2 濡れ衣

910年 9月4日 朝 トルフィの町外れ、川のほとり




 トルフィで小屋を掛けて4日目。この日は朝から、大変な騒ぎだった。

 原因は、朝食のパンが足りなかったこと。

 昨日のうちに必要な分を買い、それは食事担当の団員がきちんと確認してあった。それが、今朝になると足りなくなっていた。

 夜のうちに誰かがくすねたんだろうということになり、そんなことをするのはいつも自分の愚図ぐずのせいで食事を食べ損ねているタシャだろうということになった。

 騒ぎが持ち上がった朝食のその時、私はまたおかあさんに用事を言いつけられて、パンくずにすらありつけないでいた。もちろんパンが足りなくなっていることなんか知らなかったし、とてもお腹が空いていた。

 呼びつけられて食事のテーブルのところまで行くと、パンを盗み食いしたことと、おかあさんの用事がまだ終わっていないことの両方を叱られ、座長にぶたれて怒鳴られた。私が一言も喋らないうちに。でも、叱られる時は、大体いつもそうだ。話を聞いてもらえたことはない。

 私は実際のところ、空腹でふらふらしていて、もしかして自分は本当に夢うつつでパンを食べてしまったのかな、と思うほどだったけれど、さすがにそれはない。食べていたならこんなにお腹が空いたままのはずはなかった。

 おまえがやったに決まってる、どこに隠した、まだ持ってるんじゃないかと座長がまくし立て、面白がった別の団員が私の前掛けを引ったくって調べると、ポケットからパンくずが出た。団員たちは手を叩いてはやし立て、座長の顔は怒りで赤黒く染まる。

 私は震える声を押さえながら、それは食事が当たらなかった時に片付けで出たのを少しもらっただけで、今朝なくなったパンとは関係ありません、私じゃありません、と言ったのだけれど。

 その時に、こう付け加えたのがどうも、まずかった。


 ――私、昨夜もその前も、何もいただいてません。でも、盗もうなんて考えたこともありません。


 これで座長が、かんかんに怒ってしまった。おれが食事をやらないとでも言うのか、おまえがのろまなのが悪いんだろう、と。

 もう、今朝のパンが消えた話はそれっきりになり、とにかく座長が私を怒鳴り、殴り、蹴りつけ、ものを投げつけるという状況になってしまった。

 珍しいことではないし、座長はこうなるとなかなか怒りが引かないたちだ。おかあさんも、座長がこういう状態だと割って入ることはしない。そもそも、おかあさんが私をかばったりするはずがないけれど。

 短い間に何度か殴り飛ばされた私はそのへんの木箱か何かに頭を打って気を失い、気が付いた時には座長はもうおらず、テーブルではみんなが何もなかったかのように食事を取っていた。

 おかあさんだけが、目を覚ました私に気付き、椅子に座ったまま視線だけを寄越してこう言った。


 ――ああいやだ、汚ならしい。川にでも行って血と泥を落としておいで。人のパンを盗んだんだから、しばらく食事は抜きだよ。さっさとお行き!


