5 夢の終わり

 ほしのこえ。

 もりのこえ。


 ……わたしの耳は、ただの空虚な穴になってしまった。

 きこえない。

 今はもう。


 わたしのたましいはもりからひきちぎられ、わたしのこころはけがされた。


 わたしの、

 わたしの生きる場所は、なくなった。


 なぜ、からだだけが、しなないの。




  *  *  *




910年 9月8日 深夜 トルフィの町外れ、旅芸人のテント




 知らない湖と森の夢、なんだか狂おしいように悲しい夢を見ていたような気がする。

 物音に起こされて、寝苦しさのざんからまるで解放されないまま、身体に染み付いた習い性だけでぼろぼろの布靴を足にくくり寝床を出た。

 まだ、夢に見たきれいな湖のほとりのお城が胸の中に残っていた。あれは、誰かが旅立つ午後のこと。からっぽのきもち。乾いた涙のにおい。


「タシャ、さっさと起きな!」


 おかあさんのし殺した怒鳴り声が、夢の残り香をどこかに吹き飛ばしてしまう。そうだ、私はタシャ、ここは夏の夜に蒸し蒸しとしたテントの片隅。道具類を入れた木箱の並んだところにぼろ布を掛けただけの、私の寝床。


「起きました、おかあさん。どうしたんですか?」


「どうしたもこうしたもあるもんか。ミンのやつが座長を殴って逃げ出して、城の番兵に泣き付きやがったんだよ、さらわれて来たって。夜明けまでにこの領地を出るよ!」


 ミンは、ナイフ投げの的をしている娘だ。幾つか前に興行した場所で座長が連れてきたのだったか。実際、拐ってきたのだ。

 頭はぼんやりとしながら、身体は急に動き出した。

 夜逃げだ。別の領地に逃げれば、この町の兵は追ってこない。


 手分けして荷物を馬車に積み込み、男たちは手際よく大きなテントを畳む。旅の一座はなるべく荷物を少なくしているし、こうした夜逃げは稀ではないから、みんな手慣れたものだ。

 私の役目は、おかあさんの楽屋にあるものをすべて荷造りして馬車に運び込むこと。

 おかあさんはそんなことをしている暇はない。団員たちを揃えて全員いるか確認し、振る舞いの怪しい者は逃げないように馬車に追い込んで外から鍵をかける。幸い、ミンの他は全員いたようだった。


「ミンはどうする」


 座長の声だ。

 どうしてミンが座長を殴って逃げたか、何となく想像できる。ミンは両親を亡くして路頭に迷っていたのを座長が拐ってきた娘だ。酔っ払った座長がミンに何をしていたか、私でさえも知っている。

 ミンだけではない。恋人と逃げた例の女芸人も、座長に無理やり関係を強要されていた。座長が手を出さない一座の女は占い婆か私くらいのものだ。

 十何人もの人間が幾つかの馬車に同乗し、興行中はたった2つか3つのテントに同居するぎゅうぎゅうの暮らしだ。何が起きているかなんて誰にだって分かる。この馬鹿で愚図ぐずの私にだって。

 女たちは最初はすごく抵抗する。助けを求める。でも、気付いていても誰も助けてくれず、座長も抵抗すればするほど凶暴になることが分かると、諦めてされるがままになり奥歯を噛み締めて耐え忍びながら、逃げることや死ぬことを考えるようになる。

 ミンは。

 拐われてきた当初、自分が何をされるのか分かると火がついたように泣き叫んで暴れ、気を失うまで座長に殴られていた。新入りの娘が拐われてきたら数日のうちにのが習いだったから、団員たちも私も、自分の寝床から出ずに背を向けた。

 私のしていることも、団員たちのしていることも、酷い。酷いけれど、出て行って何か言おうものなら最悪の場合こっちの命がない。私がずっと小さい頃、そうして殺された手品師がいたのを覚えている。座長はそういうとき本当にどうかしてしまう人で、自分が殺した手品師の死体の上で新入りの娘を犯したという話だった。娘とその手品師は惹かれあう仲だった。娘は気がふれて、しばらくは舞台で仕掛けものの手品の手伝いをさせられていたが、ある時首を吊って死んだ。

 あのミンが他の女たちと違ったのは、何度強姦されても、何度殴り倒されても、歯が折れても骨が折れても、誰ひとり助けに来てくれなくても、絶対に毎回全力で抵抗し最後まで泣き喚いたことだった。

 もしかするとミンは殺されたがっているのではないか、と私は思っていた。

 でも、そうじゃなかった。ミンは座長を殺そうとしていた、または、襲って何とか逃げ出そうとしていたのだ。

 ミンは、諦めていなかったのか。


 座長と話しているおかあさんの声が聞こえる。


「まあ、あたしたちのことが詳しくばれる気遣いはないよ。捨てていこう。なんたってミンは知恵遅れだし、あんまり目が見えないからね。団員の名前だってちっとも覚えてやしない。自分の親の名前、故郷の町の名前さえ言えないんだから。舞台で自分が何をしてたか、そこが舞台だったのかも分からないだろうよ」


