3 ひとさじのスープ

910年 9月4日 朝 トルフィのとある一軒家




 パンのにおい。

 お湯の沸く音。

 何かが焼けるいいにおい。

 柔らかな場所。


 ここはどこだろう。


 だれかの気配。

 足音。

 食器の触れあう音。


「おい、目ぇ覚ましたぞ」


「そう。あんまり乱暴にするなよ、頭を打ってる」


 知らない声と、ついさっき聞いた声。どちらも男性の声。

 視界に入ってきたのは、灰色の長い髪を束ねた若い男性だった。暗灰色の瞳。薄着で、顔にも腕にも古そうな傷痕があった。怖い。顔つきも怖い。


「起きられるか? あれ、動かねえな。……なあ、こいつ動かねえ!」


「お前の顔が怖いんだろうに」


 足音が近付いてきて、灰色の長髪の人がどかされた。次に現れたのは、さっき見た、不思議な色の目をした人。

 私が育った一座では聞いたことのないような、静かで丁寧な発音だ。まるで貴族みたい。


「驚かせてすまない。さっき川岸で倒れていたので勝手にここまで連れてきた。応急手当てだけはしたが、随分とひどくやられたな。物盗りか?」


 私からるものなんてない。そう言いたかったけれど声がうまく出なくて、ただ首を横に振った。そうしてみると、頭が鈍く痛んだ。


「私はクロイ。あれはギィという。旅の途中で、しばらくこの家を使わせてもらっている。君は?」


 名を問われることなど、私の人生では何度もないことだった。

 私は何とか喉に息を通して、タシャ、と名乗った。


「タシャか。よろしく。まあ起きて、何か食べなさい。……起きられるか?」


 思考はほとんど停まっていた。色々と信じられないことが起こり過ぎている。


 私は、困っているときに助けてもらったことがなかった。

 私は、知らない人に礼儀正しく名前を聞かれたり、よろしくと言われたりしたことはなかった。

 私は、いわゆる寝台で、枕とふとんを使って横になったことがなかった。

 私は、誰かに抱き起こしてもらったことはなかった。

 それに、私は、知らない人に食事を勧められたことも、これまで一度もない。


 クロイと名乗った男性は、寝ていた私の背を支えて寝台から抱き起こし、立たせてテーブルまで案内し、椅子を引いて座らせてくれて、それからテーブルの上に並んだ食事を食べなさいと言った。

 頭がおかしくなったのかと思った。

 テーブルの上には、柔らかそうなパンや湯気を立てるスープ、今さっき焼かれたばかりの目玉焼きに、籠いっぱいの林檎が置いてあった。


「スープからがいいね。急に食べてお腹が痛くなるといけない」


 そう言いながらクロイは私の向かいに座る。横から傷跡だらけの腕が伸びてきて籠の林檎を取った。見ると、クロイの隣に先程のギィという人が座るところだった。

 どうしよう、これを食べたらお金を出せと言われるのではないだろうか。毒が入っていて病気になるかも。それとも、弱味を握られるのか。

 けれども、あまりにもいい匂いだった。

 これまで出会ったことのないほど温かくて美味しそうな食事の匂い。


 食べたい。


 頭の中にはおかあさんがちらついていた。

 おかあさんに黙って、おかあさんの許しもなく、勝手に人の家で食事をさせてもらうなんて、許されないのではないだろうか。

 私にこんなことが起きるはずがない。私は何も褒められるようなことはしていないはずだ。こんな親切を受けるような資格はない。

 ならば、これを食べるのは、今朝のパンの盗み食いと同じだ。

 クロイはまだ私がどこの者か訊かないが、いずれ分かるだろう。このことがおかあさんに伝えられてしまったら、私は、今朝よりももっとずっとひどく叱られるのではないか。今度こそ生きてはいられないかもしれない。

 湯気を立てる食事を前に、手を膝の上に置いたまま動けない私をクロイは少しの間眺めていたが、やがて林檎の籠をギィの方にどかし、テーブルごしに私の側のスプーンをとってスープをすくった。

