同じ物語を歩こう

 需要が供給をやや上回り、電力供給が不安定になる夕刻。関東では稼動している発電設備も限られている。だからこの大学の廊下天井に設置されている照明も三つに一つしか点灯していない。そんな薄暗い廊下の先に光が漏れているのが見える。


「まだ、いたか」


 薄明りが漏れ続けているのは自分の研究室に違いない。その確信は扉の前で現実に変わる。部屋に入ると、応接スペースのソファで薄い文庫本を読んでいた奈津が僕を見上げる。


「ルソーか?」


 奈津が手にしているのは、御堂に薦められて購入したものの、時間に追われてそのまま積読状態となっていた本の一つだ。こうした本がこの研究室には膨大に存在する。


 ルソーの社会契約論の中核をなす政治原理、一般意志。それは今やエンフォーサーの行動を規定する基本原理を構築するものとして具現化している。


「先生、遅いよ。待ちくたびれちゃった」


 扉のすぐ横にある郵便受けに手を突っ込み、中をごそごそと探ってみる。指に触れた紙をつかみ損ねないようそっと取り出すと、その量は思ったより多かった。積読状態の本たちと同じように書類の束を自分のデスクに無造作に置き、椅子に深くもたれかかると、ようやく目の焦点が緊張状態から解放される。


「先に帰っててよかったのに」


 大学事務局からの親展書類が視界に入ってしまうと、やはり開封しないわけにはいかない。再び焦点を緊張状態に戻すと、机の奥においてある筆入れを引き寄せ、そこから小さなはさみを取り出し親展書類の封を切る。


「一人で帰るのはいやだ」


 そんな奈津の顔をちらりと見ると、ちょっと機嫌が悪そうだ。そういえば、ふくれっ面のまま廊下に放置してきたことを思い出した。書類の封を開けると、奈津のBSL4施設使用許可通知と、研究プロジェクト参加承認に関する書類が同封されていた。


「先生、なんか疲れてる?」


「まあね、いろいろと……。君の申請、無事に受理されたみたいだ。明日からBSL4に入れるよ。この通知書を持っていけば、あの愛想のない守衛からカードキーをもらえる」


 あの密室空間で村沢と二人でいることにも心理的な負担を感じていたし、ビーグル犬のドローン化を目の当たりにして、これまで確かにあった信念の存在根拠を見失いそうな感覚に、途方もない疲労感を覚えていた。感情が慣れるまでもう少し時間がかかりそうだ。


 僕は他の書類に目を通す気にもなれず、再び背もたれに深く寄りかかり、目の前の端末モニターをぼうっと眺めた。焦点を合わすことさえ体力をそがれるような、そんな気分だ。


 不意に首の後ろに温もりを感じる。奈津の頬が僕のすぐ左横にあり、彼女の栗色の髪が僕の耳をくすぐっている。


「しばらくこうしててあげるよ」という奈津の声。細い腕が僕の胸元でゆっくり組み合わさっていく。後ろから伝わる彼女の息遣いに耳を澄ませながら、僕はゆっくりと目を閉じる。


 誰かの心に寄り添うということはとても困難なことだ。究極的にはすべての他者は不完全な他者でしかない。とはいえ、より多くの物語を共有する近しい他者と、より少ない物語しか共有しない遠い他者、他者はそういう仕方で存在している。そしてそれを選り分けているのは、必ずしも交わした言葉の数じゃない。


 僕の見ている風景は君と同じ風景であって、僕が過ごしているこの時間は君の感じている時間と同じもの……。そんな風に思えたのは奈津が初めてだった。


「おびえるビーグル犬を見て、僕がこれからやろうとしていることの意義を見失いかけた。なんていうか、情けないだろう? これでも研究者の端くれなのに」


 僕の首と鎖骨の付け根に、奈津は顔を押し付けてくる。なんだかくすぐったい。


「いいよ……。先生は、それでいい。それがいい」


 ソラゾミブが実用化されれば、多くのヒトを救うことができる。誤り得ない判断を求めて一歩も前に進めなくなることこそ不合理に他ならない。歩みを止めるわけにはいかないんだ。


