終章

終章

翌日の夕方。蘭の家。蘭が、テーブルに座っている。風呂から、華岡が出てくる。

華岡「あー、いい湯だった。杉ちゃんの家に行っても、杉ちゃん、出かけているみたいだったからさあ、お前のところをかしてもらったけど、お前の家の風呂も結構いいな。」

蘭「全く、自分の家の風呂に入ってゆっくりしないのか。人の家に入って、40分も風呂に入っているなんて、お前だけだぞ。」

華岡「いいじゃないか。俺の家は、ユニットバスなんだから。あんな味気ない風呂は、風呂という気がしないんだ。」

蘭「だったら銭湯に行けばいいじゃないか。」

華岡「いや、銭湯はちょっと遠すぎるな。」

蘭「確かにな。」

華岡「それよりもさ、蘭。」

蘭「なんだよ。」

華岡「今日、神奈川県警の刑事部長と話をしたんだが、真鶴で、女を一人逮捕したそうなんだ。そいつが、足首に歯形を付けられていたそうなんだよ。犬に噛まれたわけでもないし、どうも、人間にかみつかれたあとらしいんだよね。刑事部長は、女は黙秘しっぱなしで、何も言わないと愚痴っていたが、足首をかみつくなんて言う人間がいるもんだろうか。」

蘭「なんだろうね。まあ、よっぽど変な犯罪者だったんじゃないのか。」

華岡「まあ、そのうち、事件も解明されていくだろうが、全く、女が残忍な殺人をしようと思うようになったんだなあと、俺はびっくりしている。」

蘭「何を言っているんだ。お前は、時代遅れだ。凶悪な事件を起こした女なんて、いっぱいいるじゃないか。」

華岡「そうか。」

蘭「そうだよ。しかし、足首にかみつかれたというのは確かに前代未聞だな。」

華岡「で、杉ちゃんはどうしてる?」

蘭「旅行に出かけたよ。健忘失語の男と一緒にね。」

華岡「へえ、杉ちゃんが、そうやって、誰かの世話をするようになったのか。」

蘭「本当にできるのかな。杉ちゃん、余分なことばっかり、こだわるからな。」

華岡「余分なことのほうが、かえっていいんじゃないのか。そういう、理解しにくい障害を持っている人間は、俺たちのような、一般人ではなく、杉ちゃんみたいな人じゃないと、相手にできないぞ。」

蘭「行き先で、迷惑をかけないといいんだけどねえ、、、。」

華岡「蘭、やきもちか。」

蘭「違うよ。僕は心配しているだけで。」

華岡「ほら、やっぱりやきもちだ。」

蘭「違うってば。」

同じころ、杉三の家。

美千恵「ああ、楽しかったわね。たまには、百貨店に行くのもいいでしょう。やっぱり女は、身だしなみにも気をつけなきゃだめよ。」

歌津子「影山さんいいんですか。こんなきれいな婦人服まで買ってもらって。」

美千恵「いいのよ。ささやかなプレゼントだと思って、着て頂戴。」

歌津子「いつになったら帰ってくるのかしら。」

美千恵「まあ、運転手さんに任せればいいのよ。たまには、誰かに任せて、自分はリラックスするのも、悪いことじゃないわよ。」

歌津子「でも、心配だわ。」

美千恵「大丈夫。そういう心配は、かえって子供にとっても負担になっちゃうわよ。そうじゃなくて、二人とも、それぞれの世界を持っていたほうが、幸せになれるわよ。」

歌津子「そうねえ。でも、あの子、ご飯を食べるときどうしてるかしらね。毎回毎回茶碗や箸を落として。せめて一人でご飯を食べられるようになってくれればいいんだけど。」

美千恵「まあ、それほど苦労していたの?」

歌津子「そうよ。私もイライラして、ほぼ毎日当たり散らしていたわ。」

美千恵「確かにイライラするなっていうほうが、難しいわよね。でも、あまりにもひどくて、手をあげそうになったら、うちへ来なさいよ。誰でも、手をあげるのが、一番いけないから。うちへきて、思いっきり怒りも何もかもぶちまけてさ、すっきりして頂戴よ。それをしないと、人間、やっていけないわよ。逆に、頭を空っぽにすれば、また問題に対峙できるわ。」