 みんながくすくす笑っているのが聞こえた。

 私は盗み食いなんてしていない。でももう、そういうことに決まってしまったらしかった。

 これも、いつものこと。




 それで、今に至る。

 具体的には、川で血と傷口を洗い流したあと、上がった岸辺で行き倒れている。

 これまでにも何度かあったことだけれど、お腹が空きすぎると具合が悪くなり、そのまま放置すると気持ち悪さがどんどん増して動けなくなる。

 経験から言って、この具合の悪さには緩やかな波があり、波が引いた時にならまた動けるはずだった。ただ、それまでが割と長い。

 まだ昼前だ。でもお昼にはテントに戻らないと、夕方始まる舞台の前にしておく仕事が幾つもあるのに。

 地べたに横になっていると、夏草がすぐ目の前。葉っぱの上に小さい虫がいるのが見えた。虫は自分で餌を取れるのになあ、と思う。

 呼吸が浅く、気持ちが悪い。

 こんな時どうしたらいいんだっけ。

 ああそうだ、おまじないを。


「お月さま、お星さま、どうか、少しだけ助けてくださいな。気持ちが悪くて、うごけません」


 声すら、ちゃんと出なかった。

 昨日が新月だったから、今はお月さまも空にいるはずだ。でも、舌の上の味は何も変わらない。苦しさも引かない。

 おまじないは、最近ではうまくいかないことも多い。

 私の命は弱くなっているんじゃないだろうか、と思う。今までなら耐えられたものがもう駄目になって、近いうちに私は死ぬんじゃないだろうか。

 死んだらお腹は空かないだろうな。

 今より楽になれるのかもしれない。

 でも、死んだら、きっとおばあさんがそうだったように、その時いる場所に急いで葬られて、それきりだ。

 誰も、私を思い出してはくれない。私は過去の中に消し飛んでしまうのだろう。誰も私を引き留めようとはしてくれない。

 そういうものなのだろう。そういう風に私は生まれついた。


 さわさわ、ざあざあと、私などとは全く関係なく、夏風が木立を揺らして駆けていく音がする。


 ああ、風が食べられたなら。

 光が食べられたなら。


 それとも、私はやっぱり吸血鬼ヘカートの仲間で、人の血を飲むしかないのだろうか。自分の血が口に入ることもあるけれど、全然美味しくなかったのに。


 次第に頭が痛くなってきた。変な汗をかいている。手先足先が痺れているし、洗った髪の濡れた感触さえ気持ち悪い。

 目の前の風景が粗く見えはじめ、顔にさしかかる木漏れ日で目がちかちかしてきた。蝋のなくなる寸前の蝋燭ろうそくが、視界いっぱいに灯をまたたかせるように。

 気が遠くなる。


 そうして。

 次に気がついた時には、私は、何か柔らかくて斜めな場所に身体の半分を埋めるようにして、さっきまでより涼しい場所にいた。

 日陰だ。動かない頭でそれだけは理解した。日陰にいる。肩を掴まれているような気がする。


「大丈夫か。誰にやられた」


 落ち着いた静かな声。知らない男の人の声だ。

 見られた。最初に思ったのはそのことだった。

 こんなところで無様に倒れていたことを、おかあさんに知らされてしまったらどうしよう。急に恐ろしくなって、私は頑張ってちゃんと目を開けた。

 最初に見えたのは、青みがかった灰色の瞳。見たこともないくらいきれいな色。ものすごく気分が悪くて本当は今すぐ意識を手放したいけれど、それでもなお目を奪われてしまうほど、その瞳の色はあまりにもきれいだ。食べたいくらいに。

 それから、ああ本当に人間だ、と思った。男の人だ。若くもないし年寄りでもない。お酒のにおいがしない。一座の団員たちとは違う。

 この城下の人だろうか? 私をどこの誰か訊くだろうか? 嘘をつくわけにもいかない。どうしてもおかあさんには知られてしまうんだ。そうなれば、どんなに叱られるか分からない。

 私ときたら、どうしてもう少しくらい頑張れなかったんだろう。倒れさえしなければおかあさんにばれなくて済んだのに、きっとこれでまた殴られる。

 視界の外で、その人の手が私の前髪をよけた。


「傷口を川の水で洗ったのか……」


 低い声も額に触れた手も何とも言えず心地よくて、おかあさんに知られる恐怖もかき消え、思わず目を閉じてしまった。

 ああ、目を開けていないと、きっと眠ってしまう。


「おい、しっかりしなさい。一体どうした」


「おまじない、が……もう、できなくて」


 急速に朦朧もうろうとする。

 私は今、何を言った?

 頭が痛い。

 身体が泥のように重い。

 もう、かすれた声を出すのも限界だった。


「――おなか、すいた……」


 それきり私は、今度こそ本格的に気を失った。





 夢を見た。


 誰かが私を抱っこしてくれている。

 私を抱えてどこか知らないところを歩いている。

 ゆらゆら。

 ゆらゆら。

 気持ちがいいな。さっきの人かな。

 夢だから抱っこしてくれるんだ、と思う。

 夢だった。

 おばあさんにも、おかあさんにも、抱っこしてもらったことがない。

 だから、夢だった。

 気持ちがいいな。

 うれしいな。


 うれしいってこんな感じ?

 どうして泣きたくなるんだろう?



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