3 ダージュの記憶

910年 9月4日 午後 トルフィのとある一軒家




 名前はタシャ。旅芸人一座の雑用係。

 彼女が生まれる少し前まで一座にいた蛇使いの蛇の名がタシャといい、母親である一座の歌姫エラがその名を取って娘に与えた。

 恐らく17歳か18歳。

 人間。


 椅子に掛けたまま、昼前に帰って行ったタシャが話した身の上を思い返している。


 どの興行地で生まれたかは教えられていない。父親は一座の芸人だったが逃げて行方知れず。祖母がいたが故人。

 まじないの言葉は祖母が言っていたのを覚えた。

 他に特別な能力は何もない。

 一座では食事が与えられない。


 人間だ。

 食卓で向かい合い、彼女が食べ、泣き、話し、また眠るのを観察した。

 やはり人間だと思う。

 魔族には魔族のにおいや温度のようなものがある。彼女にはそれがない。

 では私の生気を吸ったのは?

 そこだけが分からなかった。しかし何か、ひっかかる。色々考えているうち、ああした人間のことを知っているような気がしてきた。

 珍しいことだ。私は用が済んだ獲物について以外、物忘れはまずしないと思っていたのに。何だっただろう。どこかで読んだだけなのかもしれない。同じ経験はしたことがなく、それは確実だからだ。

 とにかくやはり、魔族ではなく人間だと思う。私を呪った形跡もない。ギィも魔族の匂いは嗅ぎ取れず、あれはやはり身体の弱った人間だろうと言う。相当不審がってはいたけれど。

 そしてやはり、彼女はアルケに似ている。



 今朝から数えて12個目の林檎をかじりながら、ギィが地図を見ている。ごつごつと大きくて傷痕だらけのその手から伸びる指が、案外繊細な動きでダージュのあたりをなぞった。


「ダージュの姫様ねえ。いつよ? おれは覚えてねえぞ」


「お前とは離れていた時期だよ。ちょっと調べものがあって、ダージュの城に住み込みで家庭教師をしていた。アルケはその時見つけた獲物だった」


 獲物、と聞いてギィは変な顔をした。


「喰ったのか? なら何で思い出せる」


 吸血鬼ヘカート・ルクルは、血を吸った獲物のことをおおかた忘れ去る。獲物のほうでも吸血鬼に関する記憶を失うことが殆どだ。だからギィが疑問に思うのは不自然なことではない。


「喰う前に獲物じゃなくなったからだ」


 そう、あのアルケは。

 ある日突如として、獲物の条件を失っていた。

 私はそれでアルケに対する興味がなくなり、必要な調べものも終えていたこともあり速やかに城を辞した。

 獲物がそうでなくなる理由は大体決まっている。処女でなくなったか、他の吸血鬼に喰われたかだ。ごく稀に、何でもないのにただ獲物と感じられなくなることもあるというが、アルケの場合は。


「……当時、エナという城の住み込み女中が急に辞めて出ていった。私も何度か顔を合わせることがあったが、野心のある女でね。領主を誘惑していた。それがまずいこじれ方をして、追い出されたわけだ。ああした家ではよくあることだが」


 エナはふたりの子とともに住み込みで働いていたから、子供たちも一緒に城を出ていった。だがその子供たちのうち兄の方は、実際には母と妹を置いて一足先に姿を消していたのだ。

 ちょうど城下で吸血鬼騒ぎが起きた直後のことだったから、あの兄の方が吸血鬼だったのではないかと使用人たちは噂していた。

 兄の名はエザイといい、当時17。


「エザイははじめ別の町の店に奉公に行ったが、性分が悪くて突き返された札付きでね。母親の懇願がれられて城で庭師の仕事を習っていたが、飲み込みはあまり良くなかったようだ。身体ばかりは大きく丈夫で力仕事はできたが、いつも自信なさげに俯いて、そのくせ目玉には不満や粗暴さがくすぶっている、そんな奴だったよ」


「詳しいな。仲良かったのか?」


「冗談じゃない。できれば付き合いたくない部類の輩だ。よく知ってるのは、城下の吸血鬼ヘカート騒ぎについて私も幾らか調べたからだ。結局、吸血鬼なんか出ていなかったのさ。エザイが町の娘と男女の仲になりはらませた。父親はそれが許せず娘を殺し、その亡骸なきがらに杭まで打って、吸血鬼のせいにした」


 そうすれば、娘のふしだらが悪いのではなく、娘を襲った吸血鬼が悪いことになる。一度狙いをつけてきた吸血鬼から逃れられる娘など古今東西探してもそういるものではない。

 ならば仕方がなかったのだ、ということになる。目も当てられないような不運だけれども、何しろあの恐ろしい吸血鬼に狙われてしまったのでは誰にもどうにもできなかっただろう、と。