「大丈夫なんだろうな。……まあ、念のため数日は移動だな。面倒だが山を越えようぜ」


「ええ? だって、山道は長いしあっちの隣は……」


 おかあさんは少し嫌そうな声色だ。山道で馬車が揺れたり滑ったりするのがおかあさんは苦手なのだ。


「平らな方の隣は、ラーキだろ。ラーキの領主はここの領主と親類だ。近すぎるし、今あそこはかどわかしに厳しい。安心できねえ。山越えだ。それで、小屋を掛けられるようなところまで行く。食料は足りるのか」


「最初の村で少し買えるならね。ねえ、でも山越えは」


「領主どもに睨まれてもいいのか? ラーキの領主はただの城持ちじゃねえ、国の中央でも力のある大物なんだ。目ぇつけられたら始末に悪い。山越えだ。いいな」


 座長の声は低かった。不意の緊急時のことでそれどころではないのでおかあさんを殴りはしないものの、酒はまだ残っているようだし、相当に機嫌が悪い。荒くれ共をまとめ上げる力自慢の乱暴者で通っていた座長にとって、目の悪い女のミンに殴られ逃げられたのはかなり衝撃だろう。

 おかあさんが不承不承という感じで山越えを受け入れる返事をした。ここで喧嘩をしても益はないと思ったのかもしれないし、座長の言うことにも一理あると思ったのかもしれない。

 団員たちも、手を動かしながらひそひそ話をしている。座長の臆病風、と言う者もいたし、急な山越えの長旅を嫌がる声もあったが、とにかく決まったのだから仕方がない。


 不穏な雰囲気の中、ひとつひとつ番号のついた木箱や大道具類を台帳と照らし合わせて全てあることを確認し、団員全員の点呼が進む。

 私は、舞台裏のテントが取り払われた後の潰れた草原に立ち止まっていた。

 真っ黒な夜の中に。


 夜逃げだ。

 この領地を出て。

 山脈を越えて。


 ――クロイにもう会えなくなる。


 私たちの行く先なんて、クロイが知るはずはない。知ったところで追ってきてなんかくれない。私がまたこの町に来る可能性は少ないし、その時まだクロイがいるなんて多分ない。クロイとギィは旅の途中だと言っていたもの。私がいつかふたりの行方を探そうと思っても、それは不可能だろう。


 だから。

 だからこれでもう、会えなくなる。

 きっとずっと、死ぬまでずっと。


 私の人生なんか、この先たいして長くはないのだろうけれど、それでも死ぬのは多分今夜ではない。

 死ぬまでの間、クロイに会えない。

 きっと死んでも会えないのだ。私は、まともな人の行くところには入れてもらえないに決まっているから。

 残りの人生、記憶しか持って行けない。


 私はクロイの何を覚えてる?


 いや、違う。

 違う、違う。

 私が何を持って行けるかじゃない。

 私は何をした?

 助けてもらい、許してもらい、食べさせてもらった。傷や暮らしを心配してもらい、殴らずに撫でてもらい、まるでまともな人間のように扱ってもらった。

 してもらってばかりで、それで私は何をした?

 いつもしどろもどろで、まともにお礼も言えず。

 あれだけのことをしてもらって、何のお返しもできずに。

 そして黙って消えるのだ。


「タシャ、忘れ物はないだろうね! ないなら早く乗りな!」


 何度かあの家に行った時、私は、いろんなことがあまりにも驚きに満ちていて、この時間がいつか必ず終わるということすら忘れていたのだ。

 冷静に考えたら当然のことだ。私は旅芸人の一座に暮らしているのだから、いつかこの町を発つ。

 なのに、考えもしなかった。興行のおしまいの日を座長が決めていなかったこともある。そして私の頭が悪いせいだ。


「タシャ!」


 してもらうだけしてもらって、急に消えるのだ、私は。

 何という恩知らずだろうか。

 せめて一言、さよならが言いたかった。

 あなたに会えてよかったと。

 あんなに優しくしてもらったことはなかったと。

 ばかみたいな言葉でもいいから、伝えてお礼が言いたかった。

 胸の奥が、それから目の奥が熱を持ち、頭が痺れてくる。


「タシャ、いい加減にしな! こののろま!」


 団員の一人に頭の後ろを拳骨でしたたか殴られ、私は草地に膝をついた。

 襟首を乱暴に掴まれて立たされ、馬車の方へ突き飛ばされる。


「こんな時にぐずぐずするんじゃない! さっさと乗り込め、役立たずが!」


 ああ、何もかもおしまいだ。


 肩の後ろを突かれ、足を蹴られながら、私は歩いた。馬車へ。元通りの場所へ。

 頬を流れ落ちる涙を、汚れた服の袖で拭いた。泣いてるなんておかあさんに知れたら何と言われるか分からない。


 元通りだ。全部元通り。

 私に夢なんて持てなかった。


 それでも、唇はささやいた。

 走り出す馬車の荷台の中で。


 ――お月さま、お星さま。どうか助けて。

 ――あの人に伝えたいんです。


 ――ありがとうございました、さよなら。



 きっと届くことはないだろう。おまじないはもう効かない。言葉を伝えるおまじないなんて、これまでやったこともない。

 ただ言いたかった。

 本当は直接言いたかった。


 でもこれでもう、おしまいだ。


 私の短い人生、ここにいた数日間だけのほんの短い人生は、もう、終わったのだ。


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