 そのスプーンが、すい、と静かに私の方に差し出される。

 私は思わず、クロイの顔を見た。

 怒ってはいないみたいだった。

 スプーンの先が顔に近付いてくる。


「怖くないから、飲んでごらん。それとも私が毒味しようか?」


 この人が言うならそうなのだろうか、と思ったのもあるし、鼻先までやって来たひとさじのスープがあまりにもいい匂いだったせいもある。

 しばらく躊躇ためらったあと、私はついに、差し出されたスプーンからそのスープを飲んだ。あまり上手にできなくて唇からこぼれてしまう。もったいない。

 クロイはスプーンを引っ込めると代わりに折り畳んだ清潔そうな布を取り、私の口元を拭いた。小さな子にするようなそういう扱いを受けたのは初めてで、手が近付いてきた時には殴られるのかと思ったけれど、もしそうだとしても私は口に含んだスープを吐き出したくなかったし、飲み込みたかった。まともな食べ物に二度と出会えないかもしれないからだ。

 結果としてクロイは私を殴らず、私はスープを少し急いで飲み込んだ。


 気を失いそうになるほど美味しかった。


 舌の上に広がる豊かな味と温かさ。飲み込むと喉の奥から胸の中にまでその熱が伝わり、口の中には気持ちのいい塩気と旨味が残る。

 自分でも驚いたことに、急に身体が震えて、ぼろぼろと涙が零れた。声のかすれた喉からは醜いうめき声が漏れ出した。

 顔が上げられない。

 ギィがかじりかけの林檎をテーブルに置いてこちらに身を乗り出した。


「おい、大丈夫かよ。不味かったのか? おかしいな、こいつ料理は上手いはずなんだけど」


 ちがうんです、と私は言った。

 言いながら、自分がしゃくり上げるように泣いていることを知った。


「まずくなんかないです。……今まで生きてきた中で一番おいしい。こんなおいしいもの、食べたことありません」


 突っかえ突っかえ、掠れた声でそう言った私に、えっじゃあ今まで何食ってたんだ、とギィが言った。

 あまりちゃんと食べてなかったんだろう、とクロイが答える。


「……遠慮はいらないから、全部お食べ。食べれば傷の治りも早くなる」


 もう殺されてもいいと思った。

 どうせ、どう転んでも一座に戻ればまた叱られ殴られる。おまじないはもう効かず、私は近いうちにどうしようもなくなって死ぬかもしれない。このスープをおいしいと思うんだから私はやっぱり吸血鬼ヘカートなんかではないのだ。人間の食べ物を食べなければ死ぬ。

 そして、私には食べ物が当たらない。あの一座ではそういう風になってしまったし、私は一座を出ることはできない。

 私は多分、近い未来に、飢えて死ぬのだろう。

 そのくらいだったら、この食事を食べてから死にたい。

 一生に一回くらい、美味しいものを食べて死にたい。


 渡されたスプーンで、スープを飲んだ。温かくて、野菜の味と塩味がちょうどいい。こんなにたくさん具のあるスープは初めてだから、うまくスプーンが使えない。それでも、美味しくて、美味しくて、夢中になって食べ、具がなくなると木のお皿を手に持って、最後の一滴まで飲み干した。

 それから、クロイが千切ってバターを塗ってくれたパンを食べ、つやつや光る目玉焼きを食べた。フォークはあまり使ったことがなくてうまくいかず、途中でクロイが食べかけの目玉焼きを上手にパンにのせてくれた。卵なんて何年ぶりだろう。

 苦戦しながら食べている間に、スープのお代わりが出されていたし、きれいな薄緑色の林檎まで切ってもらった。その林檎の、瑞々しく甘いこと!

 こんなに美味しいものがこの世にあるんだろうか、と思いながら、私は必死に食べ続けた。

 泣きながら、食べ続けた。


 やがて、満腹になった。

 お腹がいっぱい、という状態を、私は恐らく生まれて初めて感じている。

 顔の怖いギィだけれど、どうやら随分心配してくれる。このくらいで足りるのか、もっとお代わりあるんだぞ、と言ってくれる。

 でも、もう食べられなかった。

 普段からあまり食事が当たっていないので急にたくさん食べられないのだろう、とクロイは言った。

 恥ずかしいことに、食べると私はすぐに眠くなり、椅子に掛けたまま子供みたいにうとうとしてしまう。

 こんなお行儀の悪いこと、おかあさんに知れたらどんなに叩かれるか分からない。でも、眠くて眠くてどうしようもない。

 お腹がいっぱいで、暖かい場所にいて、殴りも怒鳴りもしない人がいて、とろとろと眠たい。こんな穏やかな、まるで許されているような状況を、私はこれまで経験したことがなかった。

 生まれて初めての、人生に二度とは無いかもしれない状況。

 殴られたり苦しかったりして気を失うのに比べて、何てやわらかく甘い、意識の手放し方。


 ああ、このまま今、死にたいなあ。


 眠りに落ちるその瞬間、私は心からそう願っていた。


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