 娘は哀れな犠牲者となり、その父も、未婚で孕む不始末な娘を育てた駄目な父親ではなく、不幸にも魔物に愛娘を殺された悲劇の父親になることができる。

 父親は、娘を孕ませた男を探そうともせず、とにかく未婚の妊娠そのものの隠蔽を図ったのだ。

 よくある話だ。


「魔族は、凶事の原因にするには便利な言い訳。お前だって知ってるだろう」


 ギィは、ふん、と鼻を鳴らして林檎を齧り続けている。


「まあそれで、そのエザイがアルケを強姦したんだよ。母親が追い出される仕返しにね。ただ、エザイ自身にそんな上等な頭はないんだ。本当に愚鈍な男でね。妹が言い出したことだと言ってたな」


「言ってた?」


「ああ。当時すぐ私が捕まえて、そのまま石にした時に聞いた。ともかくそれでアルケは私の獲物ではなくなったというわけだ」


「その、アルケっちゅうお姫様はそれからどうしたよ。とんだ不運じゃねえか」


「私は間もなく城を出たから、その後のことは知らない。それをギィ、お前に頼みたい。ダージュまでは、お前の足なら2日もかからないで行ける。アルケのその後を調べて来てくれ」


 ついに林檎の芯まで噛み砕きながら、ギィは灰色の髪をわしわしと掻いた。


「そりゃまあ、いいけどよ。タシャがその、アルケとエザイとやらの子だってのか?」


「いや、それにしては年齢が合わない。それに領主の姫の産んだ子なら、いくら私生児でも旅芸人に加わっているのは不思議だしね。私生児はたいがい夢魔エンクトイの産ませた子とされて、神職に預けられるか殺される」


 あのときアルケが孕んでいたかどうかすらも、私は知らない。獲物でなくなったことが分かった瞬間に一切の興味を失ったからだ。

 ただ、獲物を消してしまったエザイについては決して許せなかった。殺さないまま石に変え、人の何十倍何百倍の長い時間を苦しみ続けるよう呪いを掛けずにはいられなかった。ただしそのあとはすっかり忘れていたが。

 その後、アルケはどうしたのか。エザイの子を身籠り産んだか、或いはその時は妊娠せず、後に別の種で孕み産んだのがあのタシャなのか。


 ギィがおかしな顔をしていた気持ちも分かる。本来、私はそのようなことを気にかけるたちの生き物ではない。

 自分の主である姫が使用人に犯されたのを知ると、ただ獲物が獲物でなくなったと思いそれきり興味を失い、獲物を獲物でなくした使用人の方を半死に追いやって、そのままどちらのことも何とも思ってこなかった。

 吸血鬼ヘカート・ルクルとはそういう存在である。獲物と感じた人間のことについては、獲物であるかどうかそのものにしか興味がないといってもいい。獲物でない人間については、親しくなろうとか知りたいという欲求が殆どない。人に混じって擬態する必要があるからそれなりの演技をするだけだ。ギィに言わせれば情が薄いところがあるのだというが、そういう本性の魔族なのだからどうしようもない。

 それなのに、獲物ではないタシャを気にかけ、タシャがアルケにあまりに似ているのでアルケについて調べろという。ギィでなくとも驚く話だ。実際、私自身が一番驚いている。


 タシャの何がこんなに見過ごせないのか。

 生気を吸い取られたことが原因ではない。その前からもう、打ち消しが不可能なほど気になっていたのだから。


 月や星に助力を願うまじないを口にする様子が、アルケと同じだから?

 いや、まじない自体は広く知られているものだ。すたれかけているとは言え、昔は弱い女子供がよくそうして星月、山川、季節などの精霊に願いごとを唱えた。アルケもそうだった。

 人間であっても、まじないが効力を持つことはある。特に子供は。

 だから、タシャがまじないを唱え、僅かながらも月や星の力を借りていること自体は、驚くには当たらない。


 もっと別のことが気になっている。


 アルケに瓜二つのあの顔?

 そっくりな波打つ黒髪か?

 それとも、天地の精霊に願うあの声。

 そしてぼろぼろに崩れそうなあの指が?

 この腕の中で、今にも消え入りそうなかすれ声で、お腹が空いたと訴えた哀れさか?


 本当は分かっている。

 ただ彼女は、現れたのだ。私の世界に現れた。

 現れることはずっと昔から分かっていた。多分、彼女が生まれるずっと前から。

 私にとって、


 それを、どうしても確かめたい。

 そのために守らなければならない。

 聞き出した話では、あの一座でタシャは生きていけるだけの扱いを受けていない。

 元々まじないの使える人間であっても、今のタシャにはもうその余力がないようだった。あのままでは近いうちに餓死するだろう。

 それだけ事態は差し迫っている。


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