心の存在を巡って

 強化ガラスの向こう側には一匹のビーグル犬がおびえた表情を浮かべて、落ち着きなく歩き回っている。村沢は机の上に置かれたいくつかの端末装置を手早く起動させ、モニターの前に腰かけた。僕の目の前にある大型モニターにも映像が転送され、村沢が外骨格サンプルを遠隔操作で配置している様子が映し出されている。


「品川を強襲したドローン個体の内核コアと表皮外装の一部で作ったサンプルよ」


 モニター越しに見えるそれは、やはり強化ガラスでできた水槽の中で、黒い金属光沢を帯びた何かと、真っ赤な有機的な組織が複雑に絡み合って、ゆっくりとうごめいていた。強化ガラスの隔壁で遮断されたビーグルとの距離はわずか一メートルに満たない。


 ビーグル犬が世界的に実験動物として汎用されている理由は、個々の遺伝的差異が小さいこと、食欲旺盛であること、小型で飼育スペースをとりにくいこと、多産であることなどがあげられる。そんなことを理由にその命をヒトに利用される。そしてそれは壮大な誤謬ごびゅうはらんだ中で行われている。怯えをその瞳に宿したビーグルを前に、マウスの実験では何も感じなかったはずの情動が僕の心を揺さぶる。


――この感情は一体なんだろうか。


「わたしたちは犬が心を持つことはかなり確かだと信じているけれども、牡蠣カキに心があるかどうかについては疑わしいと思っている」


 僕の情動を汲み取るのが早い。村沢はいつだってそうだった。だから彼女には幾度となく救われたことがある。でも時にそれが重たかった。


「デネットか? 」


 学生時代、僕らは脳科学者であり、哲学者でもあるダニエル デネットの本をよく読んだ。心の在りかについて御堂と村沢と三人で朝まで語り明かしたこともあった。御堂は、心とは社会的な相互作用に宿る主観的な現象なんだと頑なに主張していて、心なんてものは幻想に過ぎないなんて言っていたが、あれは今でも違うと僕は思っている。


「アメーバにも心があると考えていたら、研究職なんて務まらないわ」


 村沢も心の実在論にはやや否定定な立場だったかもしれない。それはとても合理的で論理的な思考。確かに、どんな種類の生物なら心を持ち得るか、という問いに対して、存在論的な回答は、明確な形では与えられないのかもしれない。犬は心を持つだろうか。ハムスターならどうか、あるいは昆虫、草木、バクテリア……。僕たちはその境界を先験的にアプリオリ規定できないだろう。となれば、やはり心は認識論的なものにすぎないのだろうか。


 ただ、心がどこにあるのか、という問いは生命とは何かという根元的な問いと不可分だと僕は思う。


「15時30分。外骨格との融合実験を開始」


 相変わらずビーグルは落ち着きなく強化ガラス製の小部屋をうろうろしている。その中に遠隔操作された外骨格サンプルがゆっくりと投入されていく。ドロリとした内側の有機的組織をくねらせ、時に外側の金属を床にぶつけるのか、ガチャリという音が何度となく響く。


 程なくして外骨格は膨張を始めた。おびえるビーグルの存在に気付いたのだろうか。そのままビーグルの背中に飛び乗ると体全体に巻きつくようにしてへばりついた。


「あれは一体どんな感覚器官で生命体を認識しているんだ?」


 目の前で繰り広げられる異様な光景に驚かざるを得ない。


「音や体温だといわれているけど、外骨格の一部が生命個体をどのように認識しているのかについては良く分かっていないわ」


 そんな光景を前にしても村沢は冷静だ。ビーグルはその小さな体からは想像もできないほど大きな声で吠え続け、苦痛に耐えきれず転げまわっている。そんなビーグルの姿を直視できずに思わず目をそらす。


「実験用の繁殖個体よ。目をそらす理由はないわ」


 動物の利益を実現することではなく、ヒトの利益を実現すること、それは生命科学の探究において、何か大きな矛盾をはらんでいやしないだろうか。


「心電図の波形、落ち着いてきたわね」


 バイタルサイン専用のモニターに表示されていた異常に高い心拍数や血圧も徐々に正常値へ移行しているようだ。ただビーグルの表情は大きく変貌していた。怯えを湛えつつも愛くるしかったその表情は消失し、真っ赤に充血した眼と、巨大化した下あご、そこから覗く鋭い犬歯が肥大化していた。


「瞳が赤い……」


「ドローン化した融合個体の特徴よね。腹部に埋め込まれている生体制御装置も正常起動している。まずは成功と言っても良いんじゃないかしら」


 融合個体の腹部にはバイタルを確認したり、血液サンプルを採取するための小型の装置が埋め込まれており、これを使えばソラゾミブも遠隔操作で投与することができる。


 僕は強化ガラスに近寄り、生まれたばかりの融合個体をあらためて見つめてみる。粗い息をしているかつてのビーグルは、下肢から胸部に掛けて真っ黒な金属様の物質で覆われ、背部は赤みがかった異常増殖細胞で覆われていた。ドローンで言うところの腹部に存在するコアが背部でむき出しになっている状態なのだろうか。


 突然、どんっ、という鈍く大きな音に僕は思わず後ずさりする。強化ガラスに体当たりをしてくる融合個体の動きは俊敏だ。


 何度も何度も体当たりを繰り返すその光景を前に僕は冷や汗を感じた。マウスのそれとは桁違いに攻撃性が増加している。犬に心があったとして、目の前の個体にはその欠片すら残されていないように思える。僕は彼の心を取り戻すことができるのだろうか。誤謬ごびゅうに満ちた実験の先にどんな希望はあるのだろうか……。


――act.3:『心の存在を巡って』

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