歌津子「影山さんって、すごいわね。」

美千恵「そういう事を商売にしてきたからね。うまく、すり抜けるコツなら、たくさん知っているのよ。」

歌津子「やっぱり、プロは違うわ。」

と、家の前で、ワゴン車が止まる音がする。

美千恵「ああ、帰ってきたかな。」

声「運転手さん、どうもありがとうございました。ほら、礼を言うときの挨拶は、なんていうんだった。」

声「ありがとう。」

声「よくできました!じゃあ、僕らを外へおろしてください。」

声「はいよ。」

歌津子「まあ、ああして挨拶をするなんて、、、。」

美千恵「根気よく、教えていけば覚えるもんよ。」

歌津子「私だって、教えてきたつもりなのに、何度教えても覚えなかったのに、、、。」

美千恵「あんまり感情的になりすぎたんじゃないの。それじゃあ、覚えないわよ。ほら、迎えに行きましょ。」

と、椅子から立ち上がって、玄関の戸を開ける。外ではちょうど、杉三たちが、ワゴン車から、降りたところだった。

美千恵「どうもありがとうございました。利用料金は、明日送金しますから、よろしくお願いします。」

運転手「はいはい、どうもありがとうございます。また、観光する時には、どうぞわが社を利用してくださいね。杉ちゃんの態度を見て、勉強になりました。」

杉三「僕は、勉強してないよ。馬鹿の一つ覚えだよ。」

運転手「いやいや、うちの若い社員にも聞かせてやりたい言葉がたくさんありましたよ。では、次の依頼がありますので、これで失礼いたします。」

と、タクシーのエンジンをかけて、走り去っていく。

歌津子「影山さん、本当にどうもありがとうございました。あら、ミカンがこんなたくさん、、、。」

二人とも、車いすの後ろに、ミカンの入った袋を縛り付けている。

美千恵「ああ、ミカン狩りに行ったのね。二人とも、たくさんとってきたわね。」

歌津子「ミカン園の園主さんにでも取ってもらったのかしら。」

藤吉郎「ちがうよ。」

歌津子「違うって、そうしなきゃ取れないでしょうに。」

杉三「決めつけないほうがいいよ。」

歌津子は、ミカンを一つ手にとって持ってみる。どのミカンも枝が付いていて、皮に必ず歯形が付いている。

歌津子「あんたが自分で全部とったの?」

藤吉郎「はい。」

歌津子「よくやったわね。」

美千恵「ほら、もっと褒めてやって。」

歌津子「よくやったわ!」

藤吉郎「あげる。」

歌津子「何を?」

藤吉郎「ミカン。」

美千恵「ありがたく、受け取りなさいよ。」

歌津子「はい、ありがとうね。こんなたくさん食べられるかな。」

藤吉郎「あ、、、。」

美千恵「教えてやって。」

歌津子「そういう時はね、どういたしましてというものよ。人にお礼を言われたら、どういたしましてと返すの。」

藤吉郎「どういたしまして。」

歌津子「そう。よくできたわね。」

杉三「よかった。これで通じたな。じゃあ、母ちゃん、僕たち晩御飯食べてないからさ、何か作ってよ。」

美千恵「ああ、あたしたちもそうなのよ。今から作るのは疲れるから、なんか出前しようか?」

杉三「そうだね。なんか適当に出前して。なんか僕、疲れちゃった。」

美千恵「じゃあ、するから、木本さんも食べていく?」

歌津子「いいえ、これ以上迷惑をかけちゃいけないから、これで帰ります。本当にどうもありがとうございました。」

美千恵「もう、これからは、うんとほめてやってくださいませね。そして、行き詰ったら、いつでもうちに来てね。」

杉三「また、どっかいこうな。」

藤吉郎「はい。」

杉三「はいじゃないよ。そうだねとか、そう言うことを言うんだよ。」

藤吉郎「そうだね。」

杉三「じゃあ、またな。」

藤吉郎「バイバイ。」

歌津子が、静かに彼を車に乗せて、自身は運転席に乗る。

歌津子「じゃあ、ありがとうございました。」

杉三「またな!」

と、手の甲を向けてバイバイする。

美千恵「また来てね!」

車が見えなくなるまで、二人はいつまでも玄関先に立っていた。


車の中。

歌津子「何か食べたいもんでもある?」

藤吉郎「リガトーニ。」

歌津子「リガトーニ?珍しいものをほしがるわね。確か、パスタの一つだったわよね。」

藤吉郎「リガトーニ。」

歌津子「じゃあ、コンビニかどこかで買って行こうか。」

と、近くにあったコンビニに入って、乾麺のリガトーニと、レトルトのソースを買ってくる。


自宅の食堂。もう、床の汚れもきれいになっている。

歌津子は、リガトーニをゆでて器に盛り、上に温めたソースをかけて、

歌津子「はい、リガトーニ。」

と、藤吉郎の前に置く。藤吉郎は、ぎこちない手つきではあったが、一生懸命テーブルの上に置かれたフォークを取った。

歌津子「大丈夫かな、、、。」

手を出したい気持ちになったが、それをぐっと押さえて、何も言わないでおいた。

藤吉郎は、震えながらもフォークを握りしめて、それをリガトーニにしっかりとさして、ぎこちない手つきでありながら、フォークを持ち上げて口に運んだ。器を落とすこともせず、リガトーニを落とすこともせず、フォークを落とすこともしなかった。

歌津子「一人で食べてる、、、。」

歌津子の目に涙があふれた。

勇者は、それを気にせず、平然として、リガトーニを食べ続けていた。
















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杉三中編 金属鋏 増田朋美 @masubuchi4996

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