追憶 夏

終わりの始まり

 ここはどこだろう。

 みたことのないみずうみ。

 しらないかおりのするもり。

 きたことのない、どこか。


 けれどもわたしは。


 今、この石段に座り、素足を空中にひらめかせながら、真昼の湖面を眺めている、わたしは。


「――姫様。アルケ様?」


「ここだよ、メイエ」


 わたしが、こたえた。

 石のようなかたい声で。

 わたしは、アルケと呼ばれた。


 わたしは一体、だれなのか。




  *  *  *




889年 盛夏 ダージュの城




 侍女のメイエが探しに来たとき、ダージュの末の姫アルケは石段の端に外向きに腰掛け、柱に細い肩をもたせかけてうとうとしていた。

 おや、今さっきあんなにはっきり返事をしたのに、と不思議に思わないではなかったが、この風変わりな姫のこと、いちいち気にしてもいられない。


「アルケさま、起きてくださいませ」


 メイエが側で声をかけると、アルケは素直に目を開いた。夏の強い日差しに影を作るほどの見事なまつが、ぱちりと動く。

 けれどもそのまま表情も視線も動かない。


「お茶の時間でございますよ。それに、先生がそろそろおちになりましょう。さあ立って、中にお入りください。下に降りていらっしゃる前に、おぐしをとかしましょう」


 妙なことに、アルケは最近すっかり様子が変わってしまった、とメイエは思う。元々は明るく奔放で夢見がち、ばあやに言わせれば妖精の子のように言葉の通じない娘だったが、ここのところの様子は今までの奇矯さとは全く違う。

 言われた通り部屋に入り、髪を直される間も大人しい。以前なら、気になったことは何であれ脈絡なく口に出していたのに。

 とにかく、笑わなくなり、喋らなくなり、表情が失せた。珍しく懐いていた家庭教師が急に城を辞することになったせいだろうか。

 しかし、メイエはそれを具体的に問うことはしない。一介の侍女がそんな立ち入ったことを姫君に訊ねるなどと、臣下の礼をわきまえぬ振る舞いをするつもりはなかった。臣下としてすべきことは、いつも通り身の回りの世話をし、体調に何かあるようならしかるべく手配することだけ。

 大体、貴族の人々はメイエたち庶民から見ればいつもどこか妙な生き物なのだ。何でもかんでも理由を知ろうとしたところで、理解もできないものが多いに違いない。

 妙なことといえば、先日急に辞めたエナのことは気にかかる。使用人部屋は数日はその噂でもちきりだった。エナは夫を亡くしたあとは天涯孤独の身で、子供2人を育てるのに住み込みができるこのお城の仕事はありがたいとあんなに言っていたのに、ある日突然姿を消した。仲間に挨拶もなく。

 女中頭のワイムさんは何か知っている風だけれど、とメイエは思いながら、アルケを階下に送り出したあとの部屋を片付ける。

 もう15にもなるのに子供らしく散らかった部屋も、何だかそれまでとは違って、荒れた様子に思われる。なぜだろう、と部屋を見回して、メイエは寝台の足元に散らばった木の葉や羊歯しだの葉に目をとめた。


 ――そうだ、以前のアルケさまは、お花も葉っぱもお部屋には持ち込まない方だったのに。


 いつから? やはり、様子が変わってからのことだ。

 身を屈めて葉っぱを拾い集めながら進む。寝台はきれいに整えられている。

 最近、アルケは寝台で眠っていないふしがある。朝にはきちんとふとんにおさまって、メイエが朝食を運ぶのを待っているけれど、あまりにもどこも乱れていないのだ。アルケは元々、眠りが浅く寝相もあまりよくない方だったのに。

 拾い集めた葉を前掛けにためて立ち上がろうとした時、メイエは窓の外の手すりに目を止めた。立った目線からでは見えないところに、何かこすれた痕がある。さっきアルケが座っていたのとは離れた場所だ。

 近づいてひざまづき、痕をあらためてみた。


「血?」


 まさか。

 ごく薄い、黒っぽい小さなしみだった。伸びかたからして、液体だったことはわかる。ただそれが元々赤かったかどうかは、見ただけでは分からない。

 こんな小さな痕、よくあることじゃないか、とメイエは思おうとした。汚れたような油だって、インクだって、有り得る。

 それでも何故か、血ではないかと思ってしまったのは、最近城下で吸血鬼ヘカートが出たようだから注意するようにと女中頭に言われたせいかも知れなかった。

 話では、吸血鬼に襲われた娘はそのしもべとなり、自分の父親を殺そうとして取り押さえられ、胸に木の杭を打たれて死んだという。

 メイエは立ち上がり、部屋に入って窓をきちんと閉めた。吸血鬼は招かれなければ建物の中には入れないのだというが、城下の娘の部屋にはやはり許可を得て入ったのだろうか。

 これについても、使用人部屋では噂があった。

 急に辞めていなくなったエナには息子と娘がひとりずついたが、その息子の方が、エナが辞めて出ていくより前に姿を消していたというのである。それがちょうど、城下の娘が吸血鬼に襲われたとされる頃。

