情動のコントロールとカツオ

「敵意のディメンション、短気のディメンション、身体的攻撃のディメンション、いずれも統計学的有意な低下を示しているわ。まずまずの成績よね」


 腕組みしながら強化ガラスの向こう側の被験体を眺めていた村沢はそう言って、端末のモニターに視線をおろした。攻撃性のスコアは敵意、短気、身体的攻撃の三つの次元ディメンションで構築されており、それぞれ単独の評価に加え、総合的なスコアも考慮に入れる。


 モニターには一カ月のスコア変化がディメンションごとに折れ線グラフで表示されていた。僕らは被験体となったビーグル犬にと名前を付け、ドローンとの融合後、14日目からソラゾミブに加え、クロルプロマジンの投与を開始した。クロルプロマジンはヒトでは統合失調症に用いられる薬剤であるが、強力な鎮静作用を有し、ソラゾミブの効果を補完するものと考えられた。薬物投与開始から2週間で、三つのディメンションでスコアが減少し、当初懸念されていたクロルプロマジンによる錐体外路症状も出現せず、今のところ実験は順調と言えた。


「明日からクロルプロマジンを少しずつ減量してみよう」


 僕は遠隔操作でリクのゲージ内にいるマウスを回収した。マウスのドローン化実験では攻撃性の惹起になるものをゲージに入れていたが、リクの場合はマウスそのものを攻撃性惹起に用いていた。薬剤投与前のリクは、目の前にマウスが置かれるや否や、一瞬でその小さな体をかみ砕き、そのまま口にくわえてぶんぶんと振り回すと、やがて血まみれの遺骸を床放り投げ、足でもみくちゃにしていた。


 ところが薬剤の投与を開始すると、徐々に身体攻撃性が低下し、今ではマウスを目の前にしても敵意スコアすら上昇を認めない。そもそも関心がないのか、マウスがリクの背中に乗っても無反応だった。以前なら急上昇していた血圧や心拍数にも異常を示さなくなり、あのアドレナリン様物質(僕らはエスアドレナリンと呼んでいたが)の血中濃度はソラゾミブ投与5目に極端に低下した。


「血清エスアドレナリン濃度と総攻撃性スコアにはやはり正の相関がみられるわ。クロルプロマジンを中止しても問題ないでしょう。稲守君、君の仮説は多分、間違ってない」


 仮説……。そうあらゆる理論は仮説にすぎないし、だからこそ、その仮説に基づいて実証実験を行う。ただ、こうした実験の観察には常に理論的負荷がかかる。観察というものが成立するためには背景にある理論に依存せざるをえないからだ。


 仮説が誤っていないと考えることは、観察を都合の良いように解釈してしまいやしないだろうか……。むしろ前提は一度疑っておいた方がいい。そう言っていたのは誰だったろうか………。


「先生、あの子、まだ目が真っ赤なんだけど、あれも治るのかな」


 実験室の隅っこで膝を抱えて座っていた奈津はそう言って立ち上がると、強化ガラスに歩み寄った。以前ならヒトが近づくだけで、ガラスに体当たりを繰り返してきたリクは、今ではおとなしく、床に腹ばいになってこちらを見上げている。


 確かに顔面の相貌は、未だドローンの特徴を残したままだ。今後、ソラゾミブによるエスアドレナリンの生合成阻害がどのような効果をもたらすか未知数である。現段階で答えられる回答はそう多くはない。


「もう少し飼いならしてみないと、何ともいえないな」


「でも、なんかこう、かわいいよねぇ。よく見ると」


 奈津はそう言って強化ガラスに顔を押し付けてリクを眺めている。もともとビーグル犬だったリクはドローンとの融合直後、その愛くるしさを失っていたが、ここ最近はかつての面影を取り戻している感じすらあった。


 程なくして、奈津に見つめられていたリクはゆっくり立ち上がると、彼女の方へ歩き出した。


「お、おい。気を付けろよ」


 思わずそう言ってから、あの強化ガラスがこの実験設備の壁並みに堅牢なのを思い出した。そろそろと奈津に近づいたリクは、そのまま彼女の目の前に座り、驚くべきことに尻尾を振り始めたのだ。それは子犬がうれしくて仕方ないように勢いよく尻尾を振るようなしぐさではなかったが、明らかに好意を示す振る舞いに見えた。


