4 秘密の夢
910年 9月8日 夕方 トルフィの町外れ、旅芸人のテント
川の側の、クロイの家に初めて行ってから4日が過ぎている。私は相変わらず舞台裏の薄暗いテントの中で雑用をし続けていた。
舞台では奇術師が喝采を浴びている。多分、眠らせた人が空中に浮く奇術だ。あれはどこに行ってもある程度の人気を集める。
おかあさんはここのところ、あまり機嫌が良くなかった。
私がクロイの家に行ったことは理由ではない。クロイはあのことを一座には知らせないでおいてくれた。
それに、私の盗みのせいでもない。あれは、騒ぎのあった日の夕方になって、曲芸組の男の子がやったと分かったらしかった。らしかった、というのは、そのことは口止めになっていて、座長もおかあさんも何も言わず、表向きは私がやったことになっているからだ。私はそれを、例によって木箱の隙間で仕事をしている時に偶然耳にした。
おかあさんの不機嫌の理由は、もっと別のことだ。一座の興行は最近調子がよくないのだ。
ひとつには、この一年で売れっ子だった芸人が何人か逃げたり死んだりして、そのあと新しい人を入れることもできずにいるため。もうひとつには、座長の金遣いが年々酷くなってきていて、酔っ払って舞台に出たり、寝てしまって急に休んだりするほどになってきているためだ。
舞台は少しずつ受けなくなってきている。
一人何役もして出ずっぱりの団員たちは疲れ、不平不満が増えて、いさかいも多くなってきている。そもそも、ここのところ相次いで逃げた売れっ子たちも、舞台がきついわりに貰いが少なく、生活に自由もないことが不満で出ていったのだ。
中のひとりは興行先で恋仲になり追ってきた男と結婚したいから一座を抜けたいときちんと話をしたが、座長がその男のところに行って半殺しの目に遭わせてしまったため、見切りをつけて出ていってしまった。
その出て行き方が物凄かった。この一座は基本的に座長の許しを得て損失分のお金をたくさん払わないと脱退できない、つまり事実上脱退が認められないことになっている。むちゃくちゃな話だけれど、ずっと昔に座長がそう決めたのだからそうなのだ、という。
ところが脱退を申し出た彼女は、そんな不当な大金は支払えないときっぱり言ったので、座長は脱走を止めるために怒り狂って立ちはだかった。そこに、彼女は油を浴びせて火を吹いた。彼女は火吹き芸人だったのだ。
幸い油は殆ど上着にしか掛かっておらず、座長は腕に多少火傷をしたくらいで済んだが、この一件で座長が火を苦手としていることがばれたし、彼女は騒ぎをついて逃げおおせてしまい、それ以来座長は飲んだくれることが多くなった。
最近の座長は大抵酔っ払っていてひどく怒りっぽく、長年の相棒のおかあさんとさえぶつかるようになっていた。
座長は舞台や団員の日当のために使うべき収入を勝手に自分のものとして使ってしまう。新しい道具や仕掛けのために貯めておいた資金にも手をつけてしまい、一座の維持のために最低限とっておくべき額もないらしかった。それで、おかあさんはこれまでのように、衣装や飾りものを買ってもらえなくなっている。
当然おかあさんは不機嫌になり、その不機嫌はほとんど全部私に回ってくる。もちろん座長の不機嫌も回ってくるし、座長に不満のある団員たちの苛立ちもたいがいは私に向かうようになっている。
それで、私は毎日怒鳴られ、ものを投げつけられ、殴られたり蹴られたりする。いつもよりたくさん。だから生傷が絶えない。ここにいる限り、いつも痛い。
身体の中に黒い泥がどんどん溜まっていくみたいに、身体は重く、気分もふらふらする。そして、おまじないはもう殆ど効かなくなっている。
月を呼んでも星を呼んでもどうしようもなくて、私にできることは、クロイとクロイの家でのことを思い出すことだけだった。
宵闇の迫る中に、舞台の賑わいが遠く聞こえている。
舞台が終わったら、私はおかあさんの着替えを手伝い、片付けをする。怒鳴られ、叩かれながら。一座の芸人たちは食事をして、おおかたは酒を飲んで寝てしまう。何人かが私を突き飛ばすだろう。私は恐らく夕食のおこぼれにもありつけない。
それから私は舞台の掃除や客席のごみ拾い、椅子の整理などを一人でやる。舞台裏で衣装や道具類の修理や片付けも。
