しばらくここにいるよ
昨日まで、ビーグル犬とドローンの融合個体、リクがいた強化ガラスの向こう側には、無機質な部屋とは似つかない真っ白のベッドとシーツと点滴台がおかれている。その傍らには村沢の姿が見えた。僕がいないわずかの間に、研究室は大きく様変わりしてしまった。
村沢は、宇宙飛行士が装着しているような防護服に身を包み、ソラゾミブの点滴バックを静脈ルートに接続していた。そのルートの先にあるのは、白いシーツから覗く、同じく白くて、そして細い腕……。
「どうして……」
思わず強化ガラスに拳をぶつける。村沢は音で気づいたか、僕の方を振り向くと、ヘルメット越しに軽く首を振って、そこで待っていてと言うように手をあげた。
「もう少し早く、その可能性に気づいていれば……」
このBSL4施設の入り口には、田邊重工の保安要員の他、青い瞳をしたエンフォーサーが、対ドローン用の兵器イーリスを構えて立っており、事態の重大性を思い知らされた。もう国家レベルで対応せねばならない非常事態なのだ。
強化ガラスとこちら側の区画を隔てる侵入通路の隔壁から、シューと空気が抜ける音がして、セキュリティーランプが緑に変わる。コツコツという足音と共に、まるで宇宙船から帰ってきた飛行士のような姿の村沢が、ヘルメットを脱いで、それをデスクの上にゴトンと置いた。
「今は寝ているようね。でも彼女の残された時間はそれほど多くないわ」
それはほんの数時間前の出来事だった。僕が駅待合室で御堂と話をしていたころ、この場所で奈津は、いつものように強化ガラスの外に出されていたリクに近づき、その背中を撫でていたらしい。すっかり奈津になついていた(ように見えた)リクが、まさか一瞬のうちに狂暴化するとは予想できなかったそうだ。
退行していたかに見えたあの鋭い犬歯は、実際には歯肉の内側にめり込むような仕方で隠されていたという。つまり、あの矢部と言う男の懸念が見事に現実化してしまったといっても良い。
リクは意図的にヒトになついているふりをしていた。ヒトを排除する機会をずっとうかがっていたのだ。それは、もはや生存を目的とした生命個体ではない。ヒトを排除することのみを思考している生命個体。
「攻撃性を隠す知性を手に入れた……。リクは、潜在的にヒトを排除することしか考えていなかったんだ。ドローンとはそもそもそういう生命固体であると言うことに、なぜこれまで気づかなかったんだろう……」
関心のないところにこそ重要なものがある。そう師匠は言っていた。ドローンを飼いならすことばかりに関心があった僕には、ドローンが知性を宿す可能性なんてことにまるで関心がなかったのだ。
リクの巨大な犬歯は、奈津の頚部に深く食い込み、彼女は大量に出血したのだという。通常であれば間違いなく即死だ。しかし、同時にリクの背部から分岐した闇色の金属様物質が、彼女の下肢を包み込んでいったそうだ。上半身は奈津の体を残しているが、下半身は既に金属様物質で覆われており、それはもやはドローンと言っても差し支えない。
「あれで彼女が死亡していないということがどういうことなのか、稲守君にも分かるでしょ? もう手遅れなのよ。ドローンと融合しているからこそ、彼女は今でも生きている」
リクは体内に埋め込まれた、遠隔式の薬剤静注システムによって、塩化カリウムを急速静注され、そのまま動かなくなったそうだ。わずかに痙攣しているリクの頭部に村沢が拳銃を発砲。田邉重工の保安要員から報告を受けた経産局は、非常事態宣言を発令してエンフォーサーをこの研究室へ派遣した。
「ソラゾミブの効果は?」
奈津がドローンと融合した直後から村沢の手によってソラゾミブの投与が開始されていた。ただ、その効果がどれほど期待できるものなのかについては、正直なところ微妙だった。マウスでの実験では、ごくわずかしかドローン化の進展を抑制できなかったのだから。
「比較対照がないから、正直よく分からないわ。ただ一つ言えるのは、ドローン化は確実に進行していると言うことよ。彼女の血液サンプルからはエスアドレナリンが検出され始めているし、それは徐々に増えている」
エスアドレナリンはヒトには存在しない物質である。それが奈津の体内で生合成されているということはドローンとの融合はもはや疑いのない事実であった。