 奈津は驚きの表情で、僕と村沢を交互に見ると、尻尾を振っているリクを指さして「すごいっ」と小声で言った。


「信じられないわ……」


 村沢も驚きの表情を隠せない。やがてリクは飽きたのか、ゲージの中央に戻り、そこで床に這いつくばって目を閉じた。クロルプロマジンの鎮静効果も影響しているのかもしれないが、リクの睡眠時間は長い。これまでの記録によれば、一日のうち約半分は寝ている計算になる。


「ボク、お昼ご飯食べてくるね」


 そう言って奈津はリクに向けて小さく手を振ると、強化ガラスに背を向け、研究室を出ていった。


「稲守君、今のどう思う?」


「どうって。いや信じられないと言うか……」


「そうじゃない。長瀬さんから離れた時、リクの表情が一瞬だけ変わったのよ。これを見て」


 村沢の前に置かれた端末のモニターには攻撃性のスコアがリアルタイムで表示されている。三つのディメンションの総スコアには顕著な異常は認めなかったが、個別のディメンションには小さな変化が見られていた。敵意スコアだけが一瞬だけ上昇していたのだ。


「ここよ。あの一瞬だけ敵意が増加した」


 その振る舞いから想定するに、明らかに奈津に好意を示していたリクだったはずだ。しかし、実際には敵意のスコアだけ、しかも一瞬だけ上昇していた。機材の誤作動とは思えない。だとしたら……。


「あいつ、情動をコントロールしているのか?」


 ――前提は一度、疑っておいた方がいい。

それは僕の師匠の言葉だ。


「その可能性は考慮した方が良いと思うわ。犬は私たちが思う以上に利口よ。マウスと同じように考えていたら、とんでもないしっぺ返しを食らうかもしれない」



「ええ、留守番なんていやだよぉ」


 奈津はどうも一緒に学会へ行く気だったらしい。ソラゾミブの有効性についてマウスでの研究成果を、今期の生物工学学会の演題として登録しておいたのだが、無事に採択通知が届いていたのだ。リクの実験でバタバタしており郵便物をしばらく放置しておいたのがいけない。学会への参加手続きが大幅に遅滞してしまった。気づけばもう明日という状況に、あわただしく準備をせざるを得ない。


「悪い。リクのこともあるし、奈津には研究室の留守番を頼むよ」


 リクの経過はとても順調だった。情動をコントロールしている兆候は、あの時以来見られず、村沢も「たまたまだったのかもしれない」と言っていた。


 クロルプロマジンの漸減についても問題なく進み、今ではソラゾミブの一日3回投与で、攻撃性やバイタルは正常値を維持している。幾分かリクの表情も和らぎ、突出していた犬歯も退行傾向が見られていた。赤い瞳は相変わらずではあったものの、やはりドローンの攻撃性はあのエスアドレナリンがもたらす生理作用だった可能性が濃厚であり、ソラゾミブはその攻撃性を極度に低下させる効果があることがほぼ明確となった。今回の学会発表ではリクの研究成果についても簡単に触れるつもりでいた。


「いやだっ!」


「なあ、奈津。学会といっても、長期に出張しているわけじゃないし、明日の夕方には戻っている。それに出張申請が許可されたのは僕一人だけなんだ。君を連れていくわけにはいかないんだよ」


 経過が順調なリクは、強化ガラス製のゲージの外に連れ出す許可も下り(もちろん村沢に加え、田邊重工のあの愛想のない保安要員の監視下の元だったが)、実験設備内の一定区画ではあったけれど、自由に歩く時間も与えられた。


「あのお姉さんに一日中監視されているなんて、いやっ」


 確かに、それは分からなくもない。相変わらず、ふくれっ面をしている彼女を尻目に、僕はノート型の端末と、これまでの研究成果の詰まったフラッシュメモリーを鞄の内ポケットに突っ込んだ。


「帰ったら、ボクの頭をいい子いい子して、んでもって、絶対どっかつれてってよっ」


 そう言えば、そんな約束していた。学会が終わったらどこかへ行こうと奈津を誘ったのは僕の方だった。


「ああ、もちろんさ。どこ行きたいか考えておいてくれ」


 荷物をまとめでデスクの上に置くと同時に「水族館っ」という奈津の声が響く。


「水族館?」


「そう。カツオを見てみたいんだ」


 おでんの出汁に使われる魚、カツオ。それは僕らが想像するよりも大きい魚類で海水の中に住んでいるそうだ。おやっさんはそう言っていた。


――act.5:『情動のコントロールとカツオ』

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