タシャ

1 楽屋裏

 新月の日は、特別だ。

 月が光を放たない。

 昼日中の月をみんな見えないと言うが、私にはいつも見えている。

 見えている? いや、違う。姿が見つけられなくとも、声がする。気配がする。

 その声も気配も、新月の日だけは違っている。

 なんだか、懐かしくて。

 なんだか、……おいしそうで。


 私はいつも、お腹が空いているから。





  *  *  *





910年 9月3日 夕刻 トルフィの町外れ




 間に合わせに古布で作った粗末な靴が早くも壊れて、何かの時のために持ち歩いていた紐で縛ろうとしゃがんだ途端に、おかあさんの声が飛んできた。


「タシャ! タシャはどこに行ったの。小道具を直しておけと言ったのに、あの娘ときたら、言いつけを無視して遊びにでも行ったんじゃないだろうね! なんて役立たずなんだろう!」


 私は慌てて立ち上がった。積み上げた道具類の向こうにおかあさんの姿が見える。まだ舞台衣装を着ていない。


「ここにいます、おかあさん。道具はもう少しで直りますから」


「そんなところで何をしているの! あんた、さてはあたしから隠れようとしたんだね?」


「いいえ、おかあさん。靴が破けたので縛ろうと」


「お黙り、言い訳なんか聞きたくないよ! 隙さえあればなまけようとするんだから。本当にずるい、いやらしい娘だね。さっさと道具を直しておいで、あたしを着替えさせずに舞台に出すつもりなの?」


 すみません、おかあさん、と私は言う。

 さっき言おうとしたのは決して言い訳ではなかったし、話は全然聞いてもらえていなかった。気持ちがきゅっとひねられたようになって鼻の奥がつんとしたけれど、泣いたりしたら百倍怒鳴られるのは目に見えていたから我慢した。

 我慢できる。ずっとそうしてきたのだから。


 おかあさんが自分の小部屋に引っ込むのを見届けると、手品に使う大きな軽い布を急いで手繰たぐり、昨日の舞台のあとに見付けたほつれを探した。

 ほつれたところが分からなくならないようにしっかり指でつまんでから、小さな裁縫箱を持って、西日の当たるところに移動する。古い木箱の上に座って、私はつくろいものを始めた。

 テントの入り口近くの日の差すところに来ても、針に糸を通すのが難しい。何だか年々目が悪くなっている。一座の繕いものをやる機会は多いので本当は眼鏡がほしいけれど、眼鏡なんか私が買ってはもらえないことも分かっていた。

 何度やっても糸が通らない。

 私は自然とため息をつき、辺りに誰もいないのを確かめてから、ごく小さく囁いた。


「お月さま、少しだけ助けてくださいな。針の穴に糸を通したいんです」


 すると、糸の先がわずかに光を宿し、針穴がきらりと反射して、鮮明に見え始めた。

 私は急いで針穴に糸を通した。これは何秒も持たないのだ。糸を通して引いて、端に玉結びを作る頃には、もう視界は元通りぼんやりとしていた。


「お月さま、ありがとうございます」


 天幕の向こうにのぞく空を見上げてお礼を言い、私は急いで繕いものを終わらせた。

 縫い目もそれほどはっきりは見えないので指先と針先の感覚だけで縫っているようなものだが、刺繍とは違うから、繕えていればまずは大丈夫。

 針と糸を裁縫箱にしまい、布は畳んで手品の他の道具類と一緒の箱に入れ、私は急いで幾重かの布に仕切られたおかあさんの小部屋に入った。

 入るなり怒鳴られたが、いつものことだ。とにかく開演までに、おかあさんの衣装を整えなければならない。


 私は旅芸人の一座に生まれた子供で、一座の下働きをしている。

 舞台には出ない。不器用で愛想が悪く、器量もよくないからだ。不器量な娘でもできる動物使いや占い師の芸を仕込もうと親方が言ったこともあったが、おかあさんの猛反対で実現しなかった。

 私も、自分が舞台に立つなんて想像できない。一座の芸人たちのような特技も如才のなさも、見栄えも度胸もない。

 昔ながらの、娘の裸を覗かせる小屋が禁止になっていなけりゃ、それはやらせられただろうけどねえ、あれはどんな不細工だって顔に仮面か何かつけてりゃいいんだから、とおかあさんは言っていた。覗き小屋がまだ許されていた時代でなくて本当によかったと思う。

 とにかく、私はかんたんな芸もできない愚図で、飯を食うならせめて雑用をしろと言われて、一座に置いてもらっている。

 その雑用も失敗が多いから、本当は親方も私を放り出したいのだと聞いた。ただ私が、一座にとって大事な歌姫の娘だから置いてやっているのだと。


 おかあさんは、ひとつの場所で小屋を掛ける間、出来る限り毎日違う衣装を身につける。そうでないと毎日通ってくださるお客さまを飽きさせてしまうかもしれないでしょ、と言って、大きな町を通るごとに親方に衣装や装飾品をねだるのが常だった。

