またいつか、同じ空を見よう

「エスアドレナリンの濃度が徐々に上昇している。予想通りだけど、ドローン化の進行は残念ながら食い止められない。このままソラゾミブを投与し続けるメリットはあまりないわ」


 村沢はさっきから端末モニターをずっとにらみ続けている。表示されている生理活性物質の変動データはマウスのものでも、リクのものでもない。それは奈津の血液中の生化学的パラメーター。数々のパラメータ変動をリアルタイムで見てきたが、これほど残酷な記号はない。


「次に目を覚ました時が、彼女が彼女でいられる最後の時かもしれない………」


 それはこれまでの研究成果からほぼ間違いなく言えることだった。ソラゾミブ投与マウスでは、エスアドレナリンが血液中から検出されて、数時間で完全にドローンとの融合を完了することが分かっている。ヒトであれば多少、進展速度が落ちると予測できるが、それでも一日、二日ということろだろう。


「念のため、クロルプロマジンを投与しておく?」


「いや、いい」


 クロルプロマジンの鎮静作用は強力だが、錐体外路症状のような副作用も出やすい。そんな症状で奈津を苦しめたくない。そもそもクロルプロマジンを投与する意義というのは、非検体のためと言うよりは、実験をするヒトの安全性を高めるためである。奈津の治療と言う観点において、臨床的な意義は全くないのだ。


「村沢、お願いがある。奈津と二人にしてくれないか?」


 村沢は、はっと表情を曇らせた。かつて僕に良く見せたその表情は、彼女の厳格な性格による価値判断と、情動に基づく価値判断が入り乱れたときに生じる。そう、葛藤ってやつだ。


「それは……服務規程違反になる」


「頼む……」


「私は経済産業局から派遣されてきている正規の特務監視管よ。この研究が終了するまで監視の任務を放棄するわけにはいかないの」


 彼女の理性は極めて厳格だ。だから、これまでにも抱いている価値観に、彼女と大きなずれを感じることは多々あった。今も昔もそれは変わらない。結局、僕らは価値観のねじれを解消することができないまま、互いに別の道を歩み始めたんだ。


「じゃ、なぜ、奈津の安全を守れなかった? お前の任務とやらは、ただただ監視をすることだけにあるのか?」


 素直に捉えることができい論理が信念になりそうな時、僕はとても苦しみを感じる。それは村沢だって同じはずだ。ヒトの情動ってそういうもんだろう? ヒトがヒトである理由はその苦しみの中にこそ存在している。奈津は僕にそんな大切なことを教えてくれたんだ。


「すまない……誰のせいでもないのに」


 空気が重い。苦手なんだ。空気の重さは直接心にのしかかってくるから。押しつぶそうという意志を宿して迫ってくる空気を、懸命にはねのけようとしても、それはつかみどころがないくせに抵抗を持っている。


「稲守君、これを」


 しばしの沈黙の後に、村沢は僕に灰色のペン型の何かを放り投げてきた。それを両手で受け取る。小さいわりにはずしりと重たい。


「塩化カリウムの簡易注射キットよ。ミリリットルあたり一当量の塩化カリウムが入っている高濃度製剤。キット内には薬剤が10ミリリットルしか入っていないけれど、それで確実に生命活動を停止させることができる。私はソラゾミブを溶解する生理食塩水を取りに薬品庫まで行ってくるから、その間しっかり彼女を監視しておくように」


 監視カメラをちらりと見た村沢は、あとは何も言わず実験室を出ていった。


「すまない村沢……」


 ベッドの脇にある床頭台にノート型端末を置いて起動させる。防護服を着ているとなかなかに操作しづらいが、端末のハードディスクがウインと音を立てて起動し、モニターがゆっくりと点灯した。


 拡張現実アクアリウムの映像出入力端子を端末につなぐと、内蔵されているプロジェクターから発せられた光が、強化ガラス壁面に大きな水中映像を写し出した。スクリーンを強化ガラスの壁面としたことが、写し出された映像の幻想性をより高めている。そのスケールは想像以上で、まるで水の中にふわふわ浮いているようだ。


「先生、それなに?」


 ゆっくり瞼を開けた奈津が、青い光に包まれたこの空間を見渡している。


「ああ、起こしちゃってごめん。これは拡張現実アクアリウムってやつだ」


「アクアリウム……。すごく、きれいだね。あ、小さな魚が」


 奈津の指さす方向から、オレンジの体に白の縦縞をまとった小さな魚の群れが僕らの目の前を通り過ぎていく。手を伸ばせばつかめそうなほどのリアリティに思わずため息が出る。


「あれはクマノミだよ。とても綺麗だろう?」


 海底の岩場には、紫とピンクの色をしたイソギンチャクのようなものが緩やかな水の動きにユラユラ揺れている。海面からの光は、すっと水中を延びてきて世界を柔らかく包んでいく。