やることを全て終えてくたくたになった頃にはもう深夜で、身体の痛みや空腹、寂しさ、辛さと一緒に粗末な寝床に入るのがいつものことだった。せめて痛みや苦しさを和らげてくれる月光の射す場所に眠りたいけれど、今、月は新月の時期で、昼に出ている。
それでも、ここ数日は気分が違っていた。
何だかいつもより身体は辛いけれど、頑張って仕事をして早く時間が過ぎればまた朝が来て、朝の仕事を済ませたら、おかあさんたちが起きてくるお昼まで少しだけ自由な時間がある。
その時間に川のそばの一軒家へ行く、と考えると、怒鳴られるばかりの辛い仕事も耐えられた。
いつでも好きな時においで、とクロイが言ってくれたからだ。来れば何か食べさせてあげるし、怪我をしていれば手当てするから、と。
* * *
川辺で倒れたのを助けられたあの日、急にお腹いっぱい食べて眠り込んでしまったあと、しばらくして目を覚ました私にクロイは呆れたように言った。
――いつから食べていない。どんな暮らしをしているんだ。
私はそれで、全部話した。
話そうとした、と言ったほうが近い。日頃あまり長く喋ることがないから私の説明は全然上手ではなかったに違いないのだけれど、クロイは問いかけを挟みながら気長に聞いてくれた。
一座でなら、私が長く話すなんてそれ自体が生意気だと殴られるところなのに、クロイのあの青みがかった灰色の瞳が私を見ているのが分かると、何だか全部言われた通りにしていいような気になってしまう。
――きみは不当な扱いを受けているよ。
クロイは穏やかにそう言った。
とりわけ私が食事を殆ど与えられずにいることや、読み書きを教わる機会が与えられなかったこと、服や靴を直したり身の回りの
――きみはあの一座を抜けられないのか?
続けてそう言われた時には、
一座を抜けようとして酷い目に遭った人も見た一方で、火吹きの彼女のように何とか逃げ出していった芸人も何人かは知っている。身請けする人があって座長の要求するめちゃくちゃな金額を支払い出ていった芸人もいることはいる。
そういう意味では、一座を出ることは、完全に不可能なわけではない。
けれどもそれは私ではない人たちのこと。舞台に上がって一通りの芸を演じお金が取れる人たちのこと。私とは違う。私は違う。
私はお情けで養ってもらっている一座の厄介者だ。今では唯一の下働き。一座の大事な歌姫の付き人。私の自由になるものなど何もない。私が他の芸人たちと同等に脱退を申し出るなんて、それだけで恐ろしい。言い出したその場で首を千切られたって不思議はない。
私にはできない。
私にそんな資格も力もない。
お金もない。
私は頭の中が真っ白になり答えられなくて、どうしたらいいか分からず泣いてしまい、そのとき部屋の柱時計が鳴ったので、一座に戻らなければならないことに気付いた。
何だか決まりが悪くて、食事や手当てのお礼を言い急いで立ち去ろうとした時、クロイは私の手を取って。
――また、いつでも好きな時に来なさい。朝早くても夜中でもいい。来れば何か食べさせてあげるし、怪我をしていれば手当てするから。
……そう言って、微笑んだ。
私は、雷のような何かに全身を撃たれたような気分になって、どうやって一座まで戻ったかその間のことはよく覚えていない。
ただ、触れられた手だけがまるで生きているように、不思議な熱を持っていた。
だって、これまで誰にも、そんな風に優しく接してもらったことがなかったから。
翌日また行った時には、だいぶためらった。
あんな風に言ってくれたけれど、本心ではないかもしれない。本当に来るとは何て図々しい、面倒くさい、と思われるかもしれない。
そう思って、庭に入る木戸の前で立ち止まったまま、やっぱり帰ろうかとぐずぐずしていると、声を掛けられた。
見ると、家の戸が開いてクロイが出てきていた。
――そんなところにいないで、早く入っておいで。怪我はどうなった?
穏やかな声とあの青灰色の瞳にひかれて戸口まで歩いていくと、クロイは私を家の中に入れ、まず私の額にある怪我の様子を確かめて、膿んではいないね、と言いながら、ぽんと私の頭を撫でた。
もう、それだけで、泣いてしまった。
この人は何にもしない。
そんな扱いを受けたことはそれまでなかった。
この人は違う。一座の誰とも違う。私がこれまで会ったことのない種類の人間なのだ。
騙されているんじゃないか、とは少し思う。私の人生にこんなことが起きるはずがないじゃないか。
でも何のために?
私を騙してこの人が何を得られる?