 今日は深い赤の衣装。ひだをきれいに整え、硝子がらすの石をたくさん使ってきらきら光るベルトや髪飾りをつけ、耳にも首にもきらめく装飾品をつけていく。かかとの高い靴をはかせて、長い手袋を渡して、立ち上がるおかあさんの前に姿見を持っていく。

 衣装が問題なければ、開演までここで少し声を出したり歌詞を確認するおかあさんのために、少しだけお酒をたらした蜂蜜湯を運ぶ。

 それで私の仕事は一段落で、小部屋を出て道具の隙間で少し休める。

 開演後は出番のきっかけを伝え、おかあさんの舞台の間にこの小部屋を片付けながら、途中で服を引っかけてほつれただの、髪が乱れただのという事態に備えていればいい。

 おかあさんが舞台で歌っている間が一番気が休まる。怒鳴られないし、無茶も言われないからだ。


 幸いこの日はすんなりと着替えが終わった。おかあさんに蜂蜜湯を運んだあと、私は雑然と置かれた木箱のひとつに座り、背中とくっつきそうなお腹を抱えてじっと開演を待っていた。

 おばあさんが生きていた頃は、こうした人目のない時間に、テントの隅で何か食べさせてくれることもあった。

 笑ってくれたり抱いてくれたりしたことはないが、いつもお腹を空かせた私に、おかあさんには内緒でパンやお菓子をくれることがあったのだ。

 そのおばあさんも、一昨年死んでしまった。

 一座は常に旅の途中だから、亡骸なきがらはその時小屋を掛けていた町で葬られた。再び訪れることがあるかどうかは分からない。

 タシャという私の名前に、最後まで文句を言っていたのもおばあさんだった。

 この名前は、元は一座の蛇使い芸人が飼っていた蛇の名前で、あまりにも名前の付け方が投げやりすぎるとおかあさんに何度も言っていた。いくらなんだって、あんな蛇の名前なんかつけて、と。

  私は、自分の名前が蛇の名だろうと何だろうと構わないから、もう少し食べ物がほしい、と思っていた。おばあさんがこっそりおやつをくれることがなくなった今ではなおさらだ。

 私は、いつもお腹が空いている。


「お月さま、お星さま、どうか、少しだけ助けてくださいな。お腹が空いて気持ちが悪いんです。今日も、パンくずを拾えなかったんです」


 お情けで一座に置いてもらっている私には、一応毎回の食事も当たることになっているのだけれど、おかあさんに用事を言いつけられて食事の時間に少しでも遅れたりすると、私の分はまず残っていない。

 片付けが私の仕事の一つだから、そういう時にはポケットにパンくずを拾い集めておいて、こっそり食べる。ところが最近は、私が遅れていくと一座の人々は、私に見えるようにパンくずを地面に払い落としてしまうのだった。

 おかあさんも、食事時間の寸前になってよく用事を思い出す。

 今日は、朝も昼も食べそびれた。お昼過ぎに川に水を汲みに行った時、木の実を少し食べ川の冷たい水を飲んだだけ。

 本当に気持ちが悪くなってきて、殆ど効果がないと知りながらおまじないを唱えてしまった。本当は、夜の方がいい。夜なら、舌の上にほのかな甘味が生まれることがある。

 今は、何も起こらなかった。

 ただ、呼吸が少し落ち着いただけ。


 月は夜の神様のようだ。でも、悪い魔族の守り神のようにも言われる。

 町から町へ旅する私たちは、行く先々で様々な噂を耳にする。中でも月と結びつけて噂されるのは吸血鬼ヘカート

 吸血鬼に咬まれて死んだ娘の話はどの領地にでもあるし、時には吸血鬼が討伐された話を聞くこともある。彼らは月夜に歩くといい、若い娘は月光の当たるところにいないように言われたりする。

 でも、私にとって月は長年の頼り先だった。おまじないを唱えれば助けてくれたし、月の光は痛みや傷をほんの少し治してくれる。

 もし吸血鬼がいるのなら、私のことは仲間だと思ってくれるのではないか、と考えたりもする。

 私は人の血を吸ったりはしないけれど、月が好きだし、眩しい昼よりは夜が好きだし、それに、嫌われていて、暴力を加えてもいい存在と思われている。似ていると思う。

 もしかして吸血鬼ヘカートとは、私のような境遇の人が、ついに気が狂って他の人を殺したものを言うんじゃないか。そんな気さえする。


 テントの外でベルが鳴ったので、はっと我にかえった。

 開演はもうすぐだ。

 舞台袖に控えて進行をみるために、私は何とか立ち上がり、道具類の木箱の間をすり抜けて、大テントの方に向かった。


 背後の天幕の隙間からこちらを見ている人影には、気が付かなかった。


 ただ、お腹が空いていた。

 ずっとお腹が空いている。

 おばあさんが食べ物を分けてくれていた頃でさえ、私はずっと空腹だった。最近はもう、気が狂いそう。パンくずでも水でもないもの、木の実や草ではないものが食べたい。

 かなしいほど、お腹が空いている。


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