「なあ、飯、まだだろう?」


「ご飯っ!?」


 奈津はそう言って、後ろから僕を抱きかかえていた両手をさっと放すと、横から覗き込むようにして大きな瞳をパチパチさせている。


「あ、ああ……」


 関東インターシティーと呼ばれる建造体は、ドローンから市民を守るための巨大な都市空間である。着工から約十年ほど経過しているが、まだまだ完成には及ばない。ただ、居住区画、教育施設、医療施設、官庁区画など、一部のエリアではライフラインも整い、既にヒトが生活を始めている。内部には公共交通機関としての列車も開通し、インターシティー内の人口も徐々に増えつつあった。


「いつものでいいか?」


 建設途中のビル群を縫うように伸びている灰色のアスファルト。官庁区画のメイン通りから一本奥まっただけなのに、街頭もまばらで歩く人影もない。人口が増えつつあるといっても、まだまだ建設途中の区画は多い。


「別にいいけど」


「なんか不満そうだな」


「ボクは先生とならどこでもいいよ」


 遠くで列車が走る音が聞こえている。このあたりは商業区画として構想されたエリアに該当しており、いずれあの列車の軌道もここまで延伸するのだろう。高層ビル群が完成すれば、インターシティーにおける経済の中枢になる、なんて言われているけど、あと何年先のことだろうか。


 鋼鉄製の足場や可搬型ゴンドラに取り囲まれた灰色のビルとビルの間に、目的の場所はひっそりと建っている。こんな場所に全く不釣合いの小さな木造の平屋だ。正面玄関には赤いのれんが掲げられていて『お で ん』と書かれている。いまどき木製の扉なんて珍しいが、それも情緒。扉を引くとガラガラと派手な音を立てる。


「いらっしゃいっ」


 真っ白の割烹着を来た大柄の店主が迎えてくれるこの店は、のれんに描いてある通り、おでん屋だ。店主いわく、おでんはそのうちインターシティーの名物になるんだと。


「お二人さん、相変わらず仲いいねぇ。とりあえず、そこに座りな」


「おっちゃん、いつものね」


 奈津はそういうとカウンターテーブルに腰かけた。僕は上着を脱ぎ、すぐ後ろの壁に掛け、奈津の隣に腰を下ろす。


「おやっさん、とりあえずビール」


「そうそう、とりあえずに続く言葉はやっぱりビールだよねぇ」


 割烹着姿のおやっさんは、奥から大きめのジョッキを取り出すと、そこに小麦色の液体を慣れた手つきで注いでいく。ジョッキをカウンターに置いたおやっさんは、正面にある角形の鍋に向かいながら菜箸でおでんを器用に盛り付けていった。鍋は木製の仕切りで八つくらいに仕切られていて、そこにはちくわやら、はんぺんやら、卵やらの具材が特性のだし汁の中で泳いでいる。


「なっちゃん、はい、いつもの。ちくわおまけだよ」


 そう言って、湯気にまみれたおやっさんが、奈津の目の前におでんの盛り合わせをトンっと置いた。


「おう、ありがとう」


 狭い店内にはほかに客もいない。ここのおでんが名物という地位を獲得するまでいったいどれくらいの期間を要するだろうか。とはいえ、この店の味は格別である。カツオなる魚で出汁をとった濃厚なスープに浸っているおでんたちは、形容しがたい味わいでビールに良く馴染む。


「先生はモツ煮ね」


 そうそう、その中でも、モツ煮は最高にうまい。実際のところ、おでんにどんな価値があるのかはあまり重要ではないんだ。


「なあ、奈津」


 はんぺんをくわえた奈津がこちらを振り向く。


――おでんに対する価値と呼ばれるような特徴を探すことさえも大した問題ではない。


「来月の学会が終わったら、どこか行こうか」


 奈津はまるで子犬が尻尾を思いっきり振るように、真ん丸な目をして首を何度も縦に振った。


「汁が飛ぶってっ!」


 おでんは、しかるべき物語のうちに位置付けることによってはじめて大きな価値を宿す。それが大きいほど、ヒトはその物語へと強く促されていくんだ。


――act.4:『同じ物語を歩こう』

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