――世界はこんなに美しいのに、僕には光が見えない。


 命は美しい世界に輝く光なんかじゃない。そうではなくて、闇の中で孤独に輝き続ける光なんだ。ニーチェはこう言った。『昼の光に、夜の闇の深さが分かるものか』と。


「先生、なんだか寒い」


 しばらく幻想的な光景に見とれていた奈津だったが、寒気を感じているのか、両腕を体の前に合わせて、小刻みに震えている。僕は防護服を脱ぐとベッドに上がり、奈津を後ろから抱きかかえた。


「もしボクが凶暴になって先生を襲ったらどうするの?」


「しばらくこうしていよう」


 僕がなんとなく疲れているとき、奈津は何も言わずに僕を後ろから抱きしめてくれた。『しばらくこうしていてあげるよ』って。


「先生、カツオは見れなかったけど、こんな素敵な世界を見ることができて良かった」


「カツオだって見れるさ、きっと」


「幸せだったよ。稲守先生。幸せだった。ボクは先生に出会えて本当によかった」


「まだまだ、これからたくさん、一緒に……」


 言葉が出てこない僕の手を奈津がそっと握ってくれる。暖かった彼女の手には、もうそれほど体温が維持されていなかった。涙が頬を伝って、奈津の髪を濡らしてしまう。


「先生は意外と泣き虫なんだから」


 奈津は僕を振り返り、冷え切った手でそっと頬を拭ってくれた。


「ボクのために泣いてくれてありがとう」


「奈津……」


「もうこれで終わりにしよう。ボクがボクじゃなくなってしまう前に」


 奈津の震えは徐々にひどくなってきている。僕は生命体が完全なドローン化を遂げる直前の状態を知っている。マウスがけいれん発作を起こしている姿を何度も見てきたから。この震えは寒気によるものなんかじゃない。


「先生の前ではずっとボクでいたいんだ。だからお願い……先生」


 僕はペン型の注射キットを左手に掴み、安全キャップを口でくわえて外す。通常よりもやや太いシリンジ内部は黄色く染めらた高濃度塩化カリウム溶液で満たされていた。


「奈津、またいつか、同じ空を見よう」


「うん」


 そう言った奈津の声は、もうかつての奈津の声では無くなりかけていた。闇色の金属様物質が奈津の上半身へゆっくり延びてくる。


「すまない……」


 僕は左手に持った注射キットを拳の中で握り直し、そのまま奈津の鎖骨下に突き立て、一気にシリンジを押し込んだ。痛みを感じるほどの意識が残されていただろうか。それでも、彼女の小さな体から少しずつ、震えが消えていく。同時に僕の右手をつかんでいた奈津の手から力が抜けた。


 ユラユラと水の中を抜けていく青い光が白いベットに光の影を作り出していく。なぜ命は儚いと形容されるのだろうか。その答えが少しわかった気がする………。


儚さというものは、いずれ最終的に実現されるであろう非存在の可能性を示すものだから。


「これがなんだかわかるか、稲守」


 南関東州立大学医学部、第Ⅱ臨床薬理学研究室は今月末日をもって第Ⅰ臨床薬理学研究室と合併することが決定された。BSL4施設も再び閉鎖。そして僕は大学に退職願を出した。学部長は考え直せと言ってくれたが、奈津と過ごした時間をあまりにも共有しているこの場所は、僕にとってはある種の残酷性をまとっていた。


 だからと言って、今更、経産局の御堂を頼るわけにもいかない。しばらくは仕事もせず、のんびりしようかと考えていた矢先だった。


「さあ、分からないよ。何かのメモリーチップなんだろけど」


 村沢を含め何人かの経産局技官が急遽、近畿インターシティ-へ出向することが決まり、同局は深刻な人材不足に陥っていたのだ。そんな中、堂は懲りることなく、僕を訪ねてきてくれた。


「長瀬奈津の情動アクティビティをデータ化したものだ」


「………!?」


 情動アクティビティとは、人それぞれの感情表現の傾向性を客観的な数値で示したデータの総体である。一般意志に対して特殊意志と呼ばれることもあるが、ヒトの特殊意志は、時に残虐性や強い欲望を帯びていることもあり、データ化をすることは原則禁止されているはずだった。


「個人の特殊意志をデータ化することは禁止されているんじゃ……」


「正確には生存しているヒトの特殊意志のデータ化が禁止されているだけだ。さらに言うと、この件に関しては経産局の承認も受けている」


「どういうことだ?」


「以前にも話したろう? エンフォーサーに感情をインストールするという話だ」


「長瀬奈津の感情をレシアス級に……」


「概ねそう言うことだ。どうする稲守? 」


 経済産業局 エンフォーサー整備技官1級、御堂が机の上にトンっと置いた僕の新しい名刺には、そんな文字が並んでいた。


――Fin:『またいつか、同じ空を見よう』

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