第8話 見えるものと、見えないもの

 アイザック・ゴールドマン。

 俺の大嫌いな次兄。


 一族の中でも最も悪辣な阿片貿易商のはずだ。

 上海でも兄に陥れられて自殺したユダヤ人商人がいる。

 兄に関する悪い噂なら、いくらでも語れるが、語りたくもない。

 そういうわけでこの兄とはほぼ絶縁状態で、印度にいることすら知らなかった。


 最後に会ったのが、俺が初めて記事を書いたあの頃だ。

 漢語を読めない兄に、俺は誇らしげに語った。


 義のために死ぬ人がいる。その人のために俺は記事を書いたのだ、と。

「義」にあたる英語が思い当たらず、俺は帳簿の紙を一枚破って「義」と書いて兄に渡した。


「目に見えない崇高なものだよ。まあ、兄さんには関係ないだろうけど」

 そもそも、兄のような類いの人間を見下すために始めた仕事だ。

 嫌悪と軽蔑を込めて言った。

 殴られるかと思えば、意外に静かな言葉が返ってきた。


「見えないものだけでなく、見えるものも見ろ、ジョセフ」

 そう言って兄は俺の「義」を燃やした。

「見えるもの、見えてしまうものから目をそらしていては、やがて何も見えなくなる」


 兄が旅立つ日、家族は港まで見送りに行ったが、俺だけが行かなかった。

 旅立つ兄の姿を見なかった。

 いや、上海にいた頃から、兄のことは「汚いもの」として見ようとはしなかった。

 だから、何を思って俺の記事を持っていたのかもわからない。

 本当に卑劣な阿片商人なのかも、わからない。


 太史公は、世の理不尽を味わい尽くしながら、何故また人間の醜い歴史を描こうとしたのか。

 仁義礼智、中国の美徳はどれも目に見えない。

 いや、どこの国でも美徳とは目に見えないものだ。

 しかし、目に見えない美徳は、目に見える悪徳の中に埋もれているときもある。


「天道是か非か」

 俺は申季に向かって言う。

「その答えは、天ではなく、人に問うべきだと?」

 申季はうなずいた。


「だから太史公は史記を書き続けたのだと思います」

「…お前、記者じゃなくて歴史家になれば?」

「記事が積もれば歴史になるかもしれませんよ?」


なるほど。積もり積もって歴史になるくらい、記事を書き続けるのが、ジャーナリストの本分ってことか。


「なら、生きて生きて生き延びろ。

 こんなところで血を吐いている場合じゃない。

 お前の20世紀最初の仕事は医者に掛かることだ」


 そのためには、書類がいくつも必要だ。


 夜明けが近づく。

 亡命者に対する保護処置はいくら早くても早すぎるということはない。

 今できることはすべてやってしまおう。


「それにしても、一つ気に入らないことがある」

 一通りの書類を仕上げたところで俺はつぶやく。

「何ですか?」

「お前に進むべき道を示したのは、太史公じゃなくて、アイザック兄貴ということになるじゃないか」

「いえ、お二方ともですよ」

 つまり、太史公と、兄貴。


「…じゃあ、俺は何なんだよ」

 俺が本当に不機嫌なわけではないのをわかってか、それには答えずに、申季はすっと立ち上がる。


「20世紀を見に行きましょう」

「それは見えるのか?」

 先刻の言葉を返す。

 申季が笑う。

 はじけるような明るい笑いだ。


 褒姒を微笑ませるために、周王は国を滅ぼしたという。

 だが、俺は申季を微笑ませようとはしないだろう。

 微笑みは、誰かに与えられるものではないのだから。


 夜明けだ。

 20世紀がこの夜明けのように美しいのかはわからない。

 だがたとえ、天道を見失うほどの絶望の時が来たとしても、

 俺たちは、人を探し続ける。

 そうすれば、きっと微笑むことができる。

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