2 人間か魔族

910年 9月4日 朝 トルフィ 川のほとり




 あの娘のことが気になっている。今日も夕方になったら旅芸人のテントを見に行こう。

 朝、そう思いながら散歩をしていると、当の娘を拾うことになった。


 私とギィが滞在している家は川の側の一軒家で、最近まで老婦人が一人で住んでいたが病のために息子夫婦の家に行っている。恐らく戻っては来ないだろう。私たちは、その老婦人から家を借りたことになっている。会ったことはないが、必要な何人かにまじないを掛けるだけで、こうしたことは案外簡単にできる。

 私は元来、川とか木立とかいうものが好きで、旅先でもこうした場所を散歩する習慣があった。

 それで、遅い朝に川縁かわべりをぼんやり歩いていたところ、彼女が落ちていた。


 倒れていた、と言った方が正確だろう。それも、誰かにやられて倒れている。殴り倒されて川に落ちたのがようよう這い上がってきたかのような状況だ。

 濡れた髪の間から覗く額には新しく生々しい傷がある。顔色は青ざめ、頬にも指先にも血の気がない。丈の足りない服からはみ出した手首や脚には打たれたような痕が幾つも。

 何より、もうすぐ死ぬ人間に独特の顔をしていた。

 抱き起こすと、息はしている。子供のように身体が軽いのが気になった。


 それに、触れたところから感覚。


 思わず、ぞっとした。

 尋常ならざる事態だ。普通、人間は吸血鬼ヘカートの生気を吸ったりはしない。

 この娘は、何だ?

 薄く、混乱が始まっていた。

 ちょっと待てよ。私は昨日、同族を見付けたとは全く感じていなかった。ただ惹き付けられた。

 この娘は人間だ。そのはずだ。

 それなのに、抱いて身体のくっついたところから、少しずつではあるが途切れずに吸い取られていく。

 魔族なら、大体はどんな種族か近寄れば分かるはずだった。それなのにこの子は何なのか分からない。

 人間ではないのか?

 本人に訊くしかないのか。

 腕の中の娘がわずかに身動きした。


「大丈夫か。誰にやられた」


 声を掛けると、意外なほどすぐにぱかっとまぶたが動いて、最初に見えたのは夜色の瞳。月と星とを冠にした深い森の気配。この色には見覚えがある。ダージュのアルケがちょうどこんな色の眼をすることがあった。

 そして、人間にこんな色の瞳はいない。

 はっとした瞬間、瞳は深い井戸を覗いたような真っ黒になっていた。

 見間違いか?

 娘が眉をしかめた。どこか痛むのだ。気の吸い込み方も乱れるが、いっそう強く飲み込もうとする気配がある。気配があるだけで、実際にはできないようだが。

 額の傷が新しい血を滲ませている。濡れた前髪をどかすと、傷は一つではなかった。何かかたいものにぶつかったような。


「傷口を川の水で洗ったのか……」


 前髪も袖口も、足元も濡れている。川に来て誰かに襲われたのではなく、怪我をしたあと川で水を使ってから倒れたのだろう。

 娘は目を閉じた。もう耐えられないというように。

 目を閉じるとやはり、もうじき死ぬ人間の顔をしていた。

 だから生気を吸い取ろうとしているのか。それにしては弱い。もっと一気せいに奪うようなり方でなければ、とても満たされまい。

 変だ。


「おい、しっかりしなさい。一体どうした」


 声を掛けるが、頭の中では違和感が跳ね回っている。

 この娘は恐らく人間として暮らしている。魔族の疑いを受けた子供は森に棄てられるか殺されるか、或いは私生児たちのように聖職者の離れ館に送られるはずだ。力のない弱い人間だからこそこんな目にも遭っているのだろう。

 だが一方で、魔族の生気を吸う。現に今。ただそのやり方はあまりにも弱い。到底、これだけで生きて行けるほどには満たされていない。そしてこんなに弱っている。

 魔族なのか人間なのか、分からない。


 アルケはどうだった?

 かすみかける記憶を辿る。アルケは、家族全員が間違いなく人間だったし私も魔族と感じたことはなかったが、日頃からまじないは唱えていたし、いつも森と湖にいた。あの土地と空の気を浴びて何かを得てはいただろう。

 だが、人間や魔族から喰っていたか?