 もしや、エナの息子が吸血鬼それだったのではないか。

 いや、魔族は年を取らないという。あれはエナの息子ですらなく、エナ自身が吸血鬼のしもべであり、親子とかたってこのダージュの城に魔族を入れたのではないか。

 使用人部屋では、そんな噂がまことしやかにささやかれていた。


 ――だけど、あの子は全然、吸血鬼ヘカートらしくはなかったわ。


 メイエは、場内で庭師の手伝いをしていたエナの息子の、いかにも垢抜けずぱっとしない、自信のなさそうな姿を思い出していた。あれで実際はかなり怒りっぽい考えなしで、前の奉公先の主人にもこんな奴には到底何も仕込めないと言われて暇を出されたという噂だったが。

 吸血鬼といえばその様子としてよく語られるのは、見目うるわしい男女で怪しいまでの魅力を持ち、博学で、物静かだということ。それならばエナの息子よりも、今日城を出ていく家庭教師の方が余程それらしい。

 でもあの先生は処女の生き血だけで生きている感じではない、とメイエは思い出して微笑んだ。調理場がらみの仕事をしてきたわけでもない男性の割には妙に料理に詳しくて、厨房のありもので魔法のようにおいしい夜食を振舞われた者が何人もいる。吸血鬼は処女の血しか飲まないというじゃないの、だったら違うはず。

 アルケの部屋を出て、メイエは使用人たちの仕事部屋や厨房などが並ぶ半地下へ降りていった。すると、その石の通路を今、鞄を片手に下げた背の高い男が通用口へ歩いていくところ。


「先生。クロイ先生」


 メイエが小走りに進みながら呼び掛けると、男は足を止めて振り返った。


「ああ、メイエさん」


 この先生が城に来た時には、女中たちは随分盛り上がったものだった。年のわりには白髪がたくさん混じったような不思議な暗金色の髪であることを除けば、役者のように見映えのする容姿だったし、ほどよく年上で、女たちを扱うやり方も紳士的だったから。

 何人か、恋心を打ち明けた女中もいると聞いた。だが、誰も受け入れられることはなかったようだ。彼はただ、自分の生徒である末の姫、アルケの教育だけに興味を注いでいた。

 そういうところがまた安心できたのだけれど、とメイエは残念に思う。

 城に上がって勤めようという男の中には、あわよくば姫君の寵愛を得ようとか権威権勢を手に入れようとか、ほとんど城に入ったきりになっている女中たちを誘惑しようという者が決して少なくない。べたついた欲で生きている者との職場付き合いは気が抜けないし不愉快なものだ。その点クロイはやりやすかった。彼はどうやら、アルケと図書室と料理にしか興味がなかったからだ。

 クロイの後任の家庭教師はもう決まっているが、それがどうもぱっとしない割に下心のありそうな男だったのをメイエは思い出す。それでなくてもアルケと会話が成立する人は少ないのに、と今から心配になってしまう。


「もうお発ちですか? アルケさまとはお会いになりました?」


「ええ。ご家族の皆様にもお目に掛かって、直接お別れの挨拶ができました。メイエさん、あなたもどうぞ、お元気で」


「先生、本当に行ってしまわれますの? 今日からきっと、アルケさまが寂しがりますわ。あんなに懐いた家庭教師はクロイ先生が初めてでしたもの」


 今、アルケさまの状態はどうもおかしいのに、この数ヶ月間の支えになってきたお気に入りのあなたがいなくなったら……そう言いかけて、メイエは言えなかった。それこそあまりに踏み込みすぎる。

 それに、クロイがここを辞める理由は、故郷に残してきた兄が急死して家に戻らなければならないからだという話だった。立派な学者の家なのだと聞いた。継ぐ者がいなければ困るのだろう。

 クロイは、口ごもったメイエに微笑んだ。


「アルケさまは良い生徒でしたから、私もこんなに早く辞めるつもりはありませんでした。お嫁入りなさるまで、できる限りのことを教えて差し上げたかったのですが、主を失った家を空にもできません。本当に残念です」


「……次にいらっしゃる先生も、あなたくらいアルケさまのお気に召すといいんですけれど、きっと難しいと思いますわ」


 厨房脇の通路を前後になって歩き、クロイが扉を開けた。順番に外に出ると、半地下の階段下にも夏の暑い日差しが届きそうになっている。


「それでは、馬車を待たせてありますので」


 ええ、ごきげんよう、どうぞお元気で、とメイエは答え、長年使われて歪んだ石階段をクロイが登っていくのを見届けた。

 こんな真昼の光の中に出て行けるような人が吸血鬼ヘカートのはずはない、とメイエは思った。吸血鬼なら、日光に当たれば灰になって死んでしまうはずなのだから。

 前掛けにためた木の葉や羊歯の葉が、全て古い藁のように色を失い乾き切っていることには、メイエは最後まで気が付かなかった。


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