ヴィルカ
1 吸血鬼と人狼
――おつきさま、おほしさま、あたしとうたってくださいな。
湖のほとり、森に囲まれたあの城で。
いつも裸足を風に晒し、天の星月と湖面の星月を一人占めにして。
ずっと忘れていた。
あの声を。
あの星の眼差しを。
あれは、いつのことだっただろう。
誰の声だっただろう?
* * *
910年 9月3日 夜 トルフィの町外れ
舞台ではまだ最後の演目が続いていたが、席を立ってテントを出た。数々のランプや人いきれで暖められた空気の中から出ていくと、外の空気は涼しく新鮮に感じられる。
日が落ちて、町外れの草原はすっかり宵闇が濃くなり始めている。
テントの外には、見物料を払わずに中を覗こうとする人々がいくらか。酔っ払いもいる。その人々の間をすり抜けながら短く振り返ると、舞台のある大テントの斜め後ろに、楽屋裏として使われているらしい別の小テントがいくつか見えた。
夕暮れ時、その入り口のそばで
片方破けた粗末な布靴と、洗いすぎたような古い、丈の合わない服。傷のある前腕、痩せて
「よう、遅かったな」
町へ続く道すがら、どこからか現れた男が自然に隣を歩き始めた。
「いい獲物でもいたのか?」
「獲物というのかな、あれは……」
答えようとしても、言葉にならない。
獲物ならば一目見てすぐこの娘だと分かる。名前も要らない、顔すら見る必要はない。ただそれだと分かる。そうしたら、適当な機会をとらえて喰えばよい。
だが、あの娘はどうも、違う。
「……あれは多分、獲物ではないなあ」
「へえ。珍しいじゃねえか、喰いたいんでもないのにあんたの目に留まるなんて」
「そうなんだ。喰いたいと思わない。全然違うな。それより、何かを忘れているような気がする」
はあ?と隣の男は間抜けな声を出す。
言いたいことは分かる。私は普段、滅多なことでは物忘れをしない。そのように振る舞うことはあるが、実際には忘れない。忘れるとしたら、獲物たちのことくらいだ。喰えばそれきり余程のことがなければ忘れるし、獲物が獲物でなくなった時にも忘れることがある。
しかし、あの娘について、私は何を忘れているのか?
忘れているような気がしているだけなのか?
そうだとしても、これまでにはないことだった。
「なあ、ヴィルカ、やっぱりあんた具合でも悪いんじゃねえか」
「そうじゃない。……ギィ、今はその名を呼ぶな。ここでは旅の学者のクロイだ」
本名を知られると魂を押さえられるという言い伝えはあるが、私が名を偽るのはそういった理由からではない。別に、知られたところで力を封じられたりする心配はない。ただ、行く先々で名前をばらばらにしておいた方が、都合がいい。それで幾つか偽名を持っている。
62年前にもこの町に来た。時間的距離がこのくらいのうちはまだ、覚えている人間がいないとも限らない。
私は年を取らない。
「獲物はいないのかよ。なんか喰ったら元気出るだろ」
ギィはまだ私の体調が悪いのだと思っているらしい。そういう本人は、恐らくこの夕方の間、森の中で十分に狩りを楽しんできたようだ。肉を喰い血を
この町に獲物は見当たらないし体調も悪くはないよ、と答えながら、私は宿への道を歩き続けた。
道すがら、若い娘が家の裏木戸を通るのに、庭にいた母親が声をかけていた。
「明るいうちにお帰りって言っただろ! 隣の城下で
娘は何か口答えをしている。さっきまで同じ旅芸人の舞台を観ていた娘だ。確か、城下の商人の息子といちゃついていた。
風に乗って、娘の声がふと聞こえる。
「あたしは窓を叩かれてもどうぞお入りなんて言わないし、部屋には鏡だってあるんだから大丈夫よ、お母さん!」
ギィがちらと視線を寄越した。笑っている。
私も微笑む。
別に、これでいいのだ。誤解が広まったままの方が都合がいいのだから。
住人の許可がなければ家に入れない? ――否。
故郷の土を入れた
神の道具や言葉、歌に弱い? ――否。
日の光に当たれば灰になる? ――否。
流れる水を渡れない? ――否。
鏡に姿が映らない? ――否。
全て、実際を知らぬ人間どもの勝手な言い伝えだ。
我々はそのように不確かな存在ではない。
人がこの町、この城を築く遥か以前からこの世に暮らす、人ならぬもの。
私、ヴィルカは、
……と言われているが、実際のところは人間と同じ食事もできる。処女の生き血はたまに吸えればそれでいい。吸血鬼としてはあまり食欲のない方だと親にも言われたものだ。まあその親にしてからが、吸血を断って餓死した変わり者ではあった。
さて、隣の城下町で咬み殺された娘とやらは、私の獲物ではない。それに、我々吸血鬼が血を吸った処女は、それだけで死ぬことはまずないのだ。
世間には知られていないことだが、我々は何故か、獲物が死んでしまうほどの量の血を吸うことができない。これはどの吸血鬼も例外なくそうだと言われている。
獲物がもし死んだのならば、血を吸う以外のやり方で殺していることになる。そういった振る舞いは
よほど手癖の悪い吸血鬼か、吸血鬼に見せかけた別の種族の悪さか。
あるいは、吸血鬼の仕業に見せかけた人間の殺し、ということも珍しくはない。人間はさかんに魔族を怖い怖いと言うが、その実、殺し合い傷付け合うのは人間同士の方が多い。血を分けた親子や兄弟でさえいがみ合い殺し合う。
吸血鬼には、時にその
ふとまた、針に糸を通そうとする痩せた指先を思い出した。
あの娘にも狂気は纏わりついていた。
ひとつは誰か近い者、もうひとつは誰か、はるかに遠くてかつまた近い者のように思える。
傷んだ爪。
痩せた首筋。
わずかに白髪の混じった黒髪。
――お月さま、少しだけ助けてくださいな。針の穴に糸を通したいんです。
湖のほとり、森に囲まれたあの城で。
いつも裸足を風に晒し、天の星月と湖面の星月を一人占めにして。
「分かった――」
立ち止まり、振り返る。
夕闇の向こうにテントの薄明かりがまだ見える。
「どうしたよ、ヴィルカ」
ギィが振り返って不思議そうに声を出した。
私は信じられない思いでテントの方を見ていた。
今になって、思い出すとは。
あれから何年経った?
あの娘――
――おつきさま、おほしさま、あたしとうたってくださいな。
喰い損ねた元獲物、ダージュの城の、末の姫。
アルケ。
夜空と森に取り憑かれたアルケ。
あの針仕事の娘は、アルケに生き写しだ。
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