進化としての理性、そして狂気

『矢部君、黙っていてごめん……』


 ゲゼルシャフト移行プログラムが開始される前日になって、結良は初めて一号被験者の適正判定が下されたことを教えてくれた。僕が彼女に対して返すことができた言葉は、限りなく少ない。ただ、前日になるまで言えなかった彼女の気持ちも分からぬでもない。自分だったら、きっと強い迷いが生じるだろう。大切な人に決断を明かすとは、そうした葛藤をあらかじめ封じ込めたうえで、感情を消去する作業が必要なんだ。


『ドローンの行動を規定している特殊意志、そのデータ化が成功すれば、ドローンの行動そのものを予測し、あるいはそれに対抗できる何かを作ることができるかもしれない。だから私は行くよ』


 誰しもが記憶を失った状態で、訳の分からない施設に隔離されるなんてことは御免こうむりたい。それでも誰かがやらなければいけない。そんな状況の中で結良の決断の中に含まれていた主体性は、一体どれほどだったろうか。


――決断は、たとえ能動的に見えても、主体性は消えかかっていることの方が多い。


 人工灯が夕暮れを演出し、もうじき夜間帯を迎えようとしている街並みが僕は嫌いじゃない。まやかしの夕暮れ時なのだろうけど、そこには色彩豊かな光景が広がっている。どんな世界も多かれ少なかれ、幻想と信憑の確信構造で成り立っているのだと、誰かが言っていた。誰だったろう……。もうだいぶ昔のことだ。


 でも、確かにそうだなと僕も思う。社会も国家も、ある種のイデオロギーと何ら変わらない。


 田邊重工を退職し、近畿に移住してからしばらくは、仕事もせずに、一日中部屋に閉じこもっていることが多かった。そんな生活が一か月も続くと、ヒトは暇と退屈に耐えられなくなる。


 時間を持て余した僕は、官庁街の裏手に広がっている居住層に良く足を運んだ。土壌の関係から平坦な土地を確保することができなかったらしく、起伏の激しい狭い区画に、所狭しと低層居住区画が立ち並んでいる。狭い路地が低層の建物と建物の間を縫うように走っていて、ところどころに小さな公園が設置されている。ふと、視線をあげれば居住層の向こう側に、灰色の官庁街がその姿をのぞかせている。


「ここにいたのね」


 そんな公園のベンチに座る僕の後方から、ゆっくり近付いてきた足音がピタと止まる。端末の位置情報でモニターしていたのだろうか。僕に声をかけてきた村沢を振り返る。


「あまり良い趣味じゃないですよ、村沢さん。ヒトの行動を監視しているなんて」


「私は元監視管よ。もっとも、できそこないの監視官だったけれどね」


 いつも隙のない村沢の表情が少しだけ曇っていくのが意外だった。経済産業局特定公安監視官。確かに彼女の性格には、お似合いの役職だ。一般意志の適正判定もあながち軽視できない。


「なんの用ですか?」


「明朝出発よ。今日は早めに休んだほうがいい」


ただ、それだけを言いに、ここまで来たのだろうか……。


 一週間前、生外研の近隣で消息を絶ったクラウドタスクフォース。彼らのゆくえを探索するための特別チームが編成され、明朝には関東に向かう準備が進められていた。どうやら僕もそのメンバーの一人ということになる。


「関東にはもう戻らないつもりでいたんですよ……。何と言うか、あそこにいると……。そう、例えるなら、油断をしてしまうと過剰な過去や未来が現在を覆い尽くすような、そんな場所なんですよ、関東という場所は」


 時間の流れは明確に今と過去を切り分ける。あの場所には思い出したくもない過去が多すぎた。それに、過去は、本来、僕らがそこから何かを学ぶために存在したのではないはずだ。過去から学べ、なんていうのはハッタリだろう。過去は何も教えちゃくれない。だから過去の時間性が入り込んでくるあの場所には、できる限り近づきたくないんだ。