 

 分からない。そんな記憶はない。


 その時、娘がまた僅かに眉をしかめて、唇を震わせた。何か言っている。


 ――おまじないが。

 ――おまじないがもう、できなくて。


 こちらの生気を弱くも吸い取り続けていたのが、さざ波のように揺れて途切れ、消えていく。

 まずい、と思った時にはぷつんと繋がりが切れ、娘は何も吸い込まなくなっていた。

 ただ一言、おなかすいた、と酷く小さな声でささやいて、娘はそれきり気を失った。


 人間か。

 それとも、私の知らない種類の魔族なのか?


 何も分からない。飢えているということしか。




 娘を連れ帰って寝かせると、ギィに事情を説明した。そんな人間いないし、魔族がばれずに人間やってるのも変だろ、というのがギィの意見で、私もそれに同意だった。おかしい。

 何にせよ、傷の手当てをしてから食卓の用意をしよう、と考えた。とにかく何らかの方法でなければこの娘は長くない。

 人間の食事を摂らないということは考えにくい。それだとさすがに周りに気付かれて魔族扱いを受け排斥される。恐らく食事は人間と同じものを食べることができるはずだ、私たちと同じように。


「あんたの生気を吸った、ってねえ……まじないまでならやる人間結構いるけど、魔族の生気を吸う人間の話はちょっと聞かねえなあ」


 ギィは娘の顔を覗き込みながら言う。


「魔族が魔族の生気を吸うのだって、許可なくやるのは大体もう殺し合いの段階か、そうでなきゃ主従関係ありだろ。そもそも出来ない種類の魔族だっているしな」


 そうなのだ。例えばギィ自身がそうだ。野生動物を狩って喰い、やる気になれば人間を狩って喰うこともできるだろうが、それは肉を喰うというだけの話であって、相手が人間にせよ魔族にせよ、生気を摂ることはできない。それ以外の森や岩から気をもらって喰うことはあっても、魔族や人間からは摂れないのだ。

 例外的に人間から生気を吸い取れる魔族の多くが、人間からは一様に吸血鬼ヘカートと呼ばれている。本当は、血を媒介にする吸血鬼ヘカート・ルクル以外にも人間の生気を摂る種族はいるのだが、人間たちはとかく目立った事例で大きな群に名前をつけてしまう。

 我々のほうからその誤解を解きに行くことはない。間違って覚えられていることで行動が楽になることも多いからだ。例えば、昼日中を平気で歩き回り、鏡に姿が映り、人間と同じ食事をしているだけで、吸血鬼ではないと勘違いしてもらえる。


 それで、この娘は?

 こうして近くにいても、人間か魔族か分からなくなってしまった。頭で考えれば、人間でなければおかしいのだが。


「とりあえず、目が覚めたら欲しがるだけ食べさせようと思う。ギィ、この子が目を覚ましたら教えてくれ」


「あんたは?」


「スープを温める。いいか、もし彼女が目覚めて、おまえの生気を吸い過ぎるようなら、彼女を殺す以外のどんな手を使ってでも逃げろ。私はおまえを失いたくない」


「……そんなものをあんた、よく抱いて帰って来たもんだな」


 言われてみればそうだ。でもそうしなければならないと思った。

 この子に何か与えなければならないと思った。死にかけているのだから。

 もしかして呪われたのだろうか、と思わないでもない。本当は彼女は私などよりもっとずっと上位の魔族で、弱く傷ついた人間的の姿を見せながら獲物を待っていた、そして私は一目彼女を見た途端にその呪いに掛かった。有り得ないことではない。

 私は彼女を人間だと思い込み、ただ彼女に心を囚われ、ギィが言ったようにもう主従の鎖に繋がれ始めているのではないだろうか。

 私が餌で、彼女が捕食者で。

 ことによると私はもう、魔女のてのひらの上で、気が狂っているのではないだろうか?


 鍋のスープがぐつぐつと煮立ち始めている。

 しばらくするとギィが、人間が魔族かも分からない彼女の目覚めを知らせる声を上げた。


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