「先生?」
強化ガラスの向こう側に設置されている集音マイクが拾ったのは奈津の声。昨日も聴いた声のはずなのに、もうずいぶん奈津の声を聴いていない気がした。僕の頬を伝っていた水滴を、奈津に気づかれないようにこっそり拭うと、強化ガラスの向こう側へ視線を向ける。
ベッドから上半身を起こしている奈津は、とでもドローン化しているようには見えなかった。悲しさと悔しさと、後悔の念が入りまじった僕の顔を見て、奈津は笑った。
――なんでこんな時でも笑っていられるんだ。
「先生ごめん、へましちゃった」
僕は強化ガラスに駆け寄ると、脇に取り付けられたマイクへ向かって奈津へ話しかける。
「奈津、今からそっちに行く。あんまり無理するな」
「稲守君、危険よっ。いつ完全にドローン化するか、分からないのよ」
後ろで声を荒げる村沢が僕を制止する。非常事態宣言が出ている以上、民間人とドローンの接触リスクは回避すべきという監視管の服務規程でもあるのだろう。彼女の立場を察するに、僕を止めるのも分からなくもない。だけれども感情が常に先走ってしまう。
「君だって、中に入っていたじゃないか」
そう言って、肩を押さえつけられた彼女の手を振り払うと、強化ガラスの向こう側に続く、侵入通路を目指す。
「私は医者よ。あなたとは違う」
そう、村沢は医者だ。とても優秀な。目の前で、起こった信じられない状況を前にも、君は取り乱すことなく、冷静にリクの息の根を止め、応急処置として、ソラゾミブを奈津に投与してくれた。本当に感謝している。
「僕にとっての奈津と、君にとっての奈津とは違う」
ふうっとため息をついた村沢は「あそこに防護服がもう一着あるから」と言って侵入通路を指さした。
「すまない。ありがとう」
強化ガラス内へ向かう侵入通路は三重の隔壁になっていて、一つ目のセキュリティーを解除すると、エアーシャワールームに入る。ここで対ドローン用防護服を装着するのだ。防護服は防護層、断熱層、冷却層という3層構造になっていて、構造も外見も宇宙服とそれほど大きな違いはない。
「先生、なんだか宇宙を探検しているみたいね」
そんな僕の姿をみて奈津は起こしていた上半身をベッドに横たえる。やはり上体を起こし続けているのはつらいのだろうか。
「大丈夫か?」
「うん、不思議と痛みはないんだ」
ベッドのすぐわきに立ち、彼女の額に触れ、そのまま髪を撫でる。
「すまない、奈津……」
「なんで……。先生が謝ることじゃないよ。ボクが迷惑かけちゃった。先生の大事な研究だったのに」
瞼を閉じた奈津の目元から涙がこぼれ落ちていく。涙をぬぐうように彼女の頬に触れる。グローブ越しだが、彼女の温もりが伝わってくるような気がした。
「気にしないで」
「先生? なんだか、すごく眠いんだ。薬のせい……かな」
ソラゾミブに傾眠の有害反応があるという客観データは得られていなかった。リクが実験当初、傾眠傾向を示していたのは併用していたクロルプロマジンの影響だったと考えられている。
「村沢から治療経過は聞いたよ。薬の効果は順調だ。君をドローン化なんてさせない。きっと大丈夫」
大丈夫ではないことを彼女は知っている。ずっと同じ研究室で実験をしてきたのだ。それでも微かな希望にかけたい。たとえ小さくても希望を見失いたくない。
「先生?」
奈津の瞼がゆっくり開かれる。瞳はやや赤みを帯びているのがはっきりとわかった。そんな奈津の瞳をみて、動揺せざるを得ない。
「うん?」
今の彼女に、動揺を悟られないように。それくらいなことしかできない己の無力さに………だがどうしても希望を見失いかける。
「水族館はさすがに、いけないよね……」
「奈津……大丈夫。水族館はいけなくても、水の中の生き物は見ることができる。そんなお土産を買ってきたよ」
「お土産?」
「ああ。後で一緒に見よう」
奈津は口元に笑みを浮かべると、「何だろう、先生。やっぱり、すごく眠いんだ」と言って再び目を閉じた。
「無理しなくていい。しばらくここにいるから。ゆっくりお休み」
――act.8:『しばらくここにいるよ』
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