月とリリアのひとしずく

鍋島小骨

プロローグ

星の夜

893年 初夏 ザイスェル




 城と村を離れ森に向かう一本道を、馬車の一団が駆けていた。

 通常の旅馬車ではない。紫や赤や黄色に塗られ、『火吹き男と魔法のステージ』だの『大陸一の歌姫』だのと大きな文字や曲芸する動物の絵柄などが看板のように入れてある。

 ただ、夜半の暗闇の中ではいずれも人の目には止まらない。大体が、田舎の小城のことだ。村を少し離れればもう人家もなく辺りは闇に包まれ、すれ違うといっても狐くらいのもの。

 先頭にランプを吊るした馬車の一団は、ザイスェルの城下を離れ、次の興行地に向かっていた。

 その中でも比較的しつらえのよい一台の車内には、若い栗毛の女の姿がある。古びたクッションに座り、自分の膝に片肘をついた頬杖の姿で、足元に置かれたかごの中を見つめている。

 壁の蝋燭ろうそくに薄ぼんやりと照らし出されたそれを、女は見下ろしながら。

 笑っていた。

 さっきからずっとそうだ。

 急に城下をつことになり、籠を抱えてこの馬車に乗り込んだ時からずっと、女は微笑んで、じっと見ている。

 同乗している年配の白髪女は、ついに耐え切れなくなり、栗毛の女に声を掛けた。


「ねえおまえ、さっきからずっとそうして何を笑っているんだい?」


 すると栗毛の女は、姿勢を崩さないまま視線だけを白髪女に向けて、にいっと更に笑みを見せ、答えた。


「だって、かあさん。こんなに面白いことは、そうそうないよ。あたし、心底からいい気分なのよ」


 かあさんと呼ばれた白髪女は不審に思い、栗毛の女の隣に座ろうと席を移ってくる。

 そして、籠の中を見て。

 しわとしみに覆われた手で、口元を押さえた。


「……おまえという子は、なんということを」


 893年の初夏。

 星が水晶と銀の首飾りのごとく夜空を埋めつくして輝いた夜のことだった。



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