信じてはいけないのか?
私が馬鹿だから分からないのだろうか?
信じてはいけないの?
クロイが私を見ていた。怒っているような顔で。
触れられると眠くなるあの手が私の涙を払ったあと、ふと私の手を持ち上げた。そして、じっと私の手を見たクロイはますます険しい顔になり。
――怪我が増えてるじゃないか。
――タシャ、君はやっぱり、あの一座を抜けたほうがいい。
一座を出る?
この私が?
座長が許すはずがない。
それに、おかあさんが許すはずがない。
おかあさんは、おかあさんが命令した以外で私のすることは何だって認めないのだから。
そして私は、逃げたあの彼女のように座長やおかあさんに火を吹く勇気を持っていない。
だから私は言った。
そんなことおかあさんが許してくれるはずがありません、と。
クロイは。
信じられないことに、クロイは。
私をぎゅっと抱き締めて、こう言ったのだ。
――可哀想に、そんなに母親が怖いのか。
――でも君は、本当は自由なんだよ。
多分その時に、私は気が狂ってしまったのだと思う。
人にしがみついて泣くなんて生まれて初めてしたことだった。ばちんと音を立てて頭も胸も破裂してしまったと思った。もう何もかも
自分の中からこんなにもとめどなく溢れ出してくるものがあること自体にも驚いてしまい、もう他に何もできなくなり、どうしても止められなくなった。
あらゆる記憶を涙と声に変えてぶつけるように私は泣いた。目が溶けそうになり、喉が
もしかすると食べ物を食べることより泣くことに飢えていたのかもしれない、と思うくらい、身体が千切れてしまうのではないかと思うくらい。
クロイはその間中ずっと私を抱いてくれていた。
殴らない。
この人は私を殴らない。
どうしてなの。
泣いて泣いて、やがて泣き疲れると、私はまた眠たくなった。
気がつくとふかふかの寝台に寝かされていて、いつの間にか側の長椅子に寝そべっていたギィが、ああ起きたな、と笑って。
そしてその向こうから現れたクロイは、私に起きて食事をとるようすすめてくれた。
それから毎日、クロイのいる家に行くのが楽しみになった。
朝の仕事が終わればあそこに行ってクロイに会える。だから、夕方にはもう翌朝が楽しみで、翌日に残さないよう舞台裏の仕事を夢中になってやり、くたくたになって眠り、朝が来て目覚めても絶望的な気持ちにはならなくなっていた。
相変わらずおかあさんも一座の人たちも私には厳しく、ものを投げつけられたりぶたれたりすることもあった。
食事のパンももらい損ねることが多かった。パンくずをためておけるポケットつきの前掛けは先日取り上げられてしまったままだし、靴は破れたまま毎日紐で縛って履いていた。おまじないも相変わらずどんどん使えなくなっていった。
それでも、私には初めての、希望のある日々だった。あの家に行けばクロイがいて、私の心配をしてくれるのだから。一座を脱ける手助けをしようか、一緒に旅をするのもいい、とまで言ってくれる。
疲れ切って深夜に寝床に入ると、自分で自分の手を握って眠るようになっていた。クロイはよく私の手を取る。頭も撫でてくれる。人に触れられるのが怖くも痛くもないのは初めてのことだった。その感触を思い出したくて、私は自分の手を握る。
クロイの手は、私の手よりずっと大きい。
もし、クロイの言うように私が一座を出ることができたら、どうなるだろう。
いや、無理だ。何度考えても。ここを出たいと座長やおかあさんに言う勇気すらないし、黙って逃げ出すのも私の鈍くささでは無理だろう。
でも、もし、クロイと一緒にどこかに行けたら。
有り得ないと分かっていながら初めてそんな夢を描き、クロイやギィのこと、行くたびに食べさせてくれる美味しい食事のことを思い出しながら眠りにつくと、一日の疲れも溶けてしまうような気がした。
翌日が楽しみだなんて、私の人生で初めてのこと。
会いたい人たちがいるのも、初めて。
全部、初めての気持ちだ。
* * *
明日になったら、また行ける。
明日で、行くのは6回目。
舞台がはねたのを音で察して、私は木箱から立ち上がる。
さあ、おかあさんやみんなの片付けをしなければ。
余計に叱られないようできる限り頑張って、明日になったらまたクロイの家に行ける。
あの優しい場所へ行ける。
けれども、私はまだ知らなかった。
川のそばのあの一軒家、クロイのいるあの家を私が訪れる未来はもう二度とない、ということを。
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