまで見に行こうか。この家に傘はあったっけ。
そう考えていると、雨の中を川沿いに走ってくる影が目に入った。
灰色の狼。ギィだ。
家の扉を開けると、狼は軒下まで駆け込んでひとしきり身体を震わせ、雨水を切ってから部屋に入ってきた。
「お帰り、ギィ。雨になってしまったな」
「ああ、こりゃ長くなるよ。山の方は夜明け前から嵐だった」
狼の姿のままギィは、私が床に広げた布の上に横たわり、その毛皮を濡らす雨露を吸わせるように背や顔を押し付けながら転がった。そうしながら、暗灰色の目はこちらを見ている。
「ダージュを見てきた。アルケって姫はとっくに死んでたぞ」
「病気か? また老いて死ぬような歳ではないはずだ」
「気が触れて自殺だとさ。城にくっついて湖があるだろ。あの湖に入って溺死したそうだ」
気が触れて。
それは――私がいた頃から、妖精の子のように言葉が通じない、あの姫は狂っているのではないか、と言われていたが、その延長線上のことなのだろうか。
ギィは転がるのをやめて横たわり、顔をこちらに向けている。
「話はこうだ。アルケは、未婚で流産し、気が狂ったので城に隠されていて、それから持参金目当ての遠方の領地に嫁に行って、ええとそこの領地の三男だと言ってた。それで子供を産んだら結婚した相手の子じゃなかったんで、叩き返されてきて、また城に隠されていたんだが、抜け出して一目散に入水した。
と、いうことだな、まとめると」
「流産」
「城の中まで忍び込んで色々聞いたんだが、相手は分からんらしい」
「子供を産んだら結婚相手の子じゃなかった、とは」
「ダージュ領主の一家はみんな黒髪に黒い目だな? アルケもそうなんだろ?」
「ああ」
「嫁ぎ先の一家もそうなんだとさ。代々黒髪に黒い目。ところが生まれた子が栗毛で青い目」
「じゃあそれはタシャではないな。その栗毛の子供はどうなった」
「大体の私生児と同じさ。焼き印を押されて尼さんたちの離れ館に送られた。それがまた遠い。船で3日かかるクソ田舎だ。ずいぶん念を入れて遠ざけたもんだよ」
「……その子供の歳は?」
そこで初めてギィは声を僅かに低くした。何かを疑っているような時のギィの癖だ。
「子供が生まれてすぐにアルケは送り返されてきたらしい。それが893年頃というから、17年前だ。歳はタシャと合いそうなんだよな……」
一応確かめてきたけど、双子とか三つ子って話ではなかったみたいだぞ、とギィは付け加えた。
タシャとアルケに血縁関係がないのなら、何故あんなに似ているのだろう。
ギィの調べが間違っていてタシャが本当はアルケの娘なのであれば、尼僧の離れ館に送られたという赤ん坊は何なのか。
すっきりしない。
タシャに会いたい。
会ってもあの子が何かを知っているとは思えないが、とにかく会いたい。
そう言うと狼の姿のままのギィが、いよいよ
そうだ、病だ。これは――どうやら、なかなか手のつけようのない病のようなのだ。
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