生命のかけら、そして共生

 記憶は、自分や他者というものの同一性を確認するためのものではあっても、自分や他者そのものの根拠にはならない。そして、記憶のエディタは自分であり、他者であり、そして時間でもある。


「なぜ……俺の名を知っている?」


 目の前の結良らしき何かは、確かに僕の名を口にした。ゲゼルシャフト一号被験者であった仁美結良は、エピソード記憶の多くを抹消されたはずなのだ。僕の名前だけでなく、当時の記憶や、僕と共に過ごした時間は既に彼女の中から消え去っているはず。


 僕の問いかけに、ただ立ち尽くしているだけの彼女は、まるで不思議な物体を観察するように僕をじっと見つめている。やがて、彼女は視線を僕から外すと、踵を返して歩き出した。


「矢部君は、きっとワタシの希望だし、それは世界にとっても大きな希望になる。だから、ワタシについてきて」


「な、何を言っている……」


 意味が分からず、唖然としている僕を気にするでもなく、彼女は三階へと続く階段を登っていく。


「お、おい。ちょっと待ってくれ」



 その声に、記憶が一瞬でフラッシュバックする。溢れかえる過去の情景に僕の頭がはちきれそうになっていく。彼女の声は、結良そのものだったし、彼女はいつだって、そう言って僕を励ましてくれた。いろいろな事が上手くいかない時、彼女はずっと僕の隣にいてくれたんだ。あの時だって……。


『どんなに小さくても希望はあるよ』


 彼女と最後に会ったのは、ゲゼルシャフト中央制御室直通のエレベーターホール。結良は僕の腕の中でそう呟いた。片手で数え切れるほどの希望しかなくても、それに気づくことができれば、きっとそれは幸せなことだとも……。


 ヒトが滅亡しかけたこの星で、ヒトがヒトのためにできることは限られている。だから自分が何とかしなければいけないのだと……。彼女の強い意志がきっとこの世界を救うことになるのだと、僕はそう信じるより他なかった。


『矢部君、わたしはドローンが、いったい何のために存在しているのか、少しだけ分かったような気がしているの』


 いつだったか、彼女はそんなことを言っていた。まだ、僕らが学生だった頃の話だ。進化生物学を専攻していた彼女は、ドローンもヒトも、あるいはこの星の全ての環境そのものが、一つの大きな生命体なんだと、そんなふうに説明してくれた。


『例えば、風邪をひいたらヒトの体はどんな反応をするのか分かる?』


 風邪のウイルスを排除するために、生命の体内には免疫と呼ばれる機能が備わっている。『今時、そんなことは小学生でも知っているよ』なんて返した気もするが、彼女の考えは、僕の予想を少しはずれていた。


『排除される細菌やウイルスも、広い意味で生命だよね、きっと。ウイルスが生命かどうかについては、議論の余地があるかもしれない。だけれど、ドローンがヒトを排除するのと、ヒトの免疫機構は何が違うんだろうって、そう思うの』


 体内に侵入してきた異種の生命体を排除する機能、免疫機構。それはこの世界でドローンがヒトを排除していくのと一体なにが違うのか……。結良はそのことについて、ずっと考え続けていたんだ。


 星は一つの生命体として、星が存続するために様々な環境変化を絶えず引き起こしている。ヒトがこれまで作り上げてきた文明も、ドローンの誕生も、全て星の意志だだったのではないかと、彼女はそう言った。生命を育む星、≪地球≫。そうでは無くて、その地球そのものが大きな生命体なんだって。


『だからね、ヒトがどう生き残るかなんてことよりも、もう少し違った角度で生命について考えなければいけないんじゃないかって思うんだよ』



「君は星の一部だから」


 そう言って、結良の姿をした何者かは、ゆっくりと階段を上がって行った。その先にはシャットダウンされたはずのクラウド型人工知能 ティアマトが眠っている制御室がある。


 ティアマトとは、国家の政治的判断を、功利原則に基づき、合理的かつ迅速に執行するシステムである。今から半世紀以上前に実用化されたシステムで、ネットワーク上にクラウドとして存在し、国内のあらゆる端末、電子機器と相互通信をしていた。

 

 しかし、ヒトの身体能力を大幅に向上させる強化外骨格との接続実験の折に暴走し、それがきっかけでドローンが生み出されたという。まさにそのドローン誕生の地がこの場所だったというわけだ。


 三階は大きなホールのような空間になっていて、天井は高く、部屋の中央にガラスのような透明な物質でできた、巨大な円筒形の設備があった。おそらくティアマトと呼ばれるシステムはあの中にある。


「止まりなさいっ、仁美結良。いえ、あなたはヒトどドローンの完全な融合個体」


 透明な円筒形設備の真横から、自動小銃を構えた坂上と、拳銃を手にした村沢がゆっくりこちら側に歩いてくる。


「融合個体……って、ヒトとドローンのか」


 かつてマウスや犬でそんな実験をしていた優秀な研究者がいた。しかし、ヒトとの完全な融合個体など理論上は成立しえない。ドローンはヒトを排除はしても共生などはありえないはず……。


――いや、そうではない。


『ミトコンドリアって知っている?』


 そうだ、ミトコンドリアだ。結良が地球こそ一つの生命体と考えたその背景には、生物学者、リン・マーギュリスが提唱した細胞内共生説がある。ヒトの細胞内小器官であるミトコンドリアや、植物に存在する葉緑体は、細胞内共生した他の細胞に由来するのだという説だ。いわば、ヒトは別の生命体、ミトコンドリアとの融合個体なのだ。


「ワタシはドローンでもヒトでもないわ。ましてやあなたたちが言う融合個体でもない。それは共生と呼ぶべきもの。星が求めた役割の一つ。そして、星の意志そのものよ。それをさらに具現化する必要があるの」


「いずれにせよ、ティアマトは渡さない」


 円筒形の設備に近づいていく融合個体に向けて、村沢は拳銃を両手に構え直す。


「ヒトがティアマトを生み出したことも必然。それさえも星の意志なのよ」


――act.7:『生命のかけら、そして共生』

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