「一級社員はもうあなたしか生存していないのよ」


 田邊重工の帰属登録証は生涯保存される。それはたとえ退職しても。だから、僕は役員や上級公務員の許可さえあれば、今でも田邊重工一級社員と同等の機密事項アクセス権を行使することができる。


「生外研のセキュリティーが現在も正常起動しているか分からないし、僕の帰属登録証で解除できるかも分からないんだ。過去は過去のまま。今と通じる何かはそれほど多くない………」


 生外研は閉鎖されて既に半世紀を経た全人類の文化遺産のような建造物だ。そんな遺跡のを、現代の最新技術でも開けることができないなんて、なんというか、少しばかげている気もする。まあ、確かに今思い返せば、田邊重工という会社そのものが、多少の狂気を含んでいたのかもしれない。でなければティアマトなんてシステムで国家を統治しようという発想は出てこないだろう。


 ただ、それを言ったら、今現在、この国を動かしている一般意志なんてのも似たようなものだ。ティアマトも一般意志も、そこにある正義とか、倫理とか……。どちらがより正しいのか、という類の議論の対立は、結局立場の違いに過ぎない。正義はいつだって狂気になり得るのだから。


「いずれにせよ、ティアマトが再起動したら大変なことになる。経産局のホストコンピューターにティアマトが接続されたら、それこそ、あらゆるシステムがドローン化する可能性だってあるわ」


 エンフォーサーの行動原理だって書き換えられてしまう。経産局が最も恐れているのはそういうこったろう。エンフォーサーは、常に一般意志に従うがゆえに、人類にとって永続的に脅威にならない存在なのだ。


「でも消失したクラウドタスクフォースが、今現在も生存し、かつティアマトを再起動させようとしているなんて、とても考えられないんですけどね」


「原理的な可能性と実際的な可能性は区別しなければならないわ」


 村沢はそう言うと、僕の隣に腰かけた。この国に残された数か所のインターシティーには、未だエンフォーサーが配備され続けているし、実際に稼働している。確かに、そいつらが全てドローン化したら、その時こそ人類は完全に排除される運命にあるだろう。


「村沢さん……。そもそもドローンってなんなんですか?」


「呼び名は時代とともに様々。生命個体だったり、生命外個体だったり。でもね、もともとはヒトの身体能力を飛躍的に向上させるために開発された強化外骨格よ。それがティアマトと共に人の意志を乗っ取り暴走したのがドローンの始まりだと言われている」


「強化外骨格……」


「ヒトはその身体能力の向上と言う欲望を潜在的に持っているのよ。自動車はなぜ作られたのか? 双眼鏡や望遠鏡はなぜ生み出されたのか。あるいは、なぜ飛行機は開発されたのか……考えてみたら良いかもしれない」


 歩くより、そして走るよりも早く移動すること。自分が見えている景色のもっと先を垣間見ること。地上を歩くよりも、空を舞うこと。


「ヒトの身体能力の限界を超えて、なおその先に行くことこそがヒトの潜在的な欲求、あるいは文化的な動機とでも?」


「そう。ヒトの文明、文化の発展とはすなわち、身体能力の限界へのあくなき挑戦の結果なのよ。最終的に死をも克服した存在、ある意味でそれがドローンとも言えるかもしれない」


「ドローンがヒトの進化形……だと言いたいのです?」


 進化なのか、ただの変化なのか、いずれにせよヒトは終わりのない旅に巻き込まれている。これまでのヒトの歴史を振り返る限り、理性とは狂気の一種なんだと思う。そして狂気が怪物に進化するとき、そこにはむしろ神秘と呼ばれる何かが垣間見えるのかもしれない。


「ヒトとドローンの違いを明確に選り分ける根拠なんて、もうこの世界にはあまり存在しないと考えた方がすっきりすると思わない?」


――act.3:『進化としての理性、